当たり前に朝が来て、太陽が登り、光が差し、ということがなくなる日が来ます。すでに異常気象で慌ててクーラーを買ったりしてます。…ですが、そのような対応ではどうしようもない日がきます。神様の裁きの日には人間の力や知恵は役に立ちません。その日の避けどころは唯一、イエス様だけです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4.12)聖書は何度も終わりの日の前には戦争や飢饉が起こり、異常気象があり、太陽も月も星も暗くなると預言しています。その時に救われるのは「主の御名を呼び求める者」だけです。「主はその民の避け所」(3.15)です。
(2章30-32)
わたしは天と地に、しるしを現れさせる。それは血と火と煙の柱。
主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。
(3章15-16)
太陽も月も暗くなり、星もその輝きを失う。
主はシオンからほえ、エルサレムから声をあげられる。天も地も震える。主はその民の避け所、イスラエルの人々の砦である。
「血と火と煙の柱」(2.30)は戦争や災害や地震による荒廃です。神様は裁きを行う方です。(3章2節)全ての悪に対して裁き報復し「わたしはただちに、速やかに、おまえたちへの報いをおまえたちの頭上に返す。」と言われます。(4節)ブドウを踏み、その液が流れるように、神様は裁きと怒りで人々の血を流します。その時に僕らは自分を救うことができません。
(13-14)
鎌を入れよ。刈り入れの機は熟した。来て、踏め。踏み場は満ちた。石がめはあふれている。彼らの悪がひどいから。判決の谷には、群衆また群衆。主の日が判決の谷に近づくからだ。
その日、救われるのはイエス様のところに身を避ける人だけです。「主はその民の避け所、イスラエルの人々の砦である。」(16)イエス様だけがイスラエル人にとっても僕ら異邦人にとっても救いであり砦です。
神様の裁きの後は、はっきりと二つに分かれます。祝福された世界と呪われた世界です。喜びと安全と静かさに満ちたエルサレムを中心とした地域と、荒れ果てた土地です。神様は何度も聖書を通して「私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く」と言われます。(申命記11.26、30.1、30.19など)祝福とは、イエス様のところに身を避け、イエス様の十字架の血によって赦され、きよくされ、裁きを免除されることです。それ以外に方法はありません。
(17-21)
17,「あなたがたは知るようになる。あなたがたの神、主であるこのわたしが、わが聖なる山、シオンに住むことを。エルサレムは聖なる所となり、他国人が再びそこを通ることはない。
18,その日には、山に甘いぶどう酒が滴り、丘には乳が流れ、ユダの谷川のすべてに水が流れ、泉が主の宮から湧き出て、シティムの渓流を潤す。
19,エジプトは荒れ果てた地となり、エドムは荒れ果てた荒野となる。彼らの、ユダの人々への暴虐のためだ。彼らはその地で、咎なき者の血を流した。
20,しかし、ユダは永遠に、エルサレムは代々にわたって人の住む所となる。
21,わたしは彼らの血の復讐をし、罰せずにはおかない。主はシオンに住む。」
イエス様は「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われます。(ヨハネ14.6)今日も人の力でなく、お金でもなく知恵でもなくイエス様に逃れましょう。避けどころは唯一、イエス様だけです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4.12)ハレルヤ!
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