出エジプト12.43-50
「どの宗教も一緒でしょ」とか「神様は人間を分け隔てしない」と言う人がいるけども、イエス様は明らかに「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。」(ヨハネ10.9)「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14.6)とおっしゃいます。
イエス様を信じ、イエス様を受け入れ、イエス様とつながった人たちだけが、罪が赦されて裁きに会わずに永遠の祝福の国に入ることができます。
旧約聖書の時代の割礼とは、神様の民であることの見えるしるしでした男子の性器の皮を切り取ることで神様に赦され祝福された神様の子であることを体に刻み込むためのものです。。そして、イエス様が来てくださり、聖霊を与えてくださってからは「心の割礼」とか「キリストの割礼」とか「御霊による割礼」と言うように、包皮を切り取らなくても神様の子であり、祝福され選ばれた人であることがわかるようになりました。イエス様と繋がることは御霊が与えられて内側から新しくされることです
(コロサイ人への手紙 2章11節)
キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。
(ピリピ人への手紙 3章3節)
神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。
(ガラテヤ人への手紙 6章15節)
割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
神様がエジプトに裁きを下した時に、イスラエルにだけは裁きを下さず、代わりに子羊を殺すように言われました。子羊の血によって、裁きは過ぎ越され、約束の祝福された土地がに脱出することができました。それを忘れないように、毎年、羊を殺して追体験をし、神様の約束してくださった祝福を確認するのが過越の祭りです。
その祭りに参加する人には条件があります。誰でも参加ではありません。まずは神様の民であるイスラエル人、そして、外国人であれば、神様の言葉を信じて、体に割礼を受けた人限定でした。
(43節から45節)
43,主はモーセとアロンに言われた。「過越に関する掟は次のとおりである。異国人はだれも、これにあずかってはならない。
44,しかし、金で買われた奴隷はだれでも、あなたが割礼を施せば、これにあずかることができる。
45,居留者と雇い人は、これにあずかってはならない。
(48-50節)
48,もし、あなたのところに寄留者が滞在していて、主に過越のいけにえを献げようとするなら、その人の家の男子はみな割礼を受けなければならない。そうすれば、その人は近づいてそれを献げることができる。彼はこの国に生まれた者と同じになる。しかし無割礼の者は、だれもそれを食べてはならない。
49,このおしえは、この国に生まれた者にも、あなたがたの間に寄留している者にも同じである。」
50,イスラエルの子らはみな、そのように行った。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。
祝福の約束入るには割礼が必要でした。割礼は神様に裁かれることがなく、殺されることがない体に刻まれた印です。もしこれをしないなら神様の裁きを受けます。モーセでさえも息子に割礼をしていなかったために、神様に殺されそうになりました。(4章24節から26節)割礼は、神様の裁きに合わないこととそして約束の祝福の土地に入ることのしるしです。同じように、僕らにとってもイエス様を信じることは裁きに合わないことと、永遠の天の国に入ることのしるしです。
イエス様を信じた人は新しくなります。心が変えられます。誰の目にも聖霊の実が見えるように変えられていきます。今は体に割礼を受ける必要はありません。「大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ6.15)神様による区別は今もあります。イエス様とつながった人たちだけが、罪が赦されて裁きに会わずに永遠の祝福の国に入ることができます。「どの宗教も一緒でしょ」とか「神様は人間を分け隔てしない」ことはありません。イエス様によらなければ、聖霊によって新しくされなければ神様の国に入ることができません。今日もカタチではなく、心が変えられますように。いや、求める人には聖霊が与えられ、全てが新しくされます。大丈夫です。ハレルヤ!
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