マタイ13.44-46メッセージ「何よりも大事なもの、何よりも大事な人」 (2/4)
①御国ってそんなに宝?
②喜びの大切さ
③あなたこそ宝
結論はこちらです。「神様に愛される宝として、喜んで全てを捧げる人になります!」
①御国ってそんなに宝?
・神様の御国の意味 その1
あの世とか天国って言い方しますけど、それはほんの一面です。神様のバシレイアをギリシャ語辞典を引くと「王国、支配」天の御国=神様の王国、支配です。
僕の言葉で言うと、神様の思い通りになる世界です。神様の思いのままの国です。
イエス様がおっしゃいました。「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。」
で、問題は、僕らにとってそんなに宝ですか?という問いです。「そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」そこまでして全てを手放しても神様の思いのままになって欲しいですか?という問いです。
みんな本性は自分の思いのままにしたいわけで、神様の思い通りになる世界をそんなに宝、喉から手が出るほど、欲しいとは思わない人が多いと思います。イエス様を知らなければ、あり得ない話です。イエス様を信じてからも、最初は神様、愛してください。こうしてください。僕の夢を叶えてください、とお祈りして、思い通りならないと、祈ったのに、言うこと聞いてくれない、とふてくされたりします。最初から神様の思い通りにしてくださいとか、神様の思い通り、自分の思い通りでなくていい、ってお祈りする人はあまりいないと思います。
・神様の御国の意味その2
御国の説明は主の祈りがすごく僕は的確だと思います。
サンドイッチの中身のように1行目と3行目の真ん中に御国がきますようにって書いてあります
御名が聖なるものとされますように。
(御名があがめられますように)
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように、
地でも行われますように。
つまりこの御国っていうのを、一行目と三行目が説明して支えてくれています。
まず御名が崇められますように。2017訳は御名が聖なるものとされますように。
この1行目も御国を表してます。神様だけが褒められますように。そのような世界。御名というのは権威とか力を表します。だから、神様の力だけが聖なるもの、つまり、人間の力とか人の権威とか、人がほめたたえらえっるとか、そのようなゴミをくっつけない、人の権力にも能力にもよらない世界。人に支えてもらわない世界が御国です。一つの面です。そのように祈りなさい、とイエス様が言われます。
そして、3行目は、御心が天で行われるように、地でも行われますように
御心とは、これも調べると、神様の意思、神様の願い、神様の選択、神様の望みがなりますように。
まさに、神様の思い通りになるように、そのように祈りなさい、と言われました。これが御国です。
御国と言うのは、神様の力だけが誉められ、讃えられ、そこには人間の自慢や力は全く排除されて、そして、神様の思い通りになる世界です。
これが隠された宝だって言うんですね。そしてそれを祈りなさい、とおっしゃいます。
・そんなに宝?
僕らの肉の思いは自分の思いがなりますように、自分の力でできますように。私に賞賛と注目が来ますように。これは御国ではない。で、自分の国自分の夢が叶うことを祈ってる人にとっては、神様だけが全て、神様の願い通りになる世界は宝とは思えないと思います。だって自分の願いじゃない世界。御国は「神様の思いのままの国」です。
だから「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。」隠されてるんです。わかる人にはわかる。欲しい人には宝。けど、わからない人には価値がないし、その宝は発見できないし、見つけてたとしても宝とは思わず、欲しがらないと思います。
イエスを信じましたよ。でも自分の願いが叶うことが優先の人は、いつも神様が不満。イエス様の体である教会も不満。
祈っても言うこと聞いてくれないじゃん。この教会私の意見通らないじゃん。だから神様より自分の用事優先。時間余ったらディボーションでもします。余裕ができたら礼拝します。自分の服買って、から、お金余ったら献金します。
その人は御国はそんなに宝でもないし、喜びのあまり、全部手放すとはならないと思います。
天の国、天国、後でもし行けたら行きます。
食事会の誘い程度。教会のイベントのお誘いの答え方くらいになってしまいます。
全てを手放して手に入れたいですか?それほどでもないです。まして、喜びのあまり、と言う気持ちがわからない人もいます。
だからイエス様は隠されてるっておっしゃいます。わかる人にはその価値がわかるけど、わからない人にはそんなに価値がない。天の御国畑に隠された宝のようです。
その価値を知った人にとっては、全財産を売り払ってでも手に入れたいものです。しかも喜びのあまりです。
自分でなく神様の思い通りになる国、世界、支配っていうのがどんなに価値があるか、自分の願いが叶よりもずっと良いことがわかる人にはわかります。
・全てを手放しても手に入れたい喜びの御国
なぜ喜びのあまり?なのか。わかる人にはわかります。神様の思い通りになる世界は、全ての良いもので満たされる世界です。そこでは私たちのこと愛する子、喜びの子、宝の子と呼んでくださいます。自分で自分を幸せにしよう、自分を満たそうとしなくていいんです。もう幸せだから。もう愛されているから。
神様から離れた僕らは欠乏感があって、何かで満たされたいともがきます。誰かから愛されたいと思って、受け入れられたいと思って、お金を払ってでも接待しちやほやしてくれるお店に行こうとします。
アイドルのライブに行って「○○ちゃん大好きだよー」と叫びます。アイドルは「みんな大好き!」と叫んでくれます。お金を払って一時の幸福感を求めます。でも、アイドルがみんな大好きだよー、というのはウソです。
あるいは、彼氏ができたら幸せ、彼女と結婚できたら幸せ、と思って求めます。ところが結婚すれば幸せになれる、というのは間違いだと既婚者はみんな知っています。結婚や恋愛が僕らを満たすことはありません。お金で買える幸福感も一時的です。
美味しいものは幸せにしてくれます。でも、一時的。この欠乏感を不安をなんとか埋め合わせようとするのがこの世界です。
でも、天の王国は違います。全てが満ちている世界です。御霊の国です。お金の不安も健康不安も災害の不安ありません。悲しみも叫びもありません。病も死もない世界、神様だけが全ての世界です。まさに、あのエデンのそののように、美しく。光に満ちていて、愛に満ちている世界です。
地面に宝を隠すのはこの時代の人々にとって非常に一般的だったそうです。私たちは銀行にお金を入れたりします。この時代、価値があるものは地中に埋めたのは普通でした。パレスチナは戦争の場だったので、人々が征服されたり、盗んだり、略奪されたり、という時代には、地中に埋めるのが普通だったそうです。所有者不明の宝があったそうです。
そしてそれはそれは土地の所有者のものになるそうです。だから、宝を発見した人は全ての財産を持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。それだけです。彼が欲しいのは畑ではなくその宝です。
(44)
天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。
周りから見ると、何をやってるかわからないと思います。なんであんな畑を買おうとするのかわからない。それは隠されているからです。
天のみ国を手に入れる人は、全てを手に入れる人です。愛されることも、食べ物や着ること、収入も僕らが心配するもの全部与えられる世界です。だからイエス様は「神の国をまず求めなさい、そうすればこれらは全て与えられます」とおしゃいます。そこでは、お金もう求めなくていいんです。愛されようと頑張らなくていいんです。もう、何を着るか、何を食べるか、心配しなくていい。全てが美しくなる世界だから。
周りからおかしくなったって嘲られるかもしれない。でも関係ないです。「喜でいるから」です。
今まで受けてきた教育、信念手放します。成功するとビジネスの法則さえ手放してしまいます。しかも、いやいやながらではなく喜びのあまりです。本物を知った人は、それ以外のものが小さく無価値に見えてきます。
手放したらご褒美をあげるという計算や取引ではなくて、ただ嬉しくて、思わず全部手放しても手に入れたい、ほしい、って思う。そのような国です。
手放してみたら思った通り、地上にいながらにして、その喜びと感謝は増えていきます。
②喜びの大切さ
喜びはすごく大事です。
もしこの喜びとか、イエス様の愛を知らないまま、自分を捨てなさい、とか、手放なさいとか、献身しなさい、とか言われているなら、カルト宗教のようです。搾取されて利用されているだけです。
また、ある人は根性で自分で自分を鞭打って従おうとします。愛されている喜びではなく、こうでなければ、こうあるべき、と言う縛りです。自分ルール。とか神様を取引相手だと思ってる人。こんなに頑張ってるからよくてくださいよ。それは、まさに天の御国とは逆。自分の力、で神様に認められようとする痛い痛しい行為です。天の御国は人の力とか権力によらない、喜びと平安の世界です。苦行ではありません。
もしみなさんに喜びがないのなら、それは自分の力、自分の計画で生きるからです。神様の思いのまま国ではなく、自分で作ろうとする神様の世界。どこかズレています。
喜びがないまま、渋々何かを手放しても、不満が募ります。神様の思い通りにすればいいんでしょ。やらされた、とか、教会の決まりだから、と渋々従うなら、その結果は文句、落ち込み、自分を責め、他人を責め、教会を責めるばかりです。
それは、神様の国を求めているのではなく、自分の国を求めている姿です。
「そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」本当に神様に出会った人は喜びのあまり、全部手放して神様の国を手に入れます。
もちろんイエス様に従う世界は苦しみはあります。悲しみもあります。迫害にもあいます。誤解され、責められます。
でも心の内側には神様から愛されている確信と平安があります。まるで内側から流れる泉のように聖霊の喜びが流れている、そのようなものです。
今苦しいけど、イエス様のために攻撃されているけど、これは喜ばれてる、という確信です。その先にもっとすごい栄光が待っていると言う喜びです。いつも礼拝の最後にみんなで祈っています。
(エペソ1:18-19 )
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、(…中略…)神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
聖霊によって心の目が開かれます。聖霊によって喜びと希望が神様の偉大さが、すぐここにいてくださることが見えるようになります。聖霊を求めましょう。喜びは与えられます!
③あなたが宝!
この宝とは、神の国のこと、御国が宝、と読むのが普通です。ですが、45節をよく読むと、今度は、御国が宝、とは言わず、御国は宝を探している人、高価な真珠を探している人だ、と言います。神様側が、宝の真珠を探している商人のようです。
(45-46)
45,天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。
46,高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。
天の王国の方が、良い真珠を探し、全てを売り払って手に入れたい、と願っています。これはまさにイエス様の姿です。
イエス様が僕らを宝と呼んでくださっています。高価な真珠のためには全てを捨ててくださるように、イエス様が自分の命、という代価を支払って手に入れてくださったからです。愛しています。宝です。イエス様の方が手に入れたいと探しているし、僕らのことを慕い求めてくださっています。
(使徒20.28)
神がご自身の血をもって買い取られた神の教会
みなさんに質問です。今までの買い物で一番高いものはなんですか?
イエス様は命を支払って、教会を買い取ってくださいました。それは、全く傷のない栄光の教会、宝の教会を手に入れるためです。
(エペソ5.25-27)
キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた(…中略…)ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
(43)
そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。
真珠を探し手に入れることは大変だそうです。危険を冒して探します。そしてそれが出てくると、今度は商人たちがなんとしても手に入れたいと思います。「持っていた物すべてを売り払い、それを買います。」
教会は、イエス様が命を払って買い取った宝です。「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」
イエス様が十字架につけられ、殺されていくとき、周りは誰もそれを理解しませんでした。
なんでそこまでするのかわからなったです。
まさか、それが罪人を愛し、真珠のように高価な宝のように見なし、それを手に入れるためだったとは誰にもわかりませんでした。人々はただ罵ります。
ただの汚れた罪人なのにそれを傷のない、シミもない、聖なる、高価な真珠と見なしておられました。それをなんとしても手に入れるために、全てを捨ててくださいました。
僕らはイエス様にとって良い真珠のようにみなされています、他の人からは全く理解できませんでした。イエス様が何のためにご自分を捧げているのか、ど誰にもわかりませんでした。でも、イエス様は知っていました。全部捨てても手に入れたい。一生、いや、命よりもあなたが大事。
あなたのためなら命を捨ててもいい。あなたのためなら誤解され、馬鹿にされてもいい、唾をかけられていもいい。その先に宝を見ているからです。殺されるけど、でもその先に復活があり栄光がありました。そして、愛する、聖なる教会を真珠として、宝物として手に入れることを知っていました。
教会はイエス様にとって、全てを手放しても価値があります。高価な真珠のようです。全く傷のない栄光の教会です。イエス様は知っていました。全てを捨ててくださったのはイエス様が先です。
みなさん一人一人は真珠です。宝です。全てを捨てても、手に入れたい。絶対に手放さないイエス様の宝です。
この愛を知っているから、こんなに愛され大事にされているのを知っているから、安心して、僕らは、喜んで自分を手放すことができます。もしかすると、これからの時代、迫害を受けて殺されることがあるかもしれない。でもその先には復活があり、栄光があります。神さまは僕らに絶対に悪いことをしないからです。
●どうして私たちは宝を発見できず、この世の人と同じ生活を続けてしまうのか。
イエス様を信じても、この世の人とあまり変わらず、人間関係にトラブルを抱えたままで、この世のものに引きずられ、目の良く、肉の良く、暮し向きの自慢に縛られ、捨てられないのはなぜ?どうして、天の国をイエス様をそんなに喜べないのでしょうか。
その人は自分を手放してくださったイエス様の愛をまだあまり知らない人だと思います。
また、実生活で、この地上にいながら、神様のために手放した結果、天から注がれる喜びをまだあまり体験してない人だと思います。
もちろんイエス様を信じました。お祈りもします。教会にも行きます。聖書も読みます。聞きます。でも、聞くだけでおわちゃう人は、その喜びをあまり知らない人だと思います。
車の学科試験の講義は受けているけど、実際に乗ったことのない人は運転を知らない。運転の仕方は聞いてるけど。実際に乗ったことがない人。
イエス様は聞くだけで従わない人は、「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人」と言われました。愚か、というのは馬鹿な人、という意味です。
ぜひ手放す祈りをしてほしいと思います。
ある人は、手のひらを下にして、手放す祈りをする、といっていました。次に神様の恵とご計画を受け取るために、手のひらを上にして祈ると言っていました。「スピリチュアリティー 成長への道」の本にありました。
こうなりたい、ああしたい、あの人がこうしてくれない、ああしてくれない。そのような自分の願いや思いを手のひらを下に向けて全部手放すようにします。握りしめるのをやめます。思い通りでなくていいです。
ある人は、グーの手をパーにして明け渡す祈りをする、と言っていました。これは握りしめていたものを手放します、という祈りです。
自分を捨てて捧げてみると言うことです。天の王国、神様の支配のために、自分を捨てることです。その時に私たちはこの世にはない天からの喜びを感じることができます。それは自由で、軽くて、喜びの感覚です。
神様をすごく近く感じる時皆さんあると思います。それは自分の願いを叶えようとしている時ではないです。
神様を近く感じるのは、悔い改めて、自己中でわがままで欲しがりな自分を認めて捨てることです。
何かを手放した人が重苦しくなっているのを僕は見たことがないです。
むしろ反対に、自分の思い、自分の計画、自分の願い、欲しいもの、手に入れたいこと、こうなって欲しいこと、周りがこうして欲しいこと、それを主張する人は暗くて、重くて、苦しそうです。
主のために手放していく人は、軽くて明るくて喜んでいるように見えます。
例えば、ボランティアに行きます。仕事は休みます。収入は減ります。自費で行きます。結構な出費です。向こうに行っても宿泊場所は車中泊です。ひどく疲れます。一緒に汚いなって泥にまみれて家の片付けを手伝います。体は疲れます。お金はどんどん減ります。でもその人には、神様に喜ばれている感覚がずっとあります。3.11の4日後に時に森池君と2人で行ったボランティアの喜びを思い出します。すごくお金使いました。時間も、労力もそして、危険な旅行でした。SOSの連絡をくれた福島の牧師に届けるために、灯油やガソリンをデリカに積んで、停電で信号もない道路、お店もほとんど閉まっている道をずっと進みました。でも、二人とも喜びがありました。
神様の願いに自分の心を合わせる時に、そこは天の支配、神様の国です。何かを失ったように見えても、むしろそれ以上の宝を手にしています。それは喜びです。天の御国の喜びとは、神様の願いと自分の行動が一緒になっていくことです。神様の喜びが自分の喜びになることです。
意見が対立していた相手のために自分の意見を取り下げたとき、そこには安心と喜びがあります。神様の謙遜さと自分の心が一致してくるし、何より神様に喜ばれてる感覚がそこにあります。
これは悲惨な生き方ではなく、喜びです。その先に栄光と祝福があるからです。
※木原 真牧師(主の十字架クリスチャンセンター長崎教会牧師)のHPからです。
キリスト教は禁止され、1597年に日本で最初の殉教が起こります。秀吉は、キリスト教を迫害し、京都、大坂で24人を捕らえ長崎で殺すように命じたのです。秀吉は長崎に多くのキリシタンたちがいることを知っていたので、彼らへの見せしめのために、26人を長崎まで連れて行き、十字架にかけさせたのです。見せしめのために、鼻と両耳をそぎ、惨めになった姿を大坂、京都などの主な町々で引き回せと命令しました。
真冬に800キロ以上歩かされて、処刑される丘に集まった多くの見物人たちは、26人たちが喜びに満ちて天に帰っていく姿に感動しました。どっちつかずで信仰がはっきりしていなかった人々や、信仰をそのときまでは持っていなかった人までもが悔い改めて、「私もキリシタンです。どうぞ殺してください」と代官所に押しかけて行きました。
イエス様のために命を差し出す26人の目は永遠に朽ちることのない天の喜びに満たされていました。殉教と聞くと、悲惨さや暗さをイメージしますが、そんなことはないようです。
最初に殺されたステパノの殉教の時もそうです。彼は石でうち殺されました。
(使徒7:55-56)
しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
天の御国の喜びと希望がステパノに満ちていることがわかります。イエス様のために全てを失い、命を失う時に、そこには喜びが溢れていることの実例です。
長崎で殺された26人も同じでした。
少年ルドビゴ茨木
処刑した責任者の寺沢半三郎は12歳のルドビゴ茨木を処刑にしなけらばならないと思うと彼の心は重たくなりました。
それで彼はルドビゴに言いました。「もし、私に仕える気があれば、お前を助けてつかわそうぞ。私の養子になれ」
「ただし、キリシタンを捨てることが条件だぞ。それ以外のことは何でも許してやろう。俺の養子になれば、あともう50年は生きられるぞ。おいしいものも食べられる。きれいな服も着れる。そのうえ、刀を差して武士になり、大名にもなれるぞ」
半三郎は何とかしてルドビゴ茨木を助けようと言いました。しかし、ルドビゴ少年は
お奉行さま、あなたのほうこそキリシタンにおなりになり、これから私が参りますパライソにおいでなさるのが、ずっと良いことです。あなたもキリストを信じて、私と一緒に天国にまいりましょう」
この少年は喜びに満ちて自分の命を差し出しました。天を全てにまさる宝だと思っていました。
死刑の場所が、いまや天国から降りてきた主の御臨在の中に包まれていました。見物に来ていた4000人とも言われている人々は彼らに会わせてともに賛美し始めました。
「ハレルヤ」の大合唱が起こりました。地獄の場所に天国が現れました。そこには悲しみはありませんでした。勝利者として天に凱旋していく少年たちの喜びがあふれていたのです。そしてその喜びは、そこにいた人々の内にもあふれていったのです。
ーーーーーー
僕は、教会の皆さんが聖書をただ知識で知るのではなくて、体験で知ってほしいと思います。この天の喜びのためにすべてを捨てていく喜びと祝福を今から体験してほしいと思います。
まずは小さなことでいいから、今日神様のため、地上の何かを手放していくことです。喜んで。感謝してです。
この世で価値があっても、天国では価値のないものを手放していく。そして永遠の宝を選んでいく。その体験を少しずつ毎日して欲しいと思います。
聖書は聞くだけであってはいけませんといいます
教会は、安定を求める組織ではなくて、転ばないように計画する組織ではなくて、毎回毎回キリストとともに自分を明け渡し、そのたびにイエス様がますます祝福してくださることを体験しつづける生きた教会です。私たちは人間が作った安定を求めます。神様の安定はもっと大きいです。だから、僕らは天の御国の為なら失います。手放します。でもその時にこの世にはない、の喜びが、の宝が祝福が私たちの体験となっていきます。
(44)
天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。
まずイエス様が全部手放してくださいました。僕らは真珠です。宝です。
(45-46)
天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。
高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。
1 天の御国は隠された宝です。全てを失ってもこの宝に勝るものはありません。
2 あなたは神様の宝です。
今日も愛されています。手放しても大丈夫です!ハレルヤ!
考えてみましょう。
①どうして天の御国がそんなに宝なのでしょう?
②あなたが真珠であるのはなぜでしょう。
③聞くだけでなく喜びと祝福を体験するためにすべきことを決めましょう。
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