マタイ12.1-8
時速40キロを守ることが目的ではなくて、事故を起こして人が不幸にならないことが目的です。同じように、神様の律法は守ることが目的ではなく、人が神様の祝福と愛と平安に留まるためです。ところが、僕らはその神様の目的を忘れて表面的なことで裁き合いがちです。大切なことは神様の真実の愛の中に安息することです。律法の目的はそこにあり、守ったかどうかで裁き合うことではありません。
(7節から8節)
7,『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。
8,人の子は安息日の主です。」
律法には安息日が定められています。週に1日、完全に立ち止まって神様の恵みを覚えるためです。全ての自然界の営みも食べ物も全部神様のことばによって造られ与えられたプレゼントです。その大きさと愛と恵み再認識するための神様の方法が安息日です。
(出エジプト20章8-10節)
8,安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
9,六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。
10,七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。
人間が頑張って生きているのではありません。全てが神様の愛の中です。生きているのでなく神様からいのちが与えられて生きています。それを覚えリセットするための日です。人間は神様を忘れて背伸びして、自分の力でなんとかしようとして疲れがちだからです。
ところが、その愛とめぐみを忘れ、安息日ルールを守るかどうかに注目がいくようになってしまっていました。どの程度動いたか?それは労働か?ルール違反か?です。イエス様と弟子たちは安息日に神様から与えられている穂を感謝して、畑の中で食べていました。ところがそれをルール違反として咎める人たちがいました。
(1節から2節)
1,そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。
2,するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
神様が願っておられるのは愛と恵みを覚えて感謝して食べることです。そのための安息日です。ダビデもお供の人たちも、緊急時には神様に捧げられた、祭司以外は食べてはならないパンを食べました。神様の目的は神様の恵みと愛をよく知ることだからです。人はうわべを見るが主は心を見ます。
(3節から4節)
3,しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、
4,どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。
(7-8節)
7,『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。
8,人の子は安息日の主です。」
神様には真実な愛が満ちています。僕らが思う以上に全てが神様の御手の中です。だからああしなきゃ、こうしなきゃ、と思って神にも人に気に入られようとしなくても大丈夫です。僕らからは愛は出ません。もともと愛も平安も自分にはありません。全ては神様から与えられます。自分にないのに背伸びしても疲れるだけです。
今日も安心しましょう。求めましょう。真実な愛は神様からのみ注がれます。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5.5)愛がないなら、何の値うちもありません。そして、愛は求める人に与えられます。ハレルヤ!
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