2023年11月1日水曜日

1ヨハネ5.14-15 必ず聞かれる祈りとは  10/29メッセージ

 1ヨハネ5.14-15 必ず聞かれる祈りとは  10/29メッセージ


※天国のロッカー


祈りが大切だと教えるためにある人がこのような話をしてくださいました。

ある人が召されて天国に行きました。ペテロが天国を案内してくれたそうです。素晴らしい場所でした。

巨大な倉庫のような場所があったそうです。そこにロッカーがあって、一つ一つのそのロッカーに名前が付いていたそうです。

で、彼は自分の名前探したらありました。「僕の名前あった!このロッカー開けていい?」と聞いたそうです。そしたらペテロ、「今はあけない方がいい」って言いました。「どうして、僕のロッカーでしょう。あけたい!どうしても見たい。」ペテロさんは「しょうがないね。じゃあいいよ。」とのことで、それで喜んで彼は自分のロッカーを開けました。中には素晴らしいプレゼントが、素晴らしい出来事が、祝福が溢れていたそうです。彼は興奮して言いました。「ペテロさんこれ何?僕に与えられた祝福?」ペテロは言いました。「神様があなたが地上に生きていた時、与えようとして用意したものだよ。そして、あなたが祈らなかったから与えられなかったものだよ。」と言ったそうです。

その人はがっかりしました。

もっと祈ればよかった。祈らなかったから、このロッカーから祝福が注がれることはなかった、と言う話です。


今日のポイントは1つです。


1 聞かれない祈り、聞かれる祈り

2 聞かれる祈りは神様と人を愛する祈り

3 罪は人間関係を壊し、愛は回復する



1 聞かれない祈り、聞かれる祈り


最初に聞かれない祈りです。


ヤコブ 4:3-4

願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。



神様を知らない人の祈りは自分の願いを神様が聞いてくれるように、と言うものです。つまり、自分の願い、計画が中心で、そのために神様が手伝ってくださいね。神様力を貸してくださいねと言うことです。主人公は私。私の計画、私の思いが中心です。祈りを利用して、神様に手伝ってもらう、神様の力をお借りする、というのが、この世の神様を知らない人たちの祈りです。


次に、聞かれる祈りです。


14,何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

15,私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。


聖書が教える祈りと言うのは、神様中心、神様の願い、神様の御心です。中心は神様です。神様と一緒に、神様のご計画を一緒に進めるための祈りです。僕が祈っているんだけど、イエス様が祈っている。僕が祈っているけど、御霊が祈っている、と言うものです。

イエス様の名前で祈る、とは、自分の祈りでありつつ、イエス様の権威、イエス様の願い、イエス様の名前による祈りです。イエス様の願いと一致するのがイエス様の名前による祈りです。私の名で求めるものはなんでも与えられるとイエス様がおっしゃいます。


僕は一年だけ高校の教師をしました。23歳の僕が保護者の皆さんにお願いのお手紙を書くことがありましたが、差出人は校長先生の名前です。僕の文章なのに、その手紙は校長先生の名前による手紙です。同じように僕らの祈りはイエス様の祈りでもあります。だから、イエス様の願いの通りに祈ります。その祈りは聞かれます。




2 聞かれる祈りとはは神と人を愛すること


文脈から、ここでの神様の願い、御心の祈りと言うのは、私たちが神様を愛し、兄弟姉妹を愛することです。

両者はセットです。


5章

1,イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。

2,このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。



神様を愛することは兄弟姉妹を愛することです。愛することは自分を捨てることです。キリストがそうされたのと同じです。

一人で穏やかに信じていればそれでOKじゃないの、と思います。愛せないし、傷つくし、簡単なことではないです。受け入れられない人がいます。家族の中にも、職場の人にもいます。僕はかつて、教会の人間関係はほどほどにして、自分と神さまの関係さえしっかりしてればそれでオッケー、他人に関わるのは必要ない、めんどくさい。そもそも人と関わるために教会に集まってるのではない、と思っていました。


それでも神様の願いは人と人が愛し合っていくことです。一人穏やかに、干渉せずに信仰生活することは、神様の命令に従うことができません。なぜなら、神様の願いは兄弟姉妹が一つになることだからです。イエス様が十字架の前、遺言のような祈り、ながい祈りがヨハネの17章に書かれています。何度も何度もイエス様は繰り返します。あなた方が一つになること、あなた方が互いに愛し合うこと、父と子が、イエス様と父なる神様が一つであるように、兄弟姉妹が一つになることを祈られました。これこそがイエス様の願いです。


その力は私たちにはありません。その愛もありません。でもイエス様にはその力も愛も無限にあります。だからイエス様の御心に沿った祈りは聞かれます。


4章

16,私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。


神様と繋がることは愛と繋がることです。私ではなく、神様が愛です。愛は神様から出ます。

ひとりぼっちでは愛し合うことができません。愛し合うことためにはどうしても集まり、互いに関わる必要があります。

神様に愛されているんだから、神の子供たちを愛しなさい、いや、神様から生まれた人はそのように愛するようになる、と断言しています。

それによって悪魔の子供と神様の子供が見分けられます、とさえと繰り返されています。これが神様の願いです。


4章

7,愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。


11,愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。


21,神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。



互いに愛し合うこと、神様を愛すること、この二つはセットです。繰り返しになりますが、一見すると重たく、面倒なことに見えるし、僕もそう思っていました。初めて神様を信じる信仰告白をした23歳のとき、同時に神様は信じるが教会は信じないと決めました。信じるけど教会には参加しない、と宣言しました。所詮人間の集まりはずるくて、腹黒くて、駆け引きがあって重荷でしかないと思ったからです。


家で、妻の(当時彼女だった妻の)助けがあって教会には行かずに一年間少しずつ聖書を学ぶ中で、神様が教会を大切にしておられることがわかり、約一年後、渋々教会に行くようになりました。でも、その頃は絶対に深入りしないぞ、面倒なことには巻き込まれないぞ、と決めていました。


でも、それは神様の願いとは真逆です。兄弟と関わらなければ愛することができません。

しかも、愛することは兄弟のために命を捨てることだといいます。


3章

16,キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。


自分を捨てるなんて無理!と思います。とこが聖書はそれは重荷ではない、と言い切ります。なぜなら、そうさせてくださるのは永遠の命であるイエス様だからです。イエス様の愛の現れだからです。


3,神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。


自分の命を捨てることは、イエス様の命に満たされることです。それは神様の願い、御心そのものです。その時に祈りや願いは神様と一つになり、願いは叶います。祈りは聞かれます。


5章

14,何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

15,私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。


僕らから出る愛ではなく、神様の愛、自分を捨てて、自分の十字架を背負い、自分は死んだものとして、神様のため、兄弟のために命をすてた時に、残るのは復活のイエス様の御霊の愛だけです。イエス様が全てを捨てて愛してくださったことは、僕らも自分を捨てて兄弟姉妹を愛することに現れます。つまり、兄弟を愛する、姉妹を愛することで、イエス様の自己犠牲の愛と繋がっていることが見えるのです。私たちはキリストの体、一人一人は器官です。


3 罪は人間関係を壊し、愛は回復する。


最初に罪を犯したアダムはそれをエバのせいにしました。神様からも人からも自分を隠そうとしました。この女が私にくれたから、私は食べたのです。私は悪くないと思い、罪は人間関係を壊しました。なんとかよく見せようと、隠そうと、いちじくで自分を隠します。

このアダムとエバの罪は子どもたちに受け継がれます。カインとアベルの間には妬み、比べあい、憎しみ、殺意が生まれ、ついにカインはアベルを殺しました。

最初から人間は責任を他人になすりつけ、自分を隠し、自分は悪くない、と言い、妬みあい、憎みあう人になっています。それが罪です。


罪からの救いとは、そう言うなすりあい、さばきあい、憎み殺し合いねたみあいからの救いです。人と距離を置き、関わらず、ごまかし、神様でなく、自分、自分が、と主張する罪からの解放です。私たちは傷つきたくないので、人を警戒します。距離を置きます。隠れます。ところが、神様はそのように互いに憎み合い、警戒し、傷つけあう闇の世界から救ってくださいました。救ってくださっただけでなく、今度は反対に、闇の中で隠れている人たちのところに、光として遣わそうとされています。


神様を愛し、人を愛するために自分を与え、自分を捨てて愛する愛を回復させ、闇の中に光として用いようとしています。子どもも傷ついています。小学生も中学生もどのグループにつくか、誰と仲良くするかで苦しみます。大人も同じです。苦しみのほとんどは人間関係です。自分を活かそう、自分が傷つかないように、損しないように、という恐れの中にいます。その闇の中から神様は僕らを救い出されました。全き愛はおそれを締め出します。つまり、イエス様が全てを捨てて愛してくださったその愛は恐れを締め出します。その愛と光は、まずクリスチャンの兄弟姉妹が愛し合うことに現れます。神様の愛は完全です。そして、それを僕らが実行する時に、それは現れ、神の愛が全うされるのです。つまり、神様の愛は、僕がそれに従って愛し合うことで完成します。聞くだけでなく実行する時に完成します。


4章

12,いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。


傷つき、恐れているこの世界に、互いに愛し、赦し、与え、忍耐する、と言う神様の愛が現れるなら、そこに神様が確かにおられる、と言うことが現れます。愛することは、ほんわかしたことでなく、キュンとすることでなく、自分をすて、忍耐し、赦し、犠牲を払うことです。


まだ苦手な人がいてもいいと思います。受け入れられない人がいると思います。それでも御心の祈りは必ず実現します。神様の御心に叶った祈りとは、犠牲を払って愛し関わることの一択です。敵を愛し、悪に対して善で返すことです。祈ったらあとは行動するだけです。


愛することは自分を捨てることです。妥協点、落とし所を探すのが愛ではありません、調整するのが御心の祈りではありません。完全に自分を捨てることです。キリストがご自分を捨ててくださったように、僕らもそのように愛することです。

イエス様は言われます。自分の十字架を負って、自分は死んだものとして、従わなければイエス様の弟子ではありません。自分の計画とか願いとか、そのような自己中な自分は死んだものとして、手放すのが御心に叶った祈りであり、御心の愛です。文脈は明らかです。イエス様の愛はキュンとか、いい感じととかいうものではないです。


自分を捨てると何もなくなってしまう不安があります。ところが、自分を捨てるときに失うのではなく、無限の、永遠の命があり、そこに平安があり喜びがあるのが現実です。イエス様の祈りと願いは、あなた方の喜びが満ち溢れることだと言われます。

受けるより与える人の方が幸いです。御霊に従う結果は平安、喜びです。


神様の命、永遠の命とは、全てを新しくし、回復させる命です。苦しめ、犠牲を払わせ、奪うものではありません。歯を食いしばって頑張れ、というものではありません。自分を手放すときに、そこに無限の命があります。人を生かす命です。自分で頑張ることとは関係ない、イエス様の命、御霊の命と愛がそこにあります。


●良いものを与えてくださる神様


御心の祈りとは、自分を手放して神様を愛し、兄弟姉妹を愛する祈りです。それは必ず実現する祈りです。

しかも、それは私たちに良いものを与える計画です。


子供が魚をくださいって言った時に誰もへびを与えないです。子供がパンをくださいって言う時に誰も石を与えないです。そんな親はいないです。不完全な親であっても自分の子供には良いものを与えたいのです。だったら私たちの天のお父さんは私たちに良いものを与えたいと願っています。カルトのように、人を利用して搾り取って苦しめていこうとする神様ではありません。


神様が子供達に与えようとするものは良いものとは、何でしょう。

このパンと石、魚とヘビの話の最後は、神様は求める人に良いものを与えてくださる、という話の最後、結論はこうです。

神様は必ず愛するものに聖霊を与えてくださる、と言い切ります。(ルカ11.13)そこには、平安、喜びがあります。御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、と続きます。



僕は、牧師にだけはなりたくなかったです。元々人と関わるのは得意ではありませんでした。他の奉仕ならなんでもします。でも牧師はどの先生を見ても苦しそうです、そう思いました。神様のために喜ばれる音楽家になりたかったし、クリスチャンとしての音楽レーベル、制作会社を立ち上げて神様と人に仕えたかったです。

でも、神様の導きは仕事を辞めて神学校に行くことでした。その時は精神的に不安定になりました。自分の体が引き裂かれる感覚がありました。3年の時、東栄教会から総会で一致して遠藤を招聘するという知らせ来た時、悩みました。神様のみことばはこうでした。人の立てた全ての制度に従いなさい。


この世の制度にさえ従いなさい、と言われている、この世の制度、権威は全て神によって立てられている、と神様が言われました。

だったら、教会の総会で遠藤を牧師にしようと決議されたことに、逆らう理由がないと思いました。喜んでとは思えなかったけど、でも、自分を捨てることが正解だと思いました。


やってみたら、従ってみたら、こんな喜びのある仕事はないと思うようになりました。もちろん先輩牧師と同じように苦しみはあります。試練もあります。ギリギリ倒れそうな時もあります。それでも苦しみの中にその根底には常に喜びと平安があります。

自分を捨てたつもりでしたが、失うものは何もありませんでした。むしろ喜びが溢れています。イエス様が言われた通りです。


つい先日召された僕の師匠である阿部牧師は徹底的に献身を教えてくれた人です。

ある神学生を卒業する前に相談に行きました。

自分としては、この奉仕をしたいし、どこどこ教会で主にお仕えしたいのですが、どう思いますか。

阿部先生はそれを一蹴しました。どこに行きたいとか、何をしたい、なんていうのは献身ではありません。

自分を手放すのが献身です。いつもそういう師匠でした。


●神と人を愛するための祈りかどうかのセルフチェック


僕らはみこころなら、と言うのをぼんやり使いがちです。

みこころなら、こうしてください、ああしてください、と言いがちです。御心ってわかんないから当たるか外れるか、と言うようなぼんやりした祈りに流れがちで、だから、10コ祈ったら2個目と三個目は御心だったから叶ったけど、あとはダメだった。御心じゃなかった残念、とか。言うかもしれない。

でも、Ⅰヨハネを読んでいくと、御心に従う祈りって、そういう当たり外れのクジのようなものではなくて、必ず100%それは聞かれるって書いてあります。「私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。」そして、その神様の願いとは、文脈から自分を捨てて神様を愛し、人を愛することです。その一択です。


必ず聞かれます。神様を愛することを選ぶこと。人を愛することを選ぶこと。和解する。許す。与える。忍耐する。犠牲を払う。自分を捨てること。自分の計画、計算を捨てて、神様に従うこと。そのように神様の愛を表すのが神様の命令であり、ご計画であり御心なので必ずその祈りは、もう叶えられました。


私たちはよく、どちらに進むか、どこに住むか、栄町か、元町か、とか、どこに就職するか、と迷う。どちらが御心か、と言う。

その時にどちらが御心ですか、と思う。

大事なのは、どちらが神様を愛することか、どちらが互いに愛し合うことか、どちらが和解し、ゆるすことか、与えることか、自分を捨てることか、つまり愛の方向に向かって祈っているかどうかが大事です。


結婚するかしないか。誰と結婚するか。神学校に行くか行かないか。いつも自分の利益損得で考えがちです。それは神様の願いと逆行しています。大事なことは、神様の願いの通り神様と人を愛する選択を祈っているかどうかです。

愛とは、相手のため、神様のために自分を捧げ、自分を失う、自分を捨てることです。これが愛だと聖書は言います。


自分を捨てて神様を愛し人を愛していきたいです。と言う事は必ず聞かれます。つまり、自分を捨てて、自分の願いを捨てれば捨てるほど、そして、神様の心、神様の願いを求めるほどに、祈りが聴かれていくってことです。その先には喜びがあります。主の祈りも同じです。

自分の思い通りでなくていいです。御心がなりますようにと祈ります。


神様の願いの通りに苦手な人を愛し、自分をのろう人を祝福することです。悪に対して善で返すことです。それを願った時にそれはもう叶えられています。


●イエス様のお手本


お手本はイエス様です。十字架の前の夜、この苦しみを遠ざけてください、と祈られました。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。と。



マタイ26.39

それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」



神様の願い通りにしてください。神様の御心の通り、神様のご計画の通りにしてくださいと祈ったんです。そして、それはすでに叶えられた、手に入れたとわかりました。苦しみと死を経験するけど、その後に復活があることも知りました。すでに聞かれたとわかりました。


だから、この御心の祈りをしたあとは、痛みと苦しみと死の中を、堂々と十字架へと歩まれました。この祈りが聞かれ、苦しみの後に、死の後に復活があり勝利があることがわかったからです。


15「私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。」


イエス様は復活と勝利を手にしています。栄光を手にしています。


●祈りは神様のみ心をこの地で実現させること


お祈りする事は神様の御業をこの地で行わせることです。神様のご計画、神様の願いが実現するために必要なのは僕らの祈りです。み心の祈りをすることは、それが地で行われるように、願うことです。神様の愛は僕らが祈り、そして従うことで全うされます。神様との共同作業です。

祈ることによって神様がご計画している世界を実現します。祈ることで僕らはそれを手に入れます。御心の祈りはそれが実現するための通過点です。神様のご計画は僕らの祈りを通して実現し、この地にもたらしていきます。

何度も繰り返しています。神様を愛すること、人と人が愛し合い、赦し会う、互いに犠牲を払い、忍耐することです。イエス様がそうしてくださったからです。神様の願いそのものです。


その祈りは聞かれます。もう聞かれました。実現しました。それが確信です、と聖書は言います。

祈りもしないでああだこうだいう前に、祈るべきです。祈ったらもうそれは実現しています。あの人と和解できないのは、あの人に苦手意識があるのは、祈ってないからです。御心にかなう祈りをしたら、もうそれは叶えられたのです。ヤコブはいいます。


(ヤコブ4,2)

自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。


祈ることによって神様の御業に参加できます。愛し合い赦しあい、神様を賛美し神様に自分を捧げることに参加できます。もう手に入ったとわかります。祈ることは神様がこの地を癒そうとされているご計画に参加することです。


私たちが祈ることによってみ心が実現していくと言う方法を私たちに委ねられています。なんと素晴らしい賜物でしょうか。祈りは最高の私たちの務めであり、プレゼントです。


祈りは特権です。すごい賜物というか、こんなに良い方法は無いんです。神様の御心が実現していく。それを神様の素晴らしいご計画を私たちをがお祈りによって私たちも経験していくその方法は祈りです。祈らない理由がありません。

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