2024年3月19日火曜日

マタイ26.1-13

 マタイ26.1-13


何をするにも人に対してではなく、主に対してするように心からしなさい、と聖書は言います。(コロサイ3.23)損得計算でも人にどう思われるかでもなく、ただ神様に感謝して愛するため、その基準一択です。


ベタニアという町に住んでいたマリアと言う女性は効率よく仕事をするよりも、ただイエス様の近くにいることを喜ぶ人でした。そしてイエス様もそれを喜び「必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。」と言ってくださいました。(ルカ10.42) 彼女はイエス様が間もなく十字架で処刑されることを聞きます。「人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」(2)マリアはそれを聞いて受け入れ、イエスを埋葬する準備として高価な香油をイエス様に注ぎました。(ヨハネ12.2-3)これは、亡くなった人に対する尊敬と愛を表す当時の文化です。



(6節から7節)

6,さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、

7,ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。



彼女のイエス様への愛とささげげものは純粋でした。その香油の価格は高額で、300デナリ= 1年分の収入ほどでした。(ヨハネ12.5)損得ではなく、ただ、純粋なイエスに対する愛と感謝だったのですが、それを見ていた弟子たちは憤慨します。



(8節から9節)

8,弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。

9,この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」



これを言い出したのは裏切るユダだったようです。その理由は、「貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたから」です。(ヨハネ12.6)


当たり前ですが、人は罪を隠します。「貧しい人たち施せたのに!」と正しい理由で怒りますが、本音は、「欲しかった。自分のものにしたかった。」です。僕らは罪を隠すために正しく良いことを言ったり、良いことをしたりしがちです。


僕らが怒って正論をかざすときに、立ち止まって自分に聞いてみる必要があります。本当はどうしたいのか、何が不満なのか、本音では何を怒ってるのか、とです。多くの場合、貪りがあり、ねたみがあり、愛のなさがあり、赦してないことがあり、見下し裁いている人がいたりします。普段は自分でも気がつかないほど隠されてる場合が多いですが、人が怒る時には神様の義を表すものではないのがほとんどです。「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」(ヤコブ1.20必ず僕らの隠れた罪が混ざり込んでいます。


ユダは、イエス様を見下し、見限ってお金を盗んでいました。それでも表面上は正しいことを言い、イエス様に口づけしています。これが罪人の特徴です。僕らも自分に聞いてみましょう。本当は何を隠そうとしているか、何を求めているのか、と。本音は神様にもうバレています。罪は認めましょう。告白しましょう。放置するとどんどん膨れ上がってしまいます。


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