ヨナ1章 敵を愛し、迫害する者を祝福なさる神様 11/5メッセージ
今日の聖書朗読は1章ですが、ヨナ書全体からのメッセージをしたいと思います。
●導入
イエス様の有名な言葉です。
マタイ 5:44-45
自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。
あなたの敵は誰でしょう?
使徒ペテロも同じく言います。
1ペテロ 3:9
悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。
ちょっと皆さんに質問です。はい、いいえでお答えください。
- 美しいものを愛するのと同じように、醜いものも愛することができる。
- 自分に喜びを与えてくれる人を愛するのと同じように、自分を苦しめる人も愛することができる。
- 自分の考えに賛同してくれる人を愛するのと同じように、反対する人も愛することができる。
- 自分を愛してくれる人を愛するのと同じように、自分を憎む人も愛することができる。
多分、全部「いいえ」だと思います。でも、神様は違います。自分を苦しめる人も愛します。自分に反対する人を愛します。自分を憎む人も愛します。これは自分の命を捨て、愛する御子イエス様を十字架で犠牲にして敵を、罪人を愛し救おうとなさる愛です。人間から出るものではありません。
神様にはできます。イエス様はできないことをやれ、と言われるのではなく、神様のご性質、神様の心です。私の心ではないです。聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5.5)神様は愛そのものです。神様から生まれた人限定でこの愛は与えられます。敵を憎み、許せない、私はキリストを信じた時に葬られたのだ、死んだのだ、と思いなさい、今は私が生きているのでなく、キリストが生きていると思いなさい、キリストが敵を愛しているのであって、僕ではない。キリストが愛しているから僕も愛します。キリストが苦しみを受けて命懸けで赦してくださったので、僕も赦します。敵を愛し、敵の祝福を祈ります。これはキリストの御霊の祈り、キリストの名前による祈りです。
ヨナはどうだったか?敵を許せなくて、神様に従えなくて悩み、逃げようとします。
嫌なことにはフタをする、嫌いな人とは関係を切りたがる僕らの姿と重なります。親近感がある話です。
●時代背景
ヨナはイスラエルの預言者です。2列王14章に預言者と書かれてます。
そして、ヨナの時代、イスラエルを攻撃する最悪な敵はアッシリアでした。
1,アミタイの子ヨナに、次のような主のことばがあった。
2,「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
ニネべはアッシリアの首都です。
アッシリアは比較にならないほど強い国です。アッシリヤにイスラエルは勝てるはずがありません。そのアッシリアが、この当時、イスラエルを狙って攻めてきていました。イスラエルにとって脅威、恐れです。
神様はなんと、そのアッシリアの首都ニネベに行って悔い改めるように伝えなさい、と言われます。
アッシリヤは残虐な国民です。征服する時に残虐行為を行って、周囲の見せしめにする国です。周囲の民は、恐怖によってアッシリヤに降伏していきました。今の言葉でいうならば、まさに「テロリスト国家」でした。「テロ」と言う言葉は、英語の”恐怖”という言葉から生まれました。 つまり、恐怖を与えることによって社会のあり方を、自分の思う方向へ変えていくことが目的です。そう言う国がアッシリア、その首都がニネベでした。
征服した人々の手足を切り、目を抉り出し、また捕え移す時はカギを口につけて引いて行ったり、また見せしめに生きたまま皮剥ぎを行ったりと、おぞましい事ばかりです。おそらくヨナはアッシリア人の残虐さを身をもって体験していました。イスラエルのことを愛していたヨナは、こんな酷いことをするアッシリヤが滅んでしまってほしいと願っていたのです。
イスラエルの預言者。イスラエル側につくのは当然。イスラエルは味方、アッシリアは敵です。だけど一方で、ヨナは神のご性格を良く知っていました。主が怒るにおそく、あわれみに富んでおられ、悔い改めるものを赦される方であることを、よく知っていました。
●死ぬほど嫌がるヨナ
2,「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
神様の愛の警告を与えなさい、と言われます。ヨナにとって絶対にしたくないことでした。どのくらいイヤか、というのと死ぬほどです。
ニネベに行くくらいなら、海で溺れ死んだ方がまだマシなのです。それで彼はその役目を拒否し、神様から逃げようとします。
3,しかし、ヨナは立って、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。彼はヤッファに下り、タルシシュ行きの船を見つけると、船賃を払ってそれに乗り込み、主の御顔を避けて、人々と一緒にタルシシュへ行こうとした。
神様に逆らうと、神様から隠れる、離れる、今でもよくある話です。アダムとエバも善悪の知識の実を食べた時、神様から逃げ隠れました。
神様に逆らうと教会に行きずらいとか、クリスチャンの友達を避けるのは、今も昔も同じです。罪があると神様と人を避けます。
ニネベまでは900キロくらい。タルシシュはその逆。西のはて、4000キロです。
とにかく、行けるところまで徹底的にこの役目から逃げようとしました。その前に船が出る港まで逃げます。
船に乗るためにヤッファまで歩きます。彼の故郷であるガテ・ヘフェルそこからヨッパまで90kmの道のりを歩いたことになります。徒歩で三日はかかります。ヤッファには当時の国際港があります。日本で言うなら、必死で成田まで行くような感じです。国外逃亡です。
神様から逃れるなんて無理なのはわかってます。でも、必死です。それほど嫌なのです。
なぜここまで嫌がるのか。4章に書かれています。悔い改めを伝えたら、神様が彼らを赦し、災いを思い直してしまうからです。
(4章)
2,主に祈った。「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。
この箇所を学んで僕は今のイスラエルとハマスの関係と似ていると思いました。ハマスはテロを繰り返して本当にイスラエルに対して残酷なことをし、脅し苦しめてきたのは事実です。そして、多くのユダヤ人たちはハマスを憎み、彼らは呪われるべき、死ぬべき、滅びるべき、と願っています。彼らは神の怒りにあうべきで、容赦は与えるべきではない、と思うなら、ヨナと同じ状況に見えます。
ヨナは拒否して逃げました。だけど神様からは逃げられません。神様は嵐を起こして逃げられなくします。
4,ところが、主が大風を海に吹きつけられたので、激しい暴風が海に起こった。それで船は難破しそうになった。
神様が嵐を起こして、船は沈みそうです。が、彼はそんなことはどうでもいいのです。船が沈没して自分も溺れ死ぬならそれでいいのです。自暴自棄になって船底で寝ます。
5,水夫たちは恐れて、それぞれ自分の神に向かって叫んだ。そして、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。一方、ヨナは船底に下りていて、横になってぐっすり寝入っていた。
6,すると船長が近づいて来て、彼に言った。「いったいどうしたのか。眠りこけているとは。起きて、あなたの神に願いなさい。もしかすると、その神が私たちに心を留め、私たちは滅びないですむかもしれない。」
乗組員たちはパニックです。みんな外人ですから、それぞれの宗教の神様に願います「それぞれ自分の神に向かって叫んだ。」5
それぞれの神に叫んでも嵐はやみません。このままでは沈没するとプロの乗組員たちが思いました。
あと祈ってないのは、あそこで寝ている人だけです。それぞれの外国の神様は役に立ちません。ヨナは知っていました。自分が信じている神様は、本当の神様で、この嵐を起こしたのはこの神様です。そしてこの嵐を沈めることができると知っていました。
ヨナは死にたかったので、自分からは神様に祈りません。もうどうでもいいと思って寝ています。沈んでもいいと思ってます。が、周りがそれを許しませんでした。
8,そこで彼らはヨナに言った。「話してくれ。だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか。あなたの仕事は何か。どこから来たのか。国はどこか。どの民の者か。」
9,ヨナは彼らに言った。「私はヘブル人です。私は、海と陸を造られた天の神、主を恐れる者です。」
10,人々は非常に恐れて、彼に「何ということをしたのか」と言った。人々は、ヨナが彼らに告げたことによって、彼が主の御顔を避けて逃れようとしていることを知ったからである。
11,彼らはヨナに言った。「私たちのために海が静まるようにするには、あなたをどうすればよいのか。」海がますます荒れてきたからである。
12,ヨナは彼らに言った。「私を抱え上げて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。私は分かっています。この激しい暴風は、私のせいであなたがたを襲ったのです。」
ヨナは海に投げ込まれて殺されることを望みました。 私を水に投げ込め、そうすればニネベに行かなくてすむから。そして、海も静かになるだろう、と言います。彼は徹底的に神様から逃げたいのです。溺れ死んだ方がマシです、と願っています。本当怒りと憎しみに取り憑かれてしまったヨナです。
水夫たちは、最初はさすがにヨナを投げ込むのは躊躇しました。でも、どうしようもなくなって、天地を造られたヨナの神様に祈ります。そして、本当に海に投げ込まれます。彼らは自分の神様ではなく、天地を作った神様に祈るようになりました。
14,そこで彼らは主に向かって叫んだ。「ああ、主よ。どうか、この男のいのちのことで、私たちが滅びることのないようにしてください。咎なき者の血の報いを、私たちの上に下さないでください。主よ。あなたは、望まれたとおりになさったのですから。」
15,こうして、彼らはヨナを抱え上げ、海に投げ込んだ。すると激しい怒りがやんで、海は凪になった。
16,人々は非常に主を恐れ、主にいけにえを献げて誓願を立てた。
神様は必ずご計画されたことを遂行されます。
いくらヨナが逃げても、自暴自棄になっても、海に放り込まれても、彼を死なせませんでした。
彼は、魚の口の中から陸に上げられます。
●救われる敵
3章で、ヨナは渋々、嫌々ながらニネベに行き、滅びを宣言します。
そしたら、なんと、彼らは悔い改めます。そして神様も彼らへの災いを思い直された、とあります。ヨナが一番イヤだった事態になってしまいます。
3章
10,神は彼らの行いを、すなわち、彼らが悪の道から立ち返ったのをご覧になった。そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった。
成人男性だけで12万人、女性や子どもたちを数えるなら50万人以上がみんな罪を認め、悔い改めました。それで、神様はその街を滅ぼすのを思い直されました。
これは天では、天使たちの間に大歓声が上がり、喜びが満ちている事態です。何十万という人が同時に、神様に立ち返りました。今風に言えば大きなリバイバルです。普通の宣教師なら、用いられた、宣教が成功した、感謝します、ハレルヤ、主は素晴らしい!と喜び讃える場面です。ところがヨナは死ぬほど不機嫌になりました。また、死んだ方がマシです、と言います。
4章
3,ですから、主よ、どうか今、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましです。」
もし、宣教師がこんな人だったら、想像してみてください。多くの人々が神様に立ち返りました。町中の人が罪を認めて神様に戻りました。そしたら、不機嫌になって怒って、こんなことになるんなら死んだ方がマシ、と言う宣教師です。
普通の宣教師ならあり得ないです。「罪人が救われるのを喜べないなら、すぐ宣教師なんてやめてください」と言う場面です。
神さまはこんな性格の歪んだ、自分中心で不機嫌な、扱いづらくめんどくさい人物を用います。
●イスラエルの役目、クリスチャンの役目
イスラエルが最初に神様の民とされ、祝福されたのは、彼らだけが救われるのでなく、彼らを通して、彼らが異邦人への光となるためでした。イスラエルを通して神様のみことばが人類に与えられ、救いが与えられ、神様の恵み祝福は全世界に流れます。
全ての民族が祝福される。祝福が全世界に流れもたらされるための民族がイスラエルです。
世界の人々が真の神を愛し、礼拝するために最初に先駆けとして選ばれた民族です。
ところがイスラエルの選民意識は、自分たちだけが選ばれた民だと高ぶり、他を見下し差別する者となり、周りの滅びを願うようになりました。
クリスチャンも同じように、先に、この世から神様の子どもとして選ばれました。それはこの世に光を伝え、赦しを伝え、神様の愛を届けるためです。ところがヨナと同じように僕らは他を見下し、嫌いが地です。気に入った人たちだけのところにいたい、安全なところだけに居たい、と言う誘惑に会っています。教会の中だけにとどまり、快適な教会を目指し、それで終わってしまいがちです、嫌いな人には手を差し伸べない教会になろうとする誘惑がいつもあります。ヨナと同じ欠点は僕らも持っています。
快適な礼拝だけを追求し、福音を外に伝えず、敵を愛さず、迫害するものを祝福しようとしないなら、イエス様の願いと反対です。ヨナはいつの間にかこの差別主義、内向きの姿勢を身に付けてしまっていました。
●人間の救いよりも自分の快適さ。
ヨナが見たかったのは、この町に神様からの怒りの炎が天から降ってきて崩壊するとか、ノアの洪水の時のように突然水で覆われて町も人も滅び去ってしまうことです。ヨナはニネベを見おろす丘の上に行き、40日間待って滅びが来るのを見物しようと思いました
4章
5,ヨナは都から出て、都の東の方に座った。そしてそこに自分で仮小屋を作り、都の中で何が起こるかを見極めようと、その陰のところに座った。
6,神である主は一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上をおおうように生えさせ、それを彼の頭の上の陰にして、ヨナの不機嫌を直そうとされた。ヨナはこの唐胡麻を非常に喜んだ。
めちゃくちゃ暑い中東の太陽が照りつける中で、ニネベの滅びを願うヨナです。怒りと憎しみに取り憑かれたヨナですが、そんなヨナでも神様は諦めずに取り扱って下しあます。暑さをしのぐためにいい感じの大きな植物で日陰を作ってくれました。ヨナは不機嫌で怒っていたけど、機嫌が良くなったと書いてあります。
ところが、それが枯れるとまた怒り出します。ヨナにとっては自分にとって快適かどうか、が全てです。神様より自分です。
8,太陽が昇ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は弱り果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」
9,すると神はヨナに言われた。「この唐胡麻のために、あなたは当然であるかのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」
10,主は言われた。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。
11,ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」
●適用
私たちがどこまで、この神の心と一つになれるかが課題です。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。(1テモテ1:15)」という真理の言葉にどれだけ応答できるかが、課題です。自分の敵を愛しなさい、迫害するもののために祈りなさい、とイエス様は言われます。
神様の愛は自分を捨てること、失うこと、十字架でイエス様と一緒に死ぬことです。相手のため、神様のために自分をその欲望と一緒に捧げることです。僕らのほんわかした愛のイメージと、神様が与えてくださる愛は全然違います。それはキュンとか、いい感じになることではなく、自分を苦しめる人、自分に反対する人、自分を憎む人、自分の敵のために自分を捨て、与えるものです。人間にはあり得ないものです。
肉的な愛は対象を限定します。自分の気に入った人だけを愛し、自分の気に入る環境を求めます。それ以外のものに対しては無関心になるか嫌悪や憎しみを抱きます。
自分を愛してくれる者を愛しても神様の前では何の価値もない、とイエス様は言われます。(マタイ5.46)それらは神様から出たものではなく肉の行いです。
「あなたと一緒にいるとホッとする」「気が合うから、楽しいから、喜びを与えてくれるから愛する」「自分を支えてくれるから愛する」どれもイイ話です。ホッとすることも、楽しむことも、応援されることも神様からのプレゼントです。…ですが、自分に利益があるから、という理由なら、思い通りにならないと終わります。関係が終わるどころか、逆に憎しみや争いに変わります。
恋とか愛とか、この人といたらいい感じとか、素敵とか落ち着くとか、やっぱり自分の利益、快適さです。トウゴマの葉を僕らも気に入り、それがなくなると怒ります。
自分の損得、好き嫌いです。不愉快かどうか、気に入るかどうかだけの判断は神様からの愛ではありません。こっちが平安です、とか良さそうな用語を言いつつ、本音は自分の快適さ、と言うことは教会の中でもよくある話です。敵を愛し、そのために自分を失っていく愛は、僕らからは出ない御霊の愛です。
(ローマ5章8節)
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
あり得ない愛が与えられています。そして僕らもそれができます。自分はできないけど、神様がそうなさいます。神様は愛だからだからです。(7-8)愛することは自分を捨てることです。愛することは自分の利益を求めず、苛立たず、他人の悪を心に留めないことです。肉は他人の欠点を数えます。神様の愛は与えることです。忍耐することです。裁かず、赦すことです。(1コリント13.4-7)神様は愛です。今日、僕らが神様に心も体も明け渡し、神様の愛を現す器とされますように。
あなたが愛することから恐れ逃げている相手はいるでしょうか?
あなたが求めている快適さは何でしょう。それを優先することは神様の願いでしょうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿