マタイ9.16-17
イエス様の導きやご支配はまるで小麦粉に入れたパン種のようだといいます。ほんの少しのパン種が全体が大きく変え、前と後では全然違います。(マタイ13.33)また、イエス様の国はからし種のようだといいます。一番小さい種と思って植えてみたらなんと、鳥が巣を作るほどの大木になります。(マタイ13.31-32)だから今の形を見て、「イエス様はこうだ」とか、「信仰生活とはこうだ、教会とはこうだ」とか「自分の人生はこうだ」と決めつけてはならない、と聖書は言います。こうだと思い込んでいたら、イエス様はもう次の段階、次の形へ進んでおられます。与えられる成長は僕らには予想がつきません。だから求められているのは変化と成長を受け入れる柔軟さです。ガンコになってキープしようとすると自分の方が壊れてしまいます。イエス様はおっしゃいました。
(16節)
だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。
当時の布はウールや亜麻布が一般的だったそうで、洗うと縮みます。だから、変化しなくなった服に変化する布を縫い付けると、服を引き裂いてしまいます。そのように、イエス様のなさることを決めつけて、今までの形に縫い付けようとするのは危険です。今までの形には収まらない方です。
(17節)
また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」
ぶどう酒は発酵して炭酸ガスが出て、それに応じて皮袋が膨らむそうです。新しい皮袋には柔軟性があるのでぶどう酒の変化に耐えられます。もしも古くて硬くなった袋に入れてしまうと、「ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。」僕らは古い形にガンコになりがちです。が、神様はそこにとどまる方ではありません。神様がなさる変化や成長を古い形に押し込めようとするなら両方ダメになってしまいます。
形を決めるのは中身です。僕らの形を決めるのはイエス様であり御霊です。神様が、僕らの生活をを変え、教会の形を変えていきます。礼拝のスタイルも教会の組織形態もイエス様のなさる事に応じて変化していきます。
だから、決めつけないで、形を先に決めてしまわないで、自分を変えていただきなさい、と聖書は言います。
(ローマ12.2)
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。
風が思いのまま吹くように、僕たちの中におられる御霊は思いのままに僕らを変えます。(ヨハネ3.8)神様のなさることが僕らの形を決め、教会の形を決めます。形が内容を決めるのではありません。子ども服は一年も持ちません。どんどん大きくなる子どもにはサイズに合った新しい服が必要です。
僕らは今までの形を手放す必要があります。気に入っていたし、過去の時代には合っていたかもしれません。が、イエス様の国は成長し変化します。子ども服と同じように「昔は着れたのに」では済まされません。
いつも神様のなさることは新しいです。「見よ。わたしは新しい事をする。」とおっしゃる神様です。(イザヤ43.19)だから僕らも自分を手放し、変えてもらいましょう。「信仰生活とはこうだ、教会とはこうだ」とか「自分の人生はこうだ」「イエス様はこうだ」と決めたつけた枠に押し込めることがないようにしましょう。そうしようと思っても、相手は大きすぎる神です。僕らがコントロールできる方ではないし、そうすべきではないし、そもそも、それは無理です。ハレルヤ!
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