2024年3月18日月曜日

マタイ25.31-46

 マタイ25.31-46


僕らの人生は、神様から預かってる人生です。お金も時間も神様からの預かりものです。神様だけで十分なのに、僕らのことを同志として一緒にこの体も力も時間も使ってこの世界を愛し、癒そうとなさる方です。しかも、特にイエス様を信じる兄弟姉妹を愛することはイエス様を愛することそのもの、苦しんでいる兄弟たちを助ける事はイエス様を助けることそのものです。終わりの日にはイエス様は言われます。



(31節から36節)

31,人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。

32,そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、

33,羊を自分の右に、やぎを左に置きます。

34,それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。

35,あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、

36,わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』



祝福された人たちは、イエス様の御霊によって新しい心も力も与えられているので、自分の手柄や業績とは思わず、良いことをしても無自覚である場合が多いようです。彼らは言います。



(37節から40節)

37,すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。

38,いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。

39,いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』



今日も僕らの体も心もイエス様の1部です。預かっているお金や能力ももともと神様のものです。それは兄弟姉妹を愛するために預けられていいます。貧困や飢餓はあります。理由は愛し合い助け合う機会となるからです。心が飢えている兄弟がたくさんいます。話を聞いて欲しい人、時間を使って欲しい人、気にかけて欲しい人、そのように愛に飢えている人がいます。与えることは自分を失うことです。お金をあげるとお金は無くなり時間をかけると時間は無くなります。なので、道徳心とか「ねばならない」「与えるべき」というプレッシャーの中でするのはムリです。それらは聖霊によって与えられる愛です。御霊の愛は喜びと平安がセットです。(ガラテヤ5.22-23)その愛は神様から預かったタラントのようです。(マタイ25:14-29)僕らのものではないので、アピールしてラッパを吹く必要もないし右手でしたことは左手も知らなくてもいいことです。(マタイ6.2-4)貧しく小さな兄弟姉妹を愛する事は、イエス様を愛しイエス様と交わることです。



(40)

すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』



「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」と聖書は言います。(コロサイ3.23)僕らの人生は一度だけです。それを「さあ、わたしの父に祝福された人たち。」(34)と喜ばれるように使ってもらいましょう。


(マタイ10章42節)

「まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」



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