2023年11月1日水曜日

詩篇27篇

 詩篇27篇


僕らは神様よりも人の発言や表情や状況を見て落ち込んだり恐れたり喜んだりするようです。ネットで探して視聴するのに時間をかけますが、神様からの直接の語りかけ、しかも素晴らしい情報は少なくなりがちです。特に危機的な時ほど、僕らが何を求めているか問われます。


ダビデはいつも敵に命を狙われ憎まれる人生でした。そんな中、彼が何より求めたのは神様と一緒にいること、神様の麗しさに目を注ぎ、その大きさ、素晴らしさを思い巡らすことでした。周りがどんなに脅してきても、闇と罪が満ちていても、そこは別世界でした。神様の近くにいることは、完璧な安全と喜びがありました。本当のシェルター、しかも喜びと平安と賛美があるシェルターは神様の前に出ること、その麗しさを見上げて感謝することです。



(4-6)

4,一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。

5,それは主が苦しみの日に私を隠れ場に隠しその幕屋のひそかな所に私をかくまい岩の上に私を上げてくださるからだ。

6,今私の頭は私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は主の幕屋で喜びのいけにえをささげ主に歌いほめ歌を歌おう。



どんなに苦しくても願うべきことはただ一つです。(4)主を求める時に神様は答えてくださいます。かくまい、安全なところで希望と力に溢れさせてくださいます。(5)苦しみや脅しの中でも「今私の頭は私を取り囲む敵の上に高く上げられる。」と聖書は言います。(6)あまりにも神様が完全なので、ダビデは敵を恐れません。



(1-3)

1,主は私の光私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。

2,私の肉を食らおうと悪を行う者が私に襲いかかったとき崩れ落ちたのは私に逆らう者私の敵であった。

3,たとえ私に対して陣営が張られても私の心は恐れない。たとえ私に対して戦いが起こってもそれにも私は動じない。



今日、僕らにも神さまは「私の顔を慕い求めよ」とおっしゃいます。(8)不安と不満があればあるほど、苦しみが怒りがあればあるほどその時です。慕うのはケータイではなく神様です。


イエス様はいつも神様の前に行きました。大勢の人がいろんなことを要求してきました。…が、イエス様は神様と静かな時間を取るために荒野にいなくなりました。(マルコ1.35など)


ヒゼキヤ王は絶対勝てそうにない敵に脅された時に、まずは主の宮に行き、それを神様に報告、相談しました。(イザヤ37章)


マリヤは忙しい時に、イエス様の足元に座って聞き入っていました。(ルカ10章)


僕らが優先すべきこと、探し求めるべきこと、時間をとるべきことは主の麗しさの前に出ることです。エルサレムまで行かなくても大丈夫です。どこにいても僕らの体が主の宮です。主はすぐ近くにおられます。いつも一緒にいます。僕らが神様を無視して人の情報ばかり、顔色ばかり、対応ばかり求めているならその結果は恐れ、怒り、憎しみ、分裂、敗北、悲しみ、絶望、その類のものです。


僕らが願うべきことは一つです。今日、主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすことを優先しましょう。ネットでもメディアでもいろんな人が「自分の意見」を言います。そこに救いも喜びもありません。


ヨシャパテ王は無数の敵に囲まれながら、戦うより前にまず聖歌隊にみことばを歌わせ、神様の大きさを歌わせました。命を狙われながら「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」です。(2歴代20章)


僕らが見上げる相手は、敵ではなく神様です。トラブルでなく神様です。そこには光があり、喜びがあり、救いがあります。全き愛は恐れを締め出します。今日、神様のところに行きましょう。…というか、すぐ隣に、ここに、心に、体に主はおられます。「わたしの顔を慕い求めよ」です。(8)ハレルヤ!




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