マタイ11.20-30
今も昔もイエス様は僕らの病気を癒してくださるし、悪霊を追い出してくださる方です。僕らの祈りに答えて、イエス様の力で愛と憐れみを表してくださいます。天の御国はそのように信じる人たちに始まっています。
小さい子が親を信じて何でも求めるように、僕らも神様の子どもです。ただイエス様を信じて助けを求め、癒しを求め、救いを求めます。それでオッケーです。むしろそれこそが神様が求めておられることです「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」(ルカ18.17)シンプルに、子どものようにイエス様を信頼して求める人たちに、神様は愛と憐れみを表してくださいます。
(25節から26節)
25,そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
26,そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。
ところが、僕らは知恵や学びの成果を身につけてイエス様の愛とか癒しを子どものようには受け入れません。「イエスの発言は神学的にこうだ」「テキストの構造分析からこの解釈が正しい」「この癒しの意味は…」などなど、学ぶのはいいとしても、それによって単純に子どものようにイエス様に求め、与えられ、感謝してますます信頼することを忘れがちです。イエス様が愛と癒しを多く見せてくださった町の人たちも、自分の神学的理解や権威ゆえに預言者ヨハネやイエス様を否定します。
(18-19節)
18,ヨハネが来て、食べもせず飲みもしないでいると、『この人は悪霊につかれている』と人々は言い、
19,人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。
そんな頭のいい人たちをイエス様は激しく責めます。神様の愛より自分の地位や判断力を上にして、悔い改めてへり下ってイエス様のもとに戻ろうとしないからです。
(20節から24節)
20,それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。
21,「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
22,おまえたちに言う。さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。
23,カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。
24,おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」
イエス様に喜ばれた人たちは、すがるようにしてイエス様を求め信じた人たちです。同じように、イエス様は今日も僕らを招いておられます。
(28節から30節)
28,すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29,わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
30,わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
イエス様は僕らを休ませようとしてくださる優しい方です。威張って圧力をかける方ではなく、むしろ僕らの悲しみや苦しみに連帯してくださる方です。苦しみや欠点だらけの僕らと一緒にくびき(家畜をつなぐ枷のような道具)をつけてくださいます。同じスピードで歩いてくださる柔和な方だし、僕らの側もイエス様に信頼し、イエス様に求め、イエス様とくびきでつながるなら安心します。イエス様がへり下って「休ませてあげます」(28)と言ってくださるからです。
天の御国に入るのは知恵のある人や力のある人ではなく、弱くて小さくて傷つきやすい人です。今まで肉の親から重荷を負わせられ、苦しんできたかもしれません。頑張れ、努力だ、勉強だ、と教えられ、背伸びしてきたかもしれません。甘えて安心することは未経験かもしれません。イエス様に言ってみましょう。疲れてること、重荷があること、イヤなこと、弱いこと、全部告白して、イエス様に助けを求めましょう。どうしたらいいか心配して計算しなくても大丈夫です。くびきをつけることはスピードも方向も全部預けることです。「そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」(29)
イエス様のところにいきましょう。子どものようになりましょう。イエス様の愛と癒しは知恵ある者や賢い者には隠されていて、幼子たちには現れます。ハレルヤ!
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