使徒の働き2:41-47メッセージ その1(前半)「みことばを聞き、仕えあうことの祝福」
ここで私たちは歴史上初の教会の様子を読むことができます。これはペンテコステの日にイエス様が建てた教会です。これが最初の教会でした。聖霊によって作られた最も純粋な教会。
彼らは教会について何も知りませんでした。教会についての本もありませんでした。もちろん教会という建物はありません。新約聖書さえまだありませんでした。セミナーも会議もないし、係分担もない、生まれたての教会です。
イエス様がおっしゃった教会は日本語で書く「教える会」ではないし、まして建物のことでもありません。教会は呼ばれて集められた人たち、という意味です。エクレシアと言います。これはイエス様がご自分の方法で建てた教会でした。イエス様が呼んで集めてくださった、純粋な教会が描かれています。ここに私たちの教会のモデルがあります。使徒の働き2章で、ペテロが立ち上がって素晴らしい説教をした結果、3,000人が信じたと書かれています。
(41)
彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
聖霊が来た時、
(1.15) そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていた
とあります。
ですから、最初の教会には3,120人の人がいました。最初の教会の人数です。3000人の教会生活の経験は僕はありません。 40人から50人の教会でも大変なのに、そんなに大きな教会だとまとめるのが大変で、秩序もルールも必要になって、煩わしいことや問題が起こるはず、と想像します。でも何と、3000人いても最初の頃は問題やトラブルはありませんでした。
それはイエス様が自分の方法で建てた教会だからです。特にイエス様が何をするように導かれたか、そして、僕らに何をするように願っておられるのか今日、一緒に聞いて行きましょう。
最初の教会がいつもしていたことは、42節に書かれている4つのことです。
(42)
彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
(聖書協会共同訳)
そして、一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた。
いつも、ひたすらです。1 教えを守る 2 交わりをする 3 パンを裂く 4 祈りをする。この4つです。
今日のメッセージでは前半の2つだけ、教えを守ることと交わりをすることだけを見ていきます。3/3のメッセージでは後半の二つ、パンを裂くことと祈りをすることを見ていきます。彼らはそれをいつも、ひたすらしていました。
1 正しいことに専念した結果
イエス様が願うことをひたすら優先した結果が47節です。
(47節)
神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。
民全体から好意を持たれました。新しい人がどんどん加えられました。その頻度は「毎日」です。
ひたすら、優先すべきことをしていたその結果は、喜びであり、賛美でありそして人々に好意をもたれ人が増えていくということでした。正しい入力をすることで正しい出力をするように、神様の願いを優先することで、神様の願い通りの結果を生み出しています。伝道とか人が増えていくことは最後の副産物のようです。(47節)。
聖霊に満たされ、みことばを学び、交わり、愛しあい、パンを裂いて分け合うことで十字架の犠牲の姿をいつも思い出し、互いに一体であることを確認して、祈りに専念している、ひたすらそうすることで喜びと賛美があり、人々が加えられていきます。
最初に伝道活動しよう!ではありませんでした。ひたすらすべきことをすることで、その結果、喜びと愛と賛美に満たされて、人々が増えていきます。
今日は前半2つ「教えを守ること」と、「交わり」の2つの姿から教えられたいと思います。
2 教えを守ることの祝福
(42)
彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
使徒たちの教えをいつもひたすら聞き、学び、守っていました。まだ聖書が編集されている時代ですから、そしてイエス様と生活した使徒たちが生きている時代ですからみ言葉は本で勉強したのではなく直接聞いて学びました。使徒たちの教えと言うのは、今で言ったら聖書の教えと言えます。
2章は聖霊が降り、聖霊に満たされて、教会ができた、という文脈です。聖霊に満たされることは、イエス様の言葉を学ぶこととセットです。聖霊に満たされて、もう、直接教えてもらうから、聖書の学びいらない、ということはないです。
教会の成長は単純に、赤ちゃんのように、イエス様の教えを聞き、食べて、吸収することが全ての土台です。
(1ペテロ2.2)
生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
新しく生まれた赤ちゃんクリスチャンは霊のミルクが必要だし、自分から欲しがります。赤ちゃんは母乳を吸うことだけを知っています。それによって守られ成長します。お母さんが授乳することは守りであり愛です。同じように、教会が喜び成長するには、まずは、イエス様のことばを聞く、学ぶことから始まります。
彼らは聖霊が降り炎のような舌が現れて、他国の言葉で神様の素晴らしさを話したり賛美したりする不思議な経験をしました。だからといってもう教えを必要としないと考えるのは間違いです。最初の教会は、神の霊によって奇跡がたくさんありましたが、それでも彼らはまだまだ無知でした。彼らは教えを受けなければなりませんでした。イエス様が呼び集めた教会はみことばを聞くこと、従うことに専念していつもそれを優先する教会です。
パウロが若い牧師テモテやテトスに手紙を書くとき、何度も同じことを言います。
健全なことを教えなさい。神の言葉を教えなさい。神の言葉を説きなさい。
(テトス 3:9)
一方、愚かな議論、系図、争い、律法についての論争は避けなさい。それらは無益で、むなしいものです。
ただ教え、説教し、聖書の朗読と勧めと教えに気を配りなさい、健全な教えで教会を育てるようにしなさい、と書いています。
(1テモテ4.13)
私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。
僕らも同じです。教会の土台は聖書です。とにかく毎日聖書を読みましょう、って洗礼準備でも学びでもメッセージでも言い続けているけども、実際はどうですか?毎日はできない、という人もたくさんいます。じゃあ聞かなくてもいい、日曜に礼拝に来るだけ、それで良いとか、たまに読むだけでいい、とは聖書は言っていません。
自分一人ででできない人はぜひ、誰かと時間を決めて、この時間は一緒に聖書を聞く時間、というのをやってみてほしいです。グループでディボーションを助け合う教会になったらその結果は喜びと愛と賛美と人が増えることです。
聖書は昔から、教会で、家庭で、みんなで一緒に聴くものでした。しかし現代では、聖書の言葉そのものに耳を傾けなくなりました。youtubeやインスタを見る時間はあっても、神様の言葉を聞く時間がないです。
ちなみに今、僕は映と玲央と週に2、3回朝10:30にグループ通話で20分間だけ一緒に聖書を読んでいます。最初の10分は、電話繋げたまま、まずそれぞれ祈って読む時間。そして後の10分間は教えられたことを分かち合ってお祈りする時間をしています。なぜそれが必要か。生まれたばかりの赤ちゃんのように聖書の言葉を毎日食べることが絶対に必要なことだからです。
昨年、聴くドラマ聖書というアプリを作っているGM財団の職員が二人東栄教会に来てくださいました。彼らと話すうちに、彼らの純粋な目的が伝わってきました。教会が少しでもいいから一緒に聖書の言葉を聞いて体験してほしいと願ってるし、それによって成長すると信じている団体でした。一緒に聖書を聞くことを英語で、Public Reading of Scripture というそうです。この団体は 「みんなで聖書 PRS Bible Club」というのを薦めています。聞くドラマ聖書のアプリを使って、一緒に 聖書を「聴く」ことを目的としています。その働きをいろんな教会に案内をしています。それによって成長し救われると言うことを確信しているからです。忙しくても、一緒に食事の前の時間でもいいし、時間を決めて聖書を一緒に聞こう、という運動です。聖書を聞くことで、1 神様がどんな方かわかります。 2 自分は何者なのかわかります 3 自分の使命がわかります。
いろんな方法があるけど、神様の言葉を聞くことの優先は全ての土台です。自分でできない人は、助けが必要です。誰かと一緒に時間を決めて助け合って神様の言葉を聞いてほしいし、教会そのように助け合って毎日読む教会になったらいいな、と思います。ある人はラインで、その日読んだところ、教えられたことを共有しています。ある人はディボーションのノートを交換しています。柚帆とルームメイトで前のGAの教会は、「ニューホープ教会」と言って、ハワイから始まって、東京、横浜、札幌にもある教会ですが、毎朝グループ通話で一緒にディボーションをすることで有名な教会です。ウェイン・コデイロ牧師の本は僕が落ち込んでいる時にすごく助けになりました。コデイロ牧師も落ち込んでいた時に、聖書の言葉が全ての土台であることに立ち返った経験をし、それを僕にも教えてくれた本です。ニューホープ教会は、グループでのディボーションを毎日勧めることで、人数的にも、喜びや賛美でもすごく成長している教会です。
それがイエス様がお作りになった最初の教会がひたすらやっていたことだからです。毎日です。まずは20分でもいいから、自分で読めない人は誰かと一緒に、助けてもらって、聖書の時間を優先する教会になってほしいと思います。みことばを優先する教会は喜びがあります。愛があります。賛美があります。全ての人たちから好意をもたれ、神様が救われる人を与えてくださいます。
(46-47)
46 そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
47 神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。
神様の言葉を優先する結果はいいことしかありません。
聖書を聞くこと読むことと、喜びや感謝や愛は比例すると思います。経験から言ってもその人には喜びがあり賛美があります。表情が変わります。力があります。光があります。愛があります。その人から出たのでなく、いのちである言葉から出る喜びです。
逆に、聖書を聞かず、読まない人はどうしても不満や不安、人の欠点、自分の欠点、心配や問題ばかりを考えがちです。表情に出ます。口に出ます。弱くなります。光を受けてないので暗くなります。いのちそのものである神様のことばとその人の生活は関係があると思います
ご飯食べてないのに元気がないの当たり前です。みことばは食事です。パンです、命です。とイエス様はおっしゃいます。
明かりがついていなので心が暗いのは当たり前です。みことばは光です。
栄養とってないのに、光がないのに、こうしなきゃ、というのはただの圧力です。イエス様の願いはまず使徒たちの教え、つまり神様のみことばを聞くのに専念することです。それが、全ての泉、全ての源だからです。聖書の言葉が教会の心臓部、命です。そこから良いものが、良い心が、良い考えが、行動が、表情が、全てが与えられます。
3 交わることの祝福
イエスが最初に作った教会は交わりのある教会でした。
(42)
彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
いつも、ひたすらそうしていた、ということです。実際の様子は、44節以降にあります。
(44-46)
44 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、
45 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。
46 そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
聖書をひとりで黙々と読んで終わりではなく、お互いに教えあい、教えられたことを実践して、互いに仕え合い愛し助け合う教会でした。それがイエスが願い作った教会です。互いに無関心で孤立して座っている教会ではありませんでした。
彼らは教えを聞いて、その通りに通りに受けるより与えることを実行していました。教えはお互いを愛すること。お互いを励ますこと。時にはお互いを戒めること。愛することは相手に自分の力も時間も心も与えることです。心を配り気を配り目を配ることです。分け合うため、助けるため、祈るため、一緒にパンを裂くためには毎日集まっていました。
コロナがあって、ステイホームと言われるようになって、それに加えて、私たちが人間関係の煩わしさから解放されたい自己中の思いも混ざってだんだん教会も私は私、あなたはあなた、干渉しないで、という個人主義の傾向があると思います。
お祈りも、個人的なことであって共有する必要ないと言う人も増えているかと思います。でも、イエス様は集まることを教えておられます。2人でも3人でも心合わせて祈るなら、私もそこにいますとおっしゃいました。イエス様の願いは最初から共同の体、一つの体です。
イエス様が十字架にかかる前にお祈りされた祈りは、何度も何度もクリスチャンが1つになること、愛し合うことです、と繰り返して祈っておられることがわかります。ヨハネの福音書17章に書かれています。父なる神様とイエス様が一つであるように、教会が一つになることがイエス様の教えです。教会はキリストの体です。1つの体です。何度も聖書が教えることです。
(1コリント12章12-13節)
12,ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
13,私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。
バプテスマというのは浸される、とか一体とされるという意味です。それはイエス様と1つになる意味です。
同時にそれは横の関係もあって、育ちも考えも違う人たちが同じ聖霊を受けて、 神様に呼ばれ、1つの体として、その部分としてつながっていく意味です。それがバプテスマです。
教会のメンバーと言いますが、英語でメンバーととは、体の器官、手足、という意味です。聖書宣教会の鞭木先生のメッセージを聞いていたら、英和辞典にそう書いてある、というので調べてみたら、本当にそうありました。この教会のメンバーです、の意味は私は体の器官の1部ですという意味です。教会員、とは、ここの手足ですという意味です。お客さんではないです。教えを聞くためにだけではなく、体の一部としてそれを実行するために呼ばれた人たちです。
腕が、これからは腕だけで生きていく、というのは無理です。指が、私は一人だけででイエス様と繋がる、というのは無理です。器官が体から離れて一人で生きていくことはできないのと同じように、クリスチャンが「交わりから外れる」ということは不可能です。指がないと困ります。どんなに静かな臓器であってもそれを失ったら体は健康を失います。
最初から神様は人間をそのように作られました。「人が一人でいるのは良くない」と言われ、神様は男と女を作り、愛しあい、助け合うように作られました。最初の教会は夫婦と神様の3人でした。夫婦が愛しあって一つになることは教会のモデルのようです。
(エペソ5章30-31節)
30,私たちはキリストのからだの部分だからです。
31,「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」
32,この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。
愛し合う男女二人が肉体的に一つになる結婚のように、教会はキリストと結婚しているかのように一つにされています。
二人はもはや二人ではなく、一体なのです、と聖書は言います。そのように、そのように、教会の一人一人はキリストと一つにされた人です。一つの体です。「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。」あの人もこの人もキリストに繋がった一つの体です。だから教会の隣の人との交わりはキリストとの交わりです。隣の席の人を見てください、キリストの体の一部がそこに座っています。
隣の人を愛することはキリストを愛することです。隣の人に頼ることはキリストに頼ることです。
(1ヨハネ1章3-4節)
3,私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
4,これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。
カトリックで人気のある晴佐久神父の本を母に勧められて読んで驚きました。晴佐久神父は病院にお見舞いに行く時に、「キリストが来ましたよ」というそうです。なんと大胆な、と思ったけども、でも、そうなんです。晴佐久神父はキリストにつながった、キリストの体の一部です。正確にいうと、キリストにつながってる一部がきましたよ、というほうが正確です。
キリストに呼ばれて教会の器官となった人はキリストを愛し、キリストに頼ります。それは、教会の仲間を愛し、教会の仲間に頼ることと同じです。彼らは日々愛しあい、助け合い、分かち合いう交わりをしていました。
44~46節では、彼らは共通の持ち物を持っていました。彼らは毎日、心から一致して神殿におり、家で食事を共にし、喜びと心からの食事をしていました。それはキリストとの交わりです。
今度市子さんと一緒に宣教旅行に行く方の証や記事を読むと、まさに持ち物を分け合うことが宣教そのもの、ということを文字通りやっているような人です。その方はもともと家庭科の教師でしたが、自分のマンションはみんなのもの、と思っていつも解放して、宣教師の滞在場所にしたり、いろんな人の共有スペースのようにしていたそうです。そして、家庭科教師という賜物も預かっていて、食べ物を分け合う、食事を分け合う、それで助けることに使命感を持っている方です。まさに、みことばにしたがって分け合い交わり、与えあうことが宣教そのものです。その結果は喜び、賛美、そして教会の成長があります。
もちろん私たち一人一人役目が違うし賜物が違います。考えが違う人たちが集められています。全然役目が違います。体も同じですが、役目やタイプの違う人たちが合わさるのが体であり教会です。
自分と違う人と交わるのは、見下したり批判するためでもなく違いを感謝し歓迎し互いに助けてもらうためのものです。体で言うなら口は手に食べさせてもらわないと自分では食べれません。手は目に助けてもらわないとちゃんと動くことができません。それぞれ、お互いを離れては存在できません。自立するようには作られていません。
それが体です。同じ役目の人だけならキリストの体ではなくなってしまいます
(1コリント12章17節)
もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
でも、実際のところ、あの人と合わない、とか、この教会は私に合わない、と思うのはよくある話です。そう思うのはいいけども、だからと言って体からもがれてしまうことはありません。手が、「いいな、口は。」「どうせ私は食べ物を運ぶだけで食べさせてもらえない」「美味しいのは口だけだ」と文句を言っても、それでも大事な手です。お互いに妬んだり、比べたりするかもしれないけど、だからもうこの体やめる、ということにはなりません。
(1コリント12章15-16節)
15,たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
16,たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
他の人と比べて自己卑下する人がいるかもしれません。自己卑下は実は高慢とセットです。もっと私は活躍したい、もっといい思いをしたい、とか、活躍したい、とか、神様が与えてくださったものよりももっと欲しがる貪りがあり、高ぶりがそこにあります。
自分が愛されるなら、もっとチヤホヤされるならいいけど。愛するのは嫌、仕えるのは嫌、もうこの教会に属さない。それは傲慢です。体の器官は、他の器官に仕えるためにあります。
(ヘブル10.24)
24,また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。
25,ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。
お互いに愛と善行に励まし合うために、一緒にいるようにと書かれています。僕らは誰かから愛と善行に励まされる必要があり、私も誰かを励ます必要があります。
最初の教会のメンバーは幸せでした。お互いを愛し仕えていたからです。受けるより与える方が幸いです。イエス様の手足として用いられ、互いに愛するために仕えるのは今も幸せです。
※礼拝のインターネット中継だけの参加でいいの?
コロナになってから話題になったテーマです。今回イエス様が願っている姿を見るならば、一緒に食べている、持ち物を分け合って共有している、毎日集まっていることがわかります。画面越しではできない交わりが教会です。特にパンを裂いて分け合うことは大切です。
次回のメッセージではパンを裂く、一つの盃から飲み、一つのパンから食べることの大切さを学びます。インターネット礼拝で一つのパンを分け合うのは難しいのでは、集まるのをやめてはいけない、と神様がおっしゃっています。
時代は個人主義です。スマホの画面で、自分の気に入った説教だけを聞きます。リアルな教会は快適ではありません。不愉快な人に遭遇するかもしれません。気に入る話をしてくれない説教を聞かなければならないかもしれません。
小さな画面の中で、自分が選ぶ気に入った世界だけで生きようとする時代です。
イエス様が聖霊によって作った最初の教会は、病人に手を置いて癒やされ、食べ物を運び、分け合う、助け合う、リアルな神様体験がある教会でした。そのように神様の生きた体験を一緒に共有し、イエス様の手足として仕えあうのが教会です。
この動画を見ればみことばを実行し、キリストの体と交わってるとは言えません。イエス様の教会はひたすらいつも毎日交わりをし、パンを裂き、心を一つにして祈る教会でした。
●まとめ みことばを実行する交わりは祝福を生みます!
正しい教会であると、正しいことが起こります。副産物が起こります。まず第一に、彼らには喜びがありました。「そして、すべての人に好意を持たれていました」(47節)愛し合うことは、この世の人たちがイエス様を知るという結果を産みます。好意を持たれたり、新しいクリスチャンが生まれるのは御霊によって愛し合うことの副産物です。結果です。
(ヨハネ 13:35)
もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
彼らは成長する教会でした。「そして、主は教会に毎日、救われるべき者たちを加えてくださった。」みことばを実行する交わりに専念するときに、主が新しい人を加えていたということです。
これが伝道です。世界で最も優れた伝道の方法は、聖霊に満たされ、みことばを第一に求め、ひたすら学び、聞くだけでなく、実際に愛しあい仕えあう交わりをする教会です。
私たちは問われています。
Q. あなたは神の言葉を優先していますか?
それがなければ何も生まれません。愛も平安も喜びも賛美もみことばからスタートします。みことばに命と力があります。
Q.あなたはキリストの体の一部として仕え合っていますか?
教会の仲間に仕えて愛することはキリストに仕え愛することです。教会の仲間に頼ることは、キリストに頼ることです。
みなさんはどうでしょう。
(ヨハネ15.5)
わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
正しいことに献身するなら、その結果喜びが満ち、神様は毎日人々を教会に加えてくださいます。
0 件のコメント:
コメントを投稿