マタイ20.17-28
スネ夫はジャイアンの前ではヘコヘコしてものび太の前では威張ります。会社で頭を下げていても家の中では横柄なのもよくある話です。僕らは全員、もれなく相手よりも自分が上という気持ちがあります。これが神様を離れた人の罪の特徴です。態度を変えるのは自己保身のためです。謙遜そうに見せながら上手に相手を支配できちゃう才能のある人もいます。いずれにしても、本当は自分が上になりたいのが人間です。そんな僕らにイエス様は言われます。
(25節から28節)
25,そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
26,あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
27,あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
28,人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」
僕らはイエス様につながり、イエス様の体の部分となりました。古い自分は死んで、新しくキリストにつながる僕らになりました。イエス様こそ力ある神でありながらしもべとなった方です。人を生かし愛するために自分の全てを差し出し、苦しめられ、嘲られ、殺された方です。
(17節から19節)
17,さて、イエスはエルサレムに上る途中、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。
18,「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、
19,異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
部長になりたい、先生と呼ばれたい、病院長になりたいなど、ストレートに権力を求める人もいます。弟子たちはまさにそのタイプだったし、二人の弟子の母親もそうでした。彼らはイエス様に直談判して自分たちが権力の座につくことができるようにお願いしました。
(20-24節)
20,そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。
21,イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」
22,イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。
23,イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」
24,ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。
権力の座を求めに来た話を聞いて、他の弟子たち全員が腹を立てました。人は不安があるから怒ります。彼らの怒りは「自分こそ権力の座につくべき」と思う証拠です。人は思い通りにならない時に怒ります。言い換えるなら思い通りにしたい、自分の計画通りにしたい、という気持ちがの現れが怒りです。計画や計算通りにならないことに不安になり腹を立てるのが人間です。自分の思い通りになって欲しいからです。
しかし、本当の自由と平安は権力や願いを手放した時に与えられます。「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」
(23章8-12節)
8,しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。
9,あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。
10,また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。
11,あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。
12,だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
イエス様こそお手本です。相手を生かすために自分の全てを捨てる方です。その先には復活があり、喜びと自由と栄光があります。このイエス様に僕らはつながっています。手放した人はそれで終わることがありません。必ず大逆転が待っています。
今日も自分の権力や、自分の栄光ではなくて、神様だけを求める人とされますように。神様の栄光と力のために、自分を捨てて仕えるものとされますように。
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