2024年1月6日土曜日

マタイ5.1-11 心の貧しい人への喜びと祝福はすごいです! メッセージ

 1/7 マタイ5.1-11 心の貧しさがわかっている人は幸いです。


というタイトルにしましたが、準備しているうちに、幸い、というレベルではなく、喜び爆発!祝福はすごいです!というタイトルの方がいいと思いました。新タイトルはこちらです。


「心の貧しい人への喜びと祝福はすごいです!」


導入

※OM日本の代表の船越信哉先生の今月のニュースレターの抜粋です。

「主が用いられる人、人の役に立つことができる人は一度、徹底して自信を失っている人です」

「自信→それは自分を信じること。自分の能力、経験を信じる。また自分のやり方、こだわりを曲げない姿」

「人間には弱さがあります。そしてどんなに強そうに見えても、いつか弱くなります。できていたことができなくなる経験をします。」


そのように、自分の弱さ、醜さ、惨めさ、力のなさにガッカリすることがあります。イエス様はその人こそ幸いであり、祝福だと言われます。なぜなら、「天の御国はその人たちのものだからです。」神様の恵の王国、神様の愛の支配、神様の力の国はその人のものだからです。自信を失うその時に、神様が良いもので満たしてくださいます。


3,「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

4,悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。

5,柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。


※船越先生

「自信満々で働きをしている時、そこに主の働かれるスペースはありません。失敗し、弱くなり自信を失う時、「主の出番」です。主の働きが始まります。」


自分が惨めでガッカリして悲しんでいる人たちには、人間の力にはよらない神様の国が始まっています。

4章の最後を読むと、イエス様が話をしたのは、病人たちや悪霊にとりつかれてどうしようもなくなって苦しんでいる人たちを見て癒された後です。ここでの病人たち苦しむ人たちにはもう他には助けがない人たちです。イエス様の助けをもらうしかない人たちです。二心ではないし、他に保険をかけている人ではありません。本気の人たちです。神様にすがるしかない人です。イエス様はその人たちは幸いです、とおっしゃいました。


※船越先生のニュースレター

「自信のある人は尋ねることをしません。自信を失ったパウロは尋ねる人になりました。「主よ、私はどうしたらいいでしょうか。」自信を失ったパウロは、人生の操縦席を主に譲りました。自信を失えば失うほどクリアになってくるもの、それはイエスキリストの存在です。」


今日のメッセージのポイントは3つです。


1心貧しい人の祝福と、満足している人の難しさ。

2内側を認めることの大切さ

3心の貧しさを知る人の喜びの結末。→これは一番強調したいところです。


結論は→今日の落胆は、神様に祝福されるための通過点!です。


●1心貧しい人の祝福と、満足している人の難しさ。


3,「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。


神様の御国とは、神様の支配、という意味です。原文では王国という意味です。それは赦しと憐れみと愛と恵みと平安と力が無限に与えられることです。その世界がもう始まっています。貧しさを認めて、飢え渇いて求める人は神様の愛と力だけに頼るようになるし、それが必ずいただけます。


渇いているだけが水を飲みたがります。同じように、自分の心の弱さ、貧しさ、汚さがわかる人だけが神様の赦し、神様の恵、神様の助けを求めます。そして神様は本当に無限に与えてくださいます。

心貧しい人こそ幸いです。


僕らは自分の弱さをを認めたくないし、隠したいものです。よく見せたい、私は問題ない、と思いたいのです。でも、イエス様はおっしゃいます。心貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです。


4,悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。


自分の悲しみを知り、ちゃんと神様の前で嘆いている人、その人たちは慰められます。この慰められるって言う動詞には近くに呼んでもらうって言う意味があるんです。そばに引き寄せてもらう、と言う意味です。聖霊のことをイエス様は慰め主とか助けぬし、って言われましたが、元のことばは同じです。寄り添ってくれるとか、助けてくれる、慰めてくれる、という意味です。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。


5,柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。


柔和な人っていうのは心が柔らかくて親切なことです。同時に貧しいと言う意味があります。自分は何も持っていない、と言える貧しさ柔らかさの意味です。だから、3-5節は心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、と同じ意味のことを繰り返し、言い換えています


「地を受け継ぐ」地と聞くとイスラエル人たちはピンときます。やがてキリストが王様として支配される場所。王国のことです。その王国、素晴らしい土地に入るだけでなく、一緒に受け継ぐ、と言われます。受け継ぐと言うのは、息子が親の財産を受け継ぐとか、権利をもらうとか、社長の息子が一緒に経営するとか、そのように、神様の権威や財産を一緒に手にする、と言う意味です。子どもとされる、とか、相続人とされる、という意味があります。親の権利や財産を一緒に保つように、神様の権威や栄光や富を一緒に持つ人になる、すごい立場が与えられる、と言う幸いなんです。予想以上です。だから今何も持っていないくても、今、思い通りにならなくても、権力がなくても、大丈夫、と言うことです。


●満足している人の難しさ


祝福「されない」人、幸い「でない」人、は貧しくはないし、悲しくもないし、今すでに満たされている人です。今、権力もお金もあります。夢叶えてます。大丈夫です。神様はいりません。慰め?結構です。という言う人です。


マタイ19章23節

まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。


無理、とは言わないけど、難しいことです。お金持ちになってはいけない、と言う意味ではないし、お金が悪いということでもありません。ただ、お金の力で思い通りになることが多くなり、お金の力で周りが動いてくれることも増えます。なので、その人は神様に求めるのがむずかしくなる、と言うことです。


想像してください。欲しいものはなんでも手に入ってやりたいことはなんでも叶う人になったことを。お金も時間もいくらでもあると。今日はミシュランの星のついた高級な有名なお店で、どんな美味しいもの食べに行こうかな、誰に奢ってあげようかな、誰と一緒に行ったら楽しいかな、選べます。今日はどの有名アーチストのライブに行こうかな、女性に囲まれてチヤホヤもてなしてくれるお店に行こうかな、毎日いくらでも願いが叶う人。地上のもので満足している人です。その人が、神様の力、神様の支配、神様の恵みの世界に入るのがむずかしい、ということです。


お金でなくても、自分の知恵、とか、技術とか、神様以外の何か周りを動かせる人も大変です。それで満足している人は、神様の前では自分が裸であることも忘れてしまうし、そのみじめさがわかっていない、と黙示録はいいます。


黙示録3章17節

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。


6,義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。


義に飢え乾くことも、心が貧しいこと、悲しむことと同じ種類です。自分は正しくありけど、できない、と義を求め飢えて嘆く人です。その人こそ与えられ満ち足ります。自分の心の貧しさを知らされている人です。


表面は正しそう見えても、実は神様によらない人、自己満足している人がいます。その実例が聖書にあります。私は正しいしよくやっている、と自慢する人です。



ルカ18章11-14節

11,パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。

12,私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』


私はあんな悪い人ではありません、私は良い人です。週に2回も断食しています。私は10分の1を捧げています。という人は神様に認められなかった、とイエス様は言われます。これは教会のリーダーとか牧師が陥りがちな態度です。熱心な人こそ、よく頑張っている人こそ危ないです。できない他人を下に見るタイプです。

じゃぁ神様に認められて神様に受け入れられた人はどんな人か、続きです。



13,一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』

14,あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。



イエス様はわざわざあのパリサイ人ではなかった、と言います。そして、まさに心の貧しい人、悲しむ人、義に飢え乾く人、この人こそが神様に義とされ、喜ばれ祝福されました。幸いなのは自分の惨めさを告白して求める人です。『神様、罪人の私をあわれんでください。』その人には義が与えられます。


クリスチャンとして信仰歴の長い人、教会でリーダー的な人にはこの危険な兆候がいつもあります。いつも他の人をさばいて上から見下げる誘惑がつきまといます。


神様は高ぶらせないために、自己満足、上から目線の誘惑に入らないように、ちょうどよくうまくいかないこと、自信を失わせることを与えてくださいます。挫折も、失敗も、お金がなくなることも時間がなくなることも、体調が悪くなることも、神様だけを求め、神様の恵と力だけを求めるための神様の方法です。


6,義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。


パウロも心貧しい人でした。飢え乾く人、悲しむ人でした。良いことがしたいのにできないのですと嘆いていました。


ローマ人7章

18,私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。

19,私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。(…中略…)

24,私は本当にみじめな人間です。


惨めさを知っているパウロでした。

ただ、助けて、とかしか言えない人でした。その人こそ、義に飢え乾いている人です。その人こそ祝福された人、幸いな人、そして、そのような人こそ満ち足りるとイエス様はいいます。義とは、僕らが正しいのではなく、イエス様がその罪を引き受けて十字架で呪われ、そして、あなたの罪は思い出さない、と言ってくださる義です。パウロが立派な人だ、と言われるのではなく、神様の恵みと赦しの大きさだけが明らかになるためです。

パウロは自分の惨めさを嘆いた後、こういいます。


ローマ8.1

今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。


自分のみじめさを知るほど、自分の貧しさを知るほど、自分の無力さを知るほど、イエス様に感謝しかありません。


十字架が教会に掲げられているのはこの理由です。

あの十字架の赦しの他に僕らが自慢できることはありません。

誇る人は主を誇れ、十字架以外に誇るものはあってはならない、と聖書が何度もいう通りです。


●神様に近づくほどに自分の足りなさを知らされる


去年、関西聖書学院に3週間過ごした時、アルゼンチンの有原宣教師の特別な集会がありました。その在原先生の話を聞いてるうちに、50人近い学生たちみんなが悔い改めて泣き始めました。僕も泣いて立ち上がらなくなりました。


神様を近く感じる時と言うのは、自分のみじめさが強烈にわかる時です。例えが安っぽいんですが、最近の掃除機の先っぽにはライトが付いています。明るくするほどにゴミがよく見えるからです。でも、この例えは小さすぎます。神様の栄光とかきよさはそんなレベルではない。ライト付きの掃除機では話になりません。



光である神様が近くに感じる時、自分の罪がはっきり示されます。ひれ伏して憐れんでください、と言うしかなくなります。先輩たちはみんなそうでした。イザヤも神様とお会いした時倒れました。もうだめだ。自分は唇の汚れたものだから。と言いました。みんなそうです。モーセももうだったし、エリヤもそうだったし、ペテロはイエス様に「船の右側に網を下ろしてみなさい」と言われて、やってみたらありえない大漁の奇跡を経験しました。その時、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言いました。神様の栄光に触れる時に、僕らは自分の罪深さを知ることができます。


有原先生が宣教しているアルゼンチンは1980年代、90年からすごくリバイバルが起こった国です。リバイバルというのは集団的悔い改め、信じる人が起こされることです。有原先生が所属しているグループも、1988年には7教会だったのが157教会になったそうです。

そこで用いられた牧師たちは世界的に有名になりました。その牧師たちが聖書のメッセージをすると、聞いた人が何千人という規模で同時に悔い改めることが何度も起こったからです。リバイバリストって言われるそうです。


在原先生から直接聞いたのですが、何千人も導くような有名な牧師たちと交わりがあったし、今もあるそうです。在原先生曰く、全員たいしたやつじゃないんだよ、って言ってました。ただ、全員、自分に絶望している、自分の惨めさを知っている人たち、とのことでした。そして、全員祈りの時間を聖別しているそうです。日本から来たから、どこか夜で都合のいい日ありますか?と言っても、夜は神様との時間だからそれはできない、と断られるそうです。それほど彼らは神様に頼るしかないんだ、という人たちだそうです。まさに心の貧しい人たちが、必死に神様だけを求めて用いられている、とのことでした。


●内側を認めることの大切さ


プライドがあるので、隠したいし、恥ずかしいのでバレないように蓋をしておきたいものです。

でも実際にはみんな内側にはちゃんと汚さ、ずるさ、淫らな思いがあります。


8,心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。


心のきよい人と言うのは、隠さないで認める人です。自分の弱さを認める人。恨み怒り妬みを認める人。淫らな思いを認める人です。見ないふりをするのではなくて、正直にそれを神様に明け渡し告白する人です

このことを考えるときに大前提があります。神様はもう知っていると言うことです。


ローマ 8:27 人間の心を探り窮める方


ヘブル 4:13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。


神様から見れば、もう私たちの心は丸見えです。なのに、私たちはごまかし、表面だけで乗り切ろうとします。うわべの人間関係を作りがちです。本音では感謝できないし、礼拝が辛い、交わりが辛いと思っているのに愛しているフリをします。口では賛美を歌いながら、実は心の中では呪いや恨みでいっぱいだということがあります。そのような人の礼拝はムダだとイエス様は言われました。


マルコ 7:6 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。

マルコ 7:7 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。


幸いなのは隠さない人、みとめて報告して、内側を神様に明け渡す人です。自分の渇きやみじめさをちゃんと神様に報告しその罪を捨てます、明け渡します、変えてください、と祈る人です。


箴言28:13

自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。


8,心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。


神様は見えません。でも、信仰の先輩たちは見えない神様をまるで見えるように信じて従いました。惨めさを罪を告白する時に新しくされ、心の中のゴミをちゃんと告白して捨てる時に、新しく神様の霊に満たされ安くなります。心の目が開かれて神様を心の目で、霊の目で見上げて感謝して歩むことができます。


●心の貧しさを知る人の喜びの結末

1憐れみ深くなる。2平和を作る 3大きな報いを受ける


自分の罪深さを知り、絶望を知っている人は他の人を裁かないし、裁けないことがわかっています。憐れみ深い人とは、神様に何度も赦されたことを知っている人です。


7,あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。


汚れた私をイエス様が受け入れ、引き寄せ、愛し、赦しててくださった、それだけです。私は赦された罪人です。

だから他の人を裁けません。罪を犯す仲間を見て、自分と同じ、いやもっと酷かった、と思う人です。だからその人を神様赦してください、憐れんでください、と祈るだけです。汚れた僕を、もっと酷かった私を受け入れて、身代わりに血だらけで殺されてくださってありがとうございます。イエス様の十字架を見上げる時に僕らは他の人のことも助けたいと思う、あなたも大丈夫だよ、と言ってあげたくなります。

十字架のイエス様を見る時には、僕らは威張れないし、他人への憐れみが与えられます。


逆に、自分の心の貧しさを忘れて、罪を忘れて自分の正しさを主張している時には他の人たちを見下します。


あるとき、人々は姦淫の現場で捕まった女性をみんなで取り囲み、裁き、吊し上げようとしていました。イエス様はその時おっしゃいました。


ヨハネ8.7-9

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(…中略…)彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。


石を投げることができない人は自分の罪深さを知ってる人です。捕まった人の気持ち、罪をしてしまう人の気持ちがよくわかる人です。そして、イエス様がそれでも愛してくださって、忍耐してくださったか、赦し続けてくださったかわかってる人は罪人に憐れみを持つようになります。その人は幸いです。もう裁かなくなります。神様からも憐れみを受けます。憐れみを与えることも、受けることも、両方が相乗効果のように深まっていきます。


9,平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。


心の貧しさ、汚れ、罪を知っている人は、そして、赦された人は自分などが他人を攻撃できないことがわかってる人です。

その人は、平和を作るようになります。神様の平和とは、仲良くしなさい、と言って相手を変えてあげよう、とすることではありません。相手が悪い、相手が変わってくれないとこっちも仲良くできない、ということではないです。

まずはこちら側の赦しと忍耐です。血だらけの十字架のイエス様を見上げることです。罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをしなかったイエス様を見上げることです。


イエス様は「平和の父」と書かれています。そして僕らはイエス様につながった人です。罵られても罵り返さない、ただ、神様にお任せする神様の子供、イエス様につながる人になりました。

平和を作る人は、敵を赦し愛する人です。イエス様がされたように、敵を愛し、敵のために祈ることです。

僕らは自分の惨めさと罪を知っています。自分も他人をどれだけ傷つけ、心の中で殺してきたか知っている心の貧しいものです。だから、今度は、同じように罪人である敵のために祈ります。


マタイ5.44-45節

44,しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

45,天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。


「天におられるあなたがたの父の子どもになるため」さっきは「その人たちは神の子どもと呼ばれる」でした。

父である神様は悪人にも、正しくない人にも同じように恵を与え、良いものを与えてくださる神様です。

自分もそうやって、神様を知らなかった時も酷いことをしていた時も愛され見放されずにここまできました。だから、同じように、自分に害を加える人であっても、愛し祈ることです。「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」その人こそ心貧しい、でも、祝福された人、平和を作る人です。


繰り返しますが、自分ではできません。この祈りをしてくださったのは僕のために死なれた、そして、敵のために死なれたイエス様です。白目を剥いて呼吸ができなくなるまで、敵を愛し、敵のために祈り、敵を赦してくださったのはイエス様です。

そのイエス様の御霊によってだけ、僕らは変えられます。自分の努力ではムリです。聖書知識がいくらあってもムリです。

憐れみ深いイエス様の霊が、平和を作るイエス様の霊が僕らの中に住んでいるので、御霊と一緒に敵を愛する赦す祈りをします。


心貧しい人は幸いです。自信を失い、自分が正しい、という高ぶりを捨てた空っぽの心にはイエス様の心が注がれます。自分を失った人はイエス様への信仰で満たされます。聖霊の満たしはまず自分の思いを捨てることです。心貧しい人は幸いです。


敵を愛し祈りますが、実際には見える敵から攻撃を受けます。悪口を言われたり、ありもしない噂をされたりすることもあります。今日の箇所の最後は、その人への神様からの大きな大きな報い、喜び、ご褒美がある、と書かれています。

この箇所は一番僕が伝えたいところです。


10,義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

11,わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

12,喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。


塚本虎次郎訳「褒美がどっさり天であなた達を待っている」


喜びなさい!迫害された、敵を愛し、赦す祈りをしたら、虐められたなら、そうしたら、神様から、天使たちから、大歓声が沸き起こっています。よく忍耐した、よく赦した、よく愛した。仕返ししなかった。悪に対して善で返した!


喜びなさい、前の訳では喜び踊りなさい!です。みなさんどんな時に踊りますか?ボーナスがどっさり出た時ですか?僕も会社員の時は喜びました。でも、それ以上です。天からのボーナスは破格の大きさです。敵を赦し、敵を愛し、忍耐した時に注がれます。喜び踊りなさい、と言います。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。」


殺されることはないかもしれないけど、イエス様と一緒に敵を愛そうとしたら赦そうとしたら逆に傷つけられることがあります。そしたら喜びなさい。神様の喜びが大きいから。神様ために預言した人たち、証しした人たちはいつもトラブルがつきまとい、いつも祈りと赦しと愛で返した。悪に対して善で返した。それこそが貧しい人の喜びの結末、自分に自信を失っている人の喜びの結末です。心貧しい人の祝福です。これは、自分の心ではなく、イエス様の心です!


●まとめ

今日のメッセージは

1貧しい人の祝福と、満足している人の難しさ。

2内側を認めることの大切さ

3貧しさを知る人の喜びの結末。


今日の落胆は神様に祝福されるための通過点!


考えてみましょう。


あなたが一番ガッカリしていることはなんでしょう?

その落胆がもたらす神様の祝福を幾つでも挙げてみましょう。


もう一度3-12節を読みましょう





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