JECA北海道北地区教職者会の学びのために
2023.12.1 東栄福音キリスト教会牧師 遠藤稔
どうしてイスラエルを嫌う教会、
イスラエルを慕う教会に分かれるのか?
最近イスラエルについて考えることが多く、現時点で与えられた聖書からの理解をまとめてみました。
お読みくださりアドバイスくださると感謝です。
●そのⅠ 神様の前ではイスラエルと異邦人の間に区別や優劣やひいきがない
●そのⅡ 神様のご計画には選びと祝福の順序がある。
●そのⅢ 神様がイスラエルを選ばれ、愛しているのは彼らが優れているからではない。
●そのⅣ 神様のイスラエルへの愛は今も変わらない。
●そのⅤ イスラエルの話をする時に心配なこと
●結論 イスラエルを嫌う教会はその罪を嫌う。イスラエルを慕う教会は罪あるイスラエルをそれでも愛し、とりなし、祈り、助ける。
●そのⅠ 神様の前ではイスラエルと異邦人の間に区別や優劣やひいきがない
・ローマ2.9-11の諸訳の比較
新改訳2017
9,悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、
10,善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。11,神にはえこひいきがないからです。
聖書協会共同訳2018
すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みがあり、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和があります。神は人を分け隔てなさいません。
岩波訳
悪を為す人間のすべての魂の上には、ユダヤ人の魂をはじめとしてギリシア人の魂の上にも患難 と苦悩とが〔与えられ〕、ユダヤ人をはじめとしてギリシア人にも、すべて善を為す者の上には、栄光と栄誉と平安とが 〔与えられる〕。なぜならば、神のもとでは〔人の〕顔を偏り見るということはないからである。
前田訳
苦しみとなやみはすべて悪をするもの、ユダヤ人をはじめギリシア人に、栄光と誉れと平和はすべて善を行なうもの、ユダヤ人をはじめギリシア人に及びます。神には偏見がないからです。
塚本訳
(つまり、)苦しみと悩みとは悪を働くすべての人、まずユダヤ人、次に異教人に、
また栄光と尊敬と平安とは善を行うすべての人、まずユダヤ人、次に異教人に、のぞむであろう。
神にはえこ贔屓がないからである。
KJV 2.9
Tribulation and anguish, upon every soul of man that doeth evil, of the Jew first, and also of the Gentile;
・えこひいきπροσωποληψία の他の箇所
エペソ6.9
主人たちよ。あなたがたも奴隷に対して同じようにしなさい。(…中略…)主は人を差別なさらないことを知っているのです。
コロサイ3.25
不正を行う者は、自分が行った不正を報いとして受け取ることになります。不公平な扱いはありません。
ヤコブ2.1
人をえこひいきすることがあってはなりません。
・祝福、救い、赦し、愛、相続、裁きについてユダヤ人と異邦人の間に差がないことを示す箇所
(ガラテヤ3章28)
ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
(ローマ10章12-13)
ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。
自分の隣人、友人、家族を愛し救いを祈ることと、イスラエルを愛し救いを祈ることと、パレスチナへの愛と救いを祈ることは全く同じで尊く大切。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモテ2.4)また、神様が救おうとする人に、人種、国籍、血統とか、熱心さは関係ない。ただ、神様によって人はイエス様への信仰が与えられ、悔い改めて救われる。
(ヨハネ1.12-13)
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
●そのⅡ 神様のご計画には選びと祝福の順序がある。
(ローマ1章16節)
私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
πρῶτον (まず、最初に)とは時間的な順序。ローマ2.9、10も同じく繰り返している。
遠藤が調べた英訳では of the Jew first for the Jew first first for the Jew first to the Jewなど
一番最初に神様が産み育て、良いものを与え、みことばを与えて祝福したのがイスラエル人。イスラエルは神様にとって長男のよう。
(出エジプト4.22)
そのとき、あなたはファラオに言わなければならない。主はこう言われる。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。
(ローマ3章1-2)
それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。(…中略…)あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委ねられました。
(使徒10章)
34 そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、 35 どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。
36 神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。
アブラハムへの祝福(創世記12章、15章、17章、22章)が、信仰によって異邦人への祝福となる。
(ガラテヤ3章7-9)
7ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。
8聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。
9ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。
(ガラテヤ3章14)
それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。
・パウロの説明
イスラエルへの恵みが全世界の賛美になる理由は、イスラエルへの神様の恵みの大きさ、その祝福の大きさを異邦人が知ることによって主をたたえるようになる、と言う順序ゆえ。
(詩篇117篇)
1,すべての国々よ主をほめたたえよ。すべての国民よ主をほめ歌え。
2,主の恵みは私たち(ここではイスラエル限定)に大きい。主のまことはとこしえまで。ハレルヤ。
パウロはこの詩篇117篇を引用して説明している。この詩篇の引用はユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの対立や反目(ローマ14章)の問題をローマ14章で述べた後に「ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。」(ローマ15.7)という文脈の次に引用されている。
(ローマ15.8-11)
8,キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者たちのしもべとなられました。父祖たちに与えられた約束を確証するためであり、
9,また異邦人もあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。(…中略…)
10,また、こう言われています。「異邦人よ、主の民とともに喜べ。」
11,さらに、こうあります。「すべての異邦人よ、主をほめよ。すべての国民が、主をたたえるように。」(詩篇117.1の引用)
●そのⅢ 神様がイスラエルを選ばれ、愛しているのは彼らが優れているからではない。
旧約のストーリーはほとんどが反逆の歴史。
(申命記7章7-9)
7,主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。
8,しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。9,あなたは、あなたの神、主だけが神であることをよく知らなければならない。
異邦人は神様のイスラエルに対する一方的な祝福の約束、恵み、憐れみ、誠実さを知って、それゆえにイスラエルの主を一緒に賛美するようになる。神様は良いものを選ばれたのではない。むしろ、かたくなな民を憐れんで下さった。
神様のイスラエルへの愛と選びの基準はクリスチャンの選びの基準からも知ることができる。出来の良い人、いい人が選ばれたのではない。
(1コリント1章27-29)
27,しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
28,有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
29,肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。
選ばれた理由は正しさでも知恵でも力でもない。神様の主権と愛ゆえ。「だれも神の御前で誇ることがないようにするため」(1コリ10.29) ローマ11.30-32も同様に憐れみによってイスラエルが救われることを強調している。それは憐れみによる。「それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身(イスラエル)もあわれみを受けるためなのです。なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。」(ローマ11.31-32)
●そのⅣ 神様のイスラエルへの愛は今も変わらない。
イスラエルは捨てられていないし、愛されている。今も手を差し伸べられている。選びと召しは変わらない。
(ローマ9章21節)
イスラエルのことをこう言っています。「わたしは終日、手を差し伸べた。不従順で反抗する民に対して。」
(ローマ人への手紙10章1節)
兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼ら(イスラエル)の救いです。
(ローマ11:28-29)
彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。
教会で引用されがちな神様からの(特に旧約の)愛の言葉はイスラエルに言われている。そして、その愛がイエス様によって異邦人にも同じように与えられている。
(イザ43:1、4)
恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。…わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。…
(エレ31:3-4)
永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される.
・イスラエルへの愛と憐れみは異邦人を支える「根」。
異邦人クリスチャンは神様のイスラエルへの愛と祝福という養分をイスラエルと言う根を通してもらっている。根は捨てられてはない。イスラエルへの約束と愛と祝福の恵みは今もあるし、イスラエルへの愛が私たち異邦人への神様の愛の通り道になっている。私たちはイスラエルに対して誇ってはならないし、無視してもならない。むしろイスラエルへの神様の愛によって支えられている。
(ローマ11.16-18)
麦の初穂が聖なるものであれば、こねた粉もそうなのです。根が聖なるものであれば、枝もそうなのです。枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
世界規模の神の家族ならイスラエルは私たちの兄。しかも、ガンコになっている兄。どこの家にもいそうな兄。最初に選ばれ愛され生まれた兄。熱心だった兄弟が、自分に神様のことを教えてくれた兄弟が、今、教会を離れて頑固になっている、という話はよくある。後から生まれた弟が兄のために祈る。後から信仰を持ったクリスチャンが、教会を離れた先輩クリスチャンのために祈るのと似ている。
放蕩息子を見捨てない神様のように(ルカ15章)乳飲み子を忘れない神様のように(イザヤ49.15)神様が愛し続け、手を差し伸べ続け、イスラエルを助けたいと願っている。その御霊を受けた私たちも同じように取りなし、祈らさせられる。パウロも涙ながらに祈っている。
(ローマ9章2-4節)
私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエル人です。
神様はイスラエルを今日も一日中手を差し伸べ続け、愛し続けている。息子の苦しみを自分の苦しみとするように、彼らの姿を悲しみつつ、葛藤しながらも。
歴史はまるで家庭内暴力のように家族である異邦人クリスチャンからユダヤ人は追放、虐殺を強いられてきた。それも1900年に渡って。互の憎悪や悲しみは癒やされていない。それでも、すでにその敵意をイエス様が引き受け、廃棄され、両者が1つになり家族として回復をもたらされた。
(エペソ2章14-16)
実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。
聖書はこれを「家族」の回復のように祈る。
(エペソ3章14-15)
こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
●そのⅤ イスラエルの話をする時に心配なこと
聖書理解の差があるのはいいとして、問題は、お互いに罵り合って、傷つけあうこと。そもそも派閥争いは愚かなこと。(1コリント1章)知識は人を高ぶらせ、愛は建てあげる。(1コリント 8:1)私たちが目指すのは愛することであって、学んで高ぶり裁き合うことではない。
神学論争をして結局祈らないのはまるで悪魔の勝利のよう。祈りは神様の願い。祈りなしに和解も愛もない。祈りなしに家族が回復することはあり得ない。
イスラエルのため、パレスチナのため、身近な友人、家族のために祈ることは、神学論争をすることではない。それは中心ではない。学びは人を傷つけるためにあるのではなく、神様を愛し、人を愛し、赦すため。
地域教会の責任者として、神様が求めておられる範囲や方向性をいつも自己吟味する必要がある。他の教職者に言われたことや神学校の先生の発言を尊敬し尊重するが全てではない。まず、みことばに聞き、祈りつつ模索しつつ御霊に聞きながら考え、愛を選び、平和を求め、いのちを求めたい。そして、主がみことばの通りに世界を治めてくださる日が来ると信じ、忍耐して、祈りたい。。
私たちはどうしても善悪のラベリングをしたがる。報道も教会も。イスラエルの悪い点ばかりを強調することも、反対にイスラエルを愛し応援するあまりイスラエルの悪をあまり言わずパレスチナの悪だけを発信することも。聖書は全ての人が罪に閉じ込めら盲目にされていると言う。ところが私たちは闇から光に移され、イスラエルがやがて救われ異邦人とキリストによって一つとなり共同相続人となる奥義が啓示されている。(ローマ11.25-26)が、全てを知っているのではない。学んで確信したところにとどまればよい。(2テモテ3.14)
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(2テモテ3.16-17)聖書によって真理を知り神様が今もイスラエルを愛しておられることを知ることができる。私たちは真理を知り、矯正され、訓練され、目が開かれて整えられていく途上にある。すでに、と、いまだ、の途中。
●結論 イスラエルを嫌う教会はその罪を嫌う。イスラエルを慕う教会は罪あるイスラエルをそれでも愛し、とりなし、祈り、助ける。
神は罪を嫌う。それゆえ教会も罪を嫌う。教会はイスラエルの罪を嫌う。神を知っていると言いながら行いでは否定し、自分を義とする高ぶりを忌み嫌う。しかし同時に、キリストは正しい人を招くのではなく罪人を招く。
(ルカ5:32)
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。
神は罪のあるイスラエルを慕っている。それゆえ教会もイスラエルを慕う。イスラエルは神の長子であり、娘であり、花嫁である。罪を嫌う神が彼らを愛している。神の義と愛は両立する。神の裁きは正しく、罪を怒りそれを滅ぼす。神の怒りはイエスの上にそそがれ、神の義と贖いは成し遂げられた。
(詩篇22.31)
主が義を行われたからです。
(ヨハネ19.30)
イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。
これを書きながら、私もずっと息子のことを思っている。息子の罪は悲しい。私は罪を嫌う。息子に罪がある。そして罪は私たちの関係を破壊する。しかし、息子を愛している。ずっと愛している。祈らない日はない。私は彼を助ける。彼らのことを思わない日はない。それ以上に、主がイスラエルのことを思わない日はない。
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