2024年1月20日土曜日

マタイ9.35-10.1 天からの働き手 肉からの働き手

 天からの働き手 肉からの働き手 マタイ9.35-10.1


1 イエス様に無限の愛と憐れみがあります。

2 神様からの愛と憐れみの働き手を送ってくださるように祈りなさい。

3 愛と憐れみはイエス様から与えられます。


結論「私たちには愛も力もないけど、イエス様が必ず与えてくださる!」


35,それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。

36,また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。


●1 イエス様に無限の愛と憐れみがあります。


36,また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。


「憐れまれた」激しく揺さぶられ、同じ心になり一緒に悲しく思うことです。

岩波「腸(はらわた)がちぎれる想いに駆られた。」


神様がこの世界を造られた願いは、人々が悲しむことでもなく、苦しむ事でもなく、争うことでもなく、戦うことでもなく、殺すことでもなく、美しくて、愛に満ちた世界を最初作られました。だのに、そして、今はそれが崩れ、ますます終わりの日が近づいています。


イエス様から見た世界は当時も今も「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていた」とあります。羊がボロボロに傷ついて倒れ、うめいているのに誰も助けてくれないかのようです。それをみて「群衆を見て深くあわれまれた。」とあります。


羊は羊飼いがいなければ自分で餌場に行けず、水場にも行けないそうです。ただ、前の羊についていくだけで、前の羊が崖から落ちれば自分も落ちる。前の羊がうずくまったら自分もうずくまる。そのような弱いものだそうです。だれも導いてくれない、誰も世話をせず、ただ弱って傷ついて、むしろ苦しめられ搾取されてどこにも助けがなくうずくまっている羊のようです。


イエス様が人々を癒す理由は愛と憐れみです。


35,それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。


どのように癒していたのか、9章全体にその憐れみが書かれています。特に9章に書かれている1日はすごい一日でした。


小さい娘が死んで、悲しむお父さんが来て、イエス様を呼びます。すぐに行かねばならない時に、12年間も病気が治らない女性がきて、イエス様は彼女に向き合い、癒されます。その女性を癒し、話し合い、後で、娘が死んでしまった会堂司の家まで言って、女の子を蘇らせます。


日が暮れて、ようやく滞在していた家(多分ペテロの家)に向かおうとします。でも、その時にまた事件が起きます。叫びながら2人の盲人がついてきます。なんと、イエス様が滞在している家の中まで勝手にわめいて上がり込んできました。

イエス様にはプライバシーはありません。追いかけてくる容赦のない人々が、イエス様にしがみつくようについてきます。それでもイエス様は彼らに向き合います。

一瞬のプライバシーもないイエス様です。 プライベートな時間は、朝早く、まだ暗いうちに、みんなが起る前です。祈りのために荒野に出ていくときだけです。

夜に盲人たちは癒されました。するとなんと、彼らは家から出ていくとそれを言い広めます。その夜のうちに次の事件が起こります。

32,その人たちが出て行くと、見よ(どれほど驚くべきことか  人々はイエスのもとに、悪霊につかれて口のきけない人を連れて来た。

33,悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うようになった。


イエス様は一人ひとりを愛し憐れみ、向き合い時間を相手に与えます。

イエスが人々を癒す理由は、神様の国、神様の願う愛と憐れみの世界を表すためです。憐れみとは、相手が悪くても、何度裏切られても、時間がかかっても愛することをやめない心です。悲しむ人と共に悲しみ、なく人と一緒になく共感力です。


イエス様はもうすぐ神の御国が来ることを伝えています。でも、それはいつも上から出なく、愛と憐れみと癒しと一緒に伝えます。それが福音、良い知らせだからです。


そして、御国は病気や死のない世界のことです。それを表すように人々を愛し、癒してくださり、将来の御国を見せてくださいました。


35,それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。


御国を伝えることや福音を伝えることは、愛と憐れみ、そして癒しとセットです。


36,また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。


●神様からの愛と憐れみの働き手を送ってくださるように祈りなさい。


御国の福音、愛と癒しを表すのはイエス様だけで頑張るのではないです。

イエス様は弱っている羊たちのような人々を見てこう言われます。


37,そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。

38,だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」


急に収穫の話に変わります。作物の収穫は最後の日のこと。マタイ13章を読むと、良い麦は倉に入れ、悪い麦は燃やされる日です。選別の日です。全ての人が神様の前に集められます。そして、祝福される人と、呪われる人に別れます。

とにかく、良いものも悪いものであっても、収穫は人間全員です。まずは集められます。その時に祝福された収穫となるように、良い作物となるように働く人が少ない。


弱っている羊も、収穫に至らずに滅んでいく作物も同じく苦しんでうめいている人間のことを言っています。


畑に種を蒔くけど育たないで捨てられる作物がある。また、生まれたけど弱って死んでいく羊がいます。それを見て、働き手が少ない、とおっしゃいました。


種は撒かれ芽は出したけども、枯れそうになっている人たちです。

種は芽を出すけど、ある種は枯れてしまう、と言います。ある種は茨に塞がれて成長できない、と言います。つまりこの世の思い煩いや誘惑に阻まれて枯れそうになってる人たち。ある種は、薄い土の上だったので、下には岩があって成長できない。すぐに芽を出したけども、頑固な自我が岩のように固く凝り固まっていて、それ以上成長することができない人。ある種のように悪魔に食べられてしまう人たち。


働き手は作物がきちんと育つことができるように、雑草取り、土を耕し、岩を取り除く。カラスのような悪魔が寄ってこないように、追い払う、そのような働き手です。

作物を愛し、憐れみ、大事にして守り育てる良い働き手を送ってくださるように神様に祈りなさい。そうじゃないと、ただ枯れていくだけの群れ、死んでいくだけの羊たちです。


良い羊飼いは一人ずつ名前を呼んで目をかけ手かけ、緑の牧場で休ませ、水辺に連れて行ってくれますす。愛と憐れみを注ぐそのような働き手を送ってくださるように、主に祈りなさい。


イエス様は「働き手が少ない。」とおっしゃいました。当時の働き手、先生と言われる人たちはいました。でも、天からの愛と憐れみで本当に羊のことを心にかけ愛して手をかけて、弱った羊を強め、病気のものを癒やして、傷ついたものを介抱して、追いやられたものを連れ戻す、そのような働き手が少ない、とおっしゃいます。


預言者エゼキエルが警告しているように、羊を養うのではなく、奪ったり盗んだり利用したりするだけでした。


(エゼキエル34章2節から8節)


2『神である主はこう言われる。わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。牧者が養わなければならないのは羊ではないか。

3あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。

4弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。

5彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となった。こうして彼らは散らされた。

6わたしの羊はすべての山々、すべての高い丘をさまよった。わたしの羊は地の全面に散らされ、尋ね求める者もなく、捜す者もない。


羊の毛をまとい、つまり羊を生かすのではなく殺して、それを奪って自分の服にしていた、と言います。


・神様から送られた愛と憐れみの働き手でなければ意味がない。


イエス様は、収穫の主に祈れ、とおっしゃいました。「収穫の主」とは、愛し、育て、集めることができる主です。

神様だけが、愛であり、憐れみに満ちた方だからです。

それができる神様から、愛と憐れみの働き手を送ってくれるように祈りなさいと教えました。

無限の聖霊による愛と憐れみと力でお世話をする働き手が与えられるように祈りなさい、とおっしゃいました。


弟子たちに、君たちが今度は頑張れとは言わず、まず収穫の主に祈りなさい。

神様から送られた人でなければ意味がない。神様の愛によって耕し、神様の憐れみの心で育てる働き人でなければ意味がない。だから送ってくださる神様に祈りなさいと。


やりたい、頑張ります、という人でなく、自分のプライドとか評価のためにやる人ではない。

渋々、嫌々ながら、雇われたから、ではないのです。神様からの働き手です。


働いてくださるのは主です。弟子たちは、良い働き手になれるように頑張りなさい、とは一言も言われてないです。

愛し育てて集めることができる神様に、祈りなさい。弱り果てている羊たちを見て一緒に悲しみ、彼らの気持ちに寄り添って、一緒に歩む働き手が送られるように祈りなさい、と言われました。


聖書知識だけを振りかざして上からあーしなさい。こうしなさいと教え、自分は安全圏内で、指一本問題に関わらないような人ではなく、自分の正しさや主張をアピールする先生ではありません。イエス様が模範です。


35節から36節

35,それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。

36,また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。


イエス様は早く救出しなさいとは言わなかったし、効果的な伝道プログラムを考えなさい、神学校に行って学びなさい、とも言われません。愛して育てて集める収穫の主が働き人を送ってくださるように、祈りなさいです。主が送ってくださった人でなければだめ、ということです。やる気とか、人の作った仕組みとか、そういうものではありません。


イエス様は弱ってる羊たちを見て、立ち上がれない人たちを見て、まるで自分のことに悲しんで深く憐れみ、触り、関わる方です。不衛生で悪臭がするような人たちに一人一人に触れて癒されました。いつもそうです。たくさんの群衆がいても、まとめて魔法の杖を振って一瞬で癒す事もできたのに、そうではなく、一人一人と時間をとり、憐れみ、愛し、向き合って癒されました。


そのように、イエス様から与えられる愛と憐れみを持って人と関わる人を送ってください。と祈りなさい。

聖書は愛がなければうるさいシンバル、騒音だと言います。


1コリント 13:2

たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。


1コリント 8:1

知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。


「スピリチャリティ信仰への道」HBIの霊性の神学の教科書です。ゆうほインターンと牧会チームで一緒に読もう、という本です。本当に良い本です。





自分には愛も憐れみもないなと思います。でも大丈夫!この後、10章1節で与えられる事実を読みます。

神様だけに愛と憐れみが満ちています。その聖霊に満たされた働き手は神様が送ってくださいます。


そのような奉仕者が送られるため祈りなさい、です。

総会に向けて形を作り、組織を作り、係分担を作ってルールを作るのも大事です。でも、それ以上に、愛して育ててくれる神様に、働き手を送ってくださるように祈りなさい。です。


イエス様が祈りなさい、とおっしゃったことは実現します。祈りは聞かれます。


●愛と力はイエス様から与えられます。


弟子たちはまず祈りました。そして、祈っていた弟子たち本人が神様から力を与えられ、愛を与えられ、人々を癒す人になりました。


1,イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。


弟子たちは、元々は現実主義です。パンがなかったら、人々を解散させましょう。それぞれ村に行かせましょう。と言う弟子たちです。でもイエス様はあなた方がパンを与えなさい、とおっしゃいます。弟子たちには無理です。と思います。5000人を相手に、5つのパンでは何もできません。


困っている人たちを見て、関わらないほうがいいよ、先生も時間も遅くなりましたし、終わりましょう。という人たちです。

うるさい子供たちを見て、じゃあまだ帰りなさい、という人たちです。ところが、イエス様はと弟子たちを叱って、子供たちを私のもとに来させなさいとおっしゃいます


弟子たちには愛もないし力もないです。でも、その権威を癒しを愛と憐れみの力をイエス様が与えてくださいました。


1,イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。


送ってください、と祈っていた弟子たち自身が、神様から送られてきた人、神様からの力がある人になりました。神様からくださった愛と権威で寄り添う人、神様から与えられた権威によって、悪霊を追い出す人、そのような人に変えられました。


恵庭にあるライトフルチャーチの牧師長沢ひろ。カナンプレイズチャーチは何年も恵庭で伝道していて、そこに牧師が与えられるように祈っていました。ひろも祈ってたそうです。働き手を与えてください。とずっと祈っていたら、そのうち、ん?まさか、俺?と思うようになってきたそうです。送ってください、働き手をください、と祈っていたら、その人に力が与えられる、ということがあるようです。弟子たちはまさにそうでした。


●適用


私たちはただ神学生を送れば良いということではないんです。神様からの働き手を送って下さるように。神様の愛と憐れみと権威が与えられる、神様からの働き手が与えられるように、送ってくださるように、私たちはのために祈るんです。

聖霊に満たされた人が送られるように祈りなさい。自分の力でなく聖霊に満たされた働き手が送られるように祈りなさい。


愛がなければ働きは虚しいです。弱り果てている羊を見て激しく悲しみわななき、そして働き人を送ってくださるのは神様です。養ってくださるのは神様です。教会の内部だけでなく、世界中に紛争、格差、虐待、そのような世界に弱り果てている世界に、聖霊に満たされた働き人を送って下さるように祈りましょう。


そして、聖霊の力は弟子たちと同じように僕らにも与えられます。

イエス様の力と支配によって祈るまた命令する権威を預かっています。僕らの力でなく、イエス様の権威、力に信頼することです。


ヨハネ15章7節

7あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。


イエス様に留まること、イエス様からの愛と憐れみの聖霊を求めること。イエス様の権威を信頼すること。

そのように留まってるなら、弟子たちと同じように、イエス様と同じように癒しを祈り、悪霊が出ていくように祈ることができ、それが叶えられます。


僕もHBIで教えてきて、正直、この人が卒業して教会に遣わされたら混乱するだろうなと思う人もいました。

神学生だから、点数がいいから、頭がいいから、聖書知識があるから、と誤解され、後で教会が傷つき、散らされ、弱体化することもあります。だから祈りなさい 収穫の主に働き手を送ってくださるように。深く憐れみを持って世界を愛しておられるイエス様の聖霊に満たされた働き手を送ってくださるように。


私たちがまず、最初に任されているのは祈りです。聖霊に満たされた奉仕者が送られるように祈ることです。

その時に自分にも聖霊の満たしを経験します。


僕らは弟子たちと同じように、イエス様の名前、権威によって、悪霊を追い出し、癒しを祈ることができます。


主が家を建てるのでなければ、それはむなしい。愛がなければ、それが虚しい。うるさいシンバル。やかましいドラです。祈りましょう。聖霊に満たされた働き手が与えられるように、送られてくるように祈りましょう。そして、聖霊に満たされて力と愛が与えられるように祈りましょう。必ず与えられます。おそれなく、祈ることができます。癒しを祈り、悪霊が出ていくように祈りましょう!

聖霊は与えられます。


0 件のコメント:

コメントを投稿