マタイ13.24-30
僕らは他人に点数をつけてさばくのが大好きなようです。あの人はこうだああだと、まるで審査員のようです。ところがイエス様は「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。」とおっしゃいます。(ルカ6.37)
悪い人を排除しようと思ったら、実は良い人だったりします。良い麦と毒麦の見分けが難しいように、人間を見極めることは簡単にできることではありません。それは神様だけが正しく正確になさることです。だから僕らは先走った裁きをすべきではありません。
(1コリント4:5)
あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。
この世界を神様がお造りになった時、それは神様の子どもたちのための良い素晴らしい世界でした。ところが悪魔はこの世界に悪魔の子どもたちを生み、同じように育てることに成功しました。今は両者が混在しています。イエス様はそれを畑の良い麦と毒麦にたとえて教えてくださいました。
(24-28節)
24,イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
25,ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。
26,麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた。
27,それで、しもべたちが主人のところに来て言った。『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』
28,主人は言った。『敵がしたことだ。』
「毒麦なんて抜いてやる」と農夫は思います。が、畑の主人はそれを制止します。理由は間違って良い麦も抜くことがあるからです。
(28-30節)
28 しもべたちは言った。『それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』
29,しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。
30,だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』」
神様の子どもたちと悪魔の子どもたちが混在している世界ですが、両者の見分けは難しいし間違えやすいものです。イエス様の時代、悪い人だと思われていた収税人や遊女たちは神様の子どもになりました。正しい人だと思われていた律法学者たちは、イエス様から「まむし(悪魔)の子」と呼ばれています。(マタイ23.33)
現在も、ひねくれた人だと思ったら神様に愛される子どもだったり、暴力的な迫害者と思ったらいのちを捧げる伝道者になったりします。神様のなさることは僕らの思いを遥かに超えています。でも、最後には神様だけがちゃんとさばいてくださいます。僕らの目にはわからないです。さばく権利は与えられていません。
(40-42節)
毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのようになります。
41,人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、
42,火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
それまで、私たちはさばいたり、報復したり、勝手に排除したりしてはいけません。神様がそのときには全てを明らかにしてくださいます。
隣の人は迷惑な人かもしれません。それでも神様がどのように見ておられるかわかりません。だからイエス様は敵を愛し、赦し、忍耐しなさいと繰り返しておっしゃいます。自分に挨拶してくれる人だけを愛したとしても意味がありません。(マタイ5.43-48)自分の感覚でこの人は毒だと決めてしまうのは危険です。裁きは神様におまかせしましょう。すべき事は一つです。全てを明るみに出される神様を信頼し、忍耐し、隣人を愛することです。ハレルヤ!
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