2024年1月31日水曜日

マタイ13.10-23

 マタイ13.10-23


「聖書を毎日読みなさい」「メッセージを聞きなさい」「聞いて考えて祈りなさい」「とにかくディボーション」など、これでもか、とばかりに繰り返して言われます。そこまで推す理由はそれがとんでもない祝福をもたらすからです。



23節)

良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。



天の御国は隠されています。天の御国とは神様のプランが完璧に実現するすごい世界です。これはわかる人にはわかるけど、わからない人にはわからないし興味もない世界です。もしもイエス様を信じ、イエス様の国のことばを慕い求めるならその人は選ばれた人、祝福された人です。



11節から12節)

イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。

持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです。



神様のみことばは世界を造りました。今は僕らの罪によって混乱し、破滅に向かっているけど、それでも神様のみことばはもう一度この世界を完全に回復させます。僕らは先にそれを知ってしまった人です。だから神様のみことばを聞くことを喜び、最優先にします。それがどれほど価値があるかわかってしまったからです。イエス様のことばは本当に実現する神様のことばだからです。たとえ今は小さく見えてもやがて30倍、60倍、100倍の祝福をもたらす神様のみことばです。


ところが、この祝福を妨害しようとするものがあります。一つは僕らの頑固さ、そして、この世の思い煩いとか富の誘惑です。岩地のような頑固な心を持ちながら、表面だけ良い畑のふりをしている場合があります。



20節から21節)

また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。

しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。



一時的に喜んで神様のことばを受け入れて、感謝したり喜んだりしますが、その人はすぐ枯れてしまいます。継続的に神様のことばから栄養も水分も吸収する根がないからです。根が伸びない原因はその下にある岩地です。感謝しても賛美しても一時的です。「あんなに喜んでいた人が今はねえ…」という話はよくあります。神様のことばを聞かず、聞いても受け入れない岩地のような頑固さがその下に隠されていました。


誰でも頑固さはありますが、それを認めて手放すかどうかが大事です。まずは「自分は神様のみことばや計画を受け入れたくないです」「神様より自分の思い通りにしたいです」と認めましょう。そして、自分の考えやプランを手放す祈りをしましょう。それが良い畑になっていくステップです。その先には大きな祝福が待っています。毎日祈りましょう。「私の思い通りにじゃなくしてください」「神様の思い通りにしてください」と。自分を明け渡しつつ、みことばを聞き、従う祈りをしましょう。その先には30倍、60倍、100倍の祝福が待っています。


もう一つ、祝福を妨害するものはこの世の思い煩いとか富の誘惑です。


(22節)

茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。



この世の富とか心配事や誘惑で祝福を失うなんて大損害です。だからイエス様はどんな誘惑でも捨てなさい、と言われます。「右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。」「右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。」です。(マタイ5.29-30)誘惑を楽しんでいる場合ではありません。また、お金を愛することも悪の根だと聖書は言います。(1テモテ6.9-10)もしお金持ちになっても祝福を失うなら無価値です。(マタイ16.26)


また、心配事や恨みも祝福の妨害となります。心配事ばかりぐるぐると一日中考え、まるでディボーションのようです。僕らは心配事や不満を思い巡らすことが得意です。でもそれによって力を失い神様のみことばをどんどん追い出していきます。その時こそちゃんと決断し言葉にして祈りにして手放してしまいましょう。「神様○○が心配です。こうしなきゃと思います。でも、この心配を神様にお渡しします」「神様○○さんが不満です。あんな態度ゆるせません。赦さない心と怒りを神様にお渡しします」と祈りましょう。心の中にずっとあった重たい鉄の塊を取り出して、イエス様に預け手放してしまうイメージです。グーの手をパーにして捨ててしまうイメージです。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。」です。委ねることは手放すことです。(1ペテロ5.7)イエス様は心配事でイラついているマルタに言われました。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。」みことばを聴くことだけが必要なことです。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6.33)


妨害を取り除き、イエス様のみことばを聞くことに取り組む人は祝福されています。神様のことばをしっかり聞き保つには忍耐とか努力も必要です。聞くことを後回しにすることと戦う必要はあります。「彼らは(…中略…)それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。」(ルカ8.15)そして、神様のことばを見上げ、聞く人は祝福されます。



(16節)

しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。



今日も、心配事や恨みごとやお金のことは後回しにしましょう。今日も自分の頑固さは手放しましょう。神様のみことばをそのまま受け入れるのは何よりも価値があります。その人は予想を遥かに超えた祝福を生み出します。ハレルヤ!

2024年1月30日火曜日

マタイ13.1-8

 マタイ13.1-8


会社で仕事にトラブルはつきものだし、あって当然です。トラブルは問題なのではなくて、それにどのように対応するかが大事です。そして、それこそが仕事です。同じように、人生の問題が問題なのではなくて、嵐の中で神様の真実なことばを聞き分け、従うことが僕らに与えられている課題です。文句を並べて投げ出すのは答えではありません。みことばこそが嵐の中の「安全で確かな錨」です。(ヘブル6.19)人はパンだけでなく神のことばによって生かされ、永遠に祝福されるの方法は神様のことばを求め、喜び、聞き、従うことです。(詩篇1.2-3)


イエス様は「耳のある者は聞きなさい。」とおっしゃいました。(9)聞き、吸収し、従うつもりがある人は聞きなさい、という意味です。ある人は「言葉とは耳で聞くものではなく、肌から吸収され心に届くようなものである。」と言いました。そのように、イエス様のことばが全身に行巡り、自分のいのちそのものとなっていくような聞き方です。その人は祝福され実を結びます。聞いているようで聞いてない人もいます。目先の問題やトラブルばかりを大きく受け止め、神様のことばを小さくしててしまう人もいます。その人はまるで芽が枯れてしまうように成長することも実を結ぶこともありません。



3節から9節)

3,イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。

4,蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。

5,また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。

6,しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

7,また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。

8,また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。

9,耳のある者は聞きなさい。」



イエス様はこの解説をしてくださいました。(18-23)蒔かれた種とは神様のことばです。蒔かれた場所とは僕らの態度や心です。鳥が種を食べてしまう事は、悪魔が神様のことばを奪ってしまうことです。岩地に蒔かれる事は、根が伸びずに神様のことばを吸収することができなくて枯れてしまう人のことです。茨の中に蒔かれた種とは、神様のことばよりも問題や誘惑ばかりを大きく見て、その情報ばかり吸収して枯れてしまう人のことです。問題が問題なのではなくて、問題の中でも神様のことばを聞き分け、根を伸ばして吸収することが最も大切です。



23

良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」



今日も祈りましょう。心の目が開かれるように。(エペソ1.18)心の耳が開かれるように。「あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」(16)いろんな情報が飛び交う中で、真実でいのちを与える神様のことばをを選びとることができ、それを吸収することができますように。「聞く耳のある人は聞きなさい。」(9)です。求める人に与えられると信じます。聞く耳が与えられますように。




2024年1月29日月曜日

マタイ12.38-50

 マタイ12.38-50


相手が信用できないと「じゃ証拠見せて。」とか、「LINEの記録見せて」など証拠を求めます。そもそも疑ってるからです。これは安心や愛や喜びのない世界です。夫婦でも友人でも、安心できない関係ほどカタチを必要とします。僕らと神様の関係も同じです。神様が信用できない人は証拠を欲しがります。反対に、愛され、喜ばれていることがわかる人はそんなのなくても安心してます。律法学者たちはイエス様を疑っていました。信用できないのでしるし(証拠としての奇跡)を見せてください、と要求します。



38節から39節)

そのとき、律法学者、パリサイ人のうちの何人かがイエスに「先生、あなたからしるしを見せていただきたい」と言った。

しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。



イエス様は証拠を求めることを「悪い、姦淫の時代」と呼びます。姦淫とは浮気であり相手に対する愛のなさ、不信感のことです。だから調査しようとし、証拠を求めます。これが悪い、愛と信頼のない時代です。


反対に、イエス様を信頼して喜びと平安が与えられる人たちもいます。その人は神様への愛も神様からも愛も与えられます。証拠なんて不要です。信じた人はそのような神様の子どもです。愛され喜ばれている特権が与えられた子です。その人には平安と喜びが溢れています。



(ヨハネの福音書112-13節)

この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。 この人々は(…中略…)ただ、神によって生まれたのである。 



イエス様を信じた人の中には御霊が住んでいます。イエス様と神様が愛し合い信頼し合い一つであるように、僕らも同じように神様を信頼し、愛し愛され、「アバ」(お父さん、愛するパパ、という幼児のことば)と呼ぶようになります。御霊が僕らに住んでいつも「子どもだよ、愛されているよ」と教え続けてくださいます。



(ローマ人の手紙8章14-15節)

14,神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

15,あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

16,御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。



ここに恐怖や不信感はありません。教会の仲間たちはそのような神様の子どもです。あの人も、この人も同じように神様の子どもです。僕らの兄弟であり姉妹であり家族です。イエス様はおっしゃいました。



48節から50節)

48,イエスはそう言っている人に答えて、「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と言われた。

49,それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。

50,だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」



いくら癒しの奇跡を体験していも、悪霊が追い出される体験をしても、イエス様を信じて御霊を心にお迎えしない限りはこの愛と喜びと平安は与えられません。イエス様の時代、たくさんの人たちが病気が癒され悪霊が追い出される奇跡を体験しました。それでもイエス様を信じなかった人の心は空家のようです。空き家を放置すると傷みます。虫も小動物も住み始めます。空き巣にも狙われます。同じように、イエス様をお迎えしなければ、その人の心はまるで空き家のようです。



43節から45節)

43,汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、

44,『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。

45,そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い時代にも、そのようなことが起こります。」



僕らはイエス様を信じ聖霊が僕らを家として住んでくださっています。もう空き家ではありません。僕らは神様の家です。安心して「お父さん」と呼びましょう。愛されている子です。周りにも同じく愛されている子どもたちがいます。聖霊は僕らに愛と信頼を与えてくださいます。もうカタチを欲しがらなくても大丈夫です。いるだけで喜ばれている子どもです。僕らの内側に新しい心が与えられ神様のみこころの愛の言動を行うようになります。「天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」(50)今日も僕らは神様に愛される家族です。疑わなくても、証拠を欲しがらなくても大丈夫です。ハレルヤ!




2024年1月28日日曜日

マタイ12.22-37

 マタイ12.22-37

2024年1月26日金曜日

マタイ12.1-8

 マタイ12.1-8


時速40キロを守ることが目的ではなくて、事故を起こして人が不幸にならないことが目的です。同じように、神様の律法は守ることが目的ではなく、人が神様の祝福と愛と平安に留まるためです。ところが、僕らはその神様の目的を忘れて表面的なことで裁き合いがちです。大切なことは神様の真実の愛の中に安息することです。律法の目的はそこにあり、守ったかどうかで裁き合うことではありません。



7節から8節)

7,『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。

8,人の子は安息日の主です。」



律法には安息日が定められています。週に1日、完全に立ち止まって神様の恵みを覚えるためです。全ての自然界の営みも食べ物も全部神様のことばによって造られ与えられたプレゼントです。その大きさと愛と恵み再認識するための神様の方法が安息日です。



(出エジプト20章8-10節)

8,安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。

9,六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。

10,七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。



人間が頑張って生きているのではありません。全てが神様の愛の中です。生きているのでなく神様からいのちが与えられて生きています。それを覚えリセットするための日です。人間は神様を忘れて背伸びして、自分の力でなんとかしようとして疲れがちだからです。


ところが、その愛とめぐみを忘れ、安息日ルールを守るかどうかに注目がいくようになってしまっていました。どの程度動いたか?それは労働か?ルール違反か?です。イエス様と弟子たちは安息日に神様から与えられている穂を感謝して、畑の中で食べていました。ところがそれをルール違反として咎める人たちがいました。



1節から2節)

1,そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。

2,するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」



神様が願っておられるのは愛と恵みを覚えて感謝して食べることです。そのための安息日です。ダビデもお供の人たちも、緊急時には神様に捧げられた、祭司以外は食べてはならないパンを食べました。神様の目的は神様の恵みと愛をよく知ることだからです。人はうわべを見るが主は心を見ます。



3節から4節)

3,しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、

4,どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。


(7-8節)

7,『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。

8,人の子は安息日の主です。」



神様には真実な愛が満ちています。僕らが思う以上に全てが神様の御手の中です。だからああしなきゃ、こうしなきゃ、と思って神にも人に気に入られようとしなくても大丈夫です。僕らからは愛は出ません。もともと愛も平安も自分にはありません。全ては神様から与えられます。自分にないのに背伸びしても疲れるだけです。


今日も安心しましょう。求めましょう。真実な愛は神様からのみ注がれます。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5.5)愛がないなら、何の値うちもありません。そして、愛は求める人に与えられます。ハレルヤ!