2024年4月23日火曜日

出エジプト17章

 出エジプト17章


普通、僕らは問題が解決するように祈ります。…ですが、実は祈るために問題が与えらているようです。神様の愛と力と栄光を知るために、です。イスラエルの歴史を読むと、祈り求めるために水や食物が不足し、神様の解決を体験するために争いが起こるようです。祈ることによって神様の力と愛がより明らかになります。人の目に悪い出来事でも、それは神様の力と栄光と愛が現れるための通過点のようです。


荒野に導かれたイスラエルの人々は水がなくてモーセに文句を言いました。そもそも「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」という疑いです。(17)このトラブルもまた、神様を求めて神様の力を体験するためにプロセスでした。



(1節から7節)

1,イスラエルの全会衆は、主の命によりシンの荒野を旅立ち、旅を続けてレフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲み水がなかった。

2,民はモーセと争い、「われわれに飲む水を与えよ」と言った。モーセは彼らに「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか」と言った。

3,民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」

4,そこで、モーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」

5,主はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。

6,さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。

7,それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。



敵から攻撃される時も同じです。敵に勝つことができるのは神様です。人は戦いますが一番大事なのは祈り祈られることです。モーセは丘の上で手を挙げて祈り続けました。祈り疲れた時には仲間が祈りを支えてくれました。主に信頼して祈り求めることが戦いの中心でした。



(8節から13節)

8,さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。

9,モーセはヨシュアに言った。「男たちを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。私は明日、神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」

10,ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。

11,モーセが手を高く上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になった。

12,モーセの手が重くなると、彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いた。モーセはその上に腰掛け、アロンとフルは、一人はこちらから、一人はあちらから、モーセの手を支えた。それで彼の両手は日が沈むまで、しっかり上げられていた。

13,ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で討ち破った。



敵と戦うのは神様です。人には緊急事態に見えても神様にとっては緊急ではありません。手を上げるのは祈ることです。聖書は祈りのしぐさとして手を上げるように何度も書いています。

モーセは言いました。「主の御座の上にある手。主は代々にわたりアマレクと戦われる。」(16節)戦い勝利させてくださるのは神様の手です。僕らの手はその神様に信頼して求める祈りの手です。祈り疲れるモーセをアロンとフルは支え続けました。「モーセが手を高く上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になった。」(11)とあるように、祈りが戦いの中心でした。


僕らに日々起こるトラブルや問題は祈るために与えられたものです。尊敬する舟喜牧師が言っていました。「本業は祈り。副業が牧師。」


みんなそうです。本業が祈り、仕事は副業です。今日も「祈りのために、心を整え身を慎み」ましょう。(1ペテロ4.7)「怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」(1テモテ2.8)祈るために今日もいろんなことが起こります。祈りは自分の力でも栄光でもないことを認めることです。本来の僕たちに戻っていく行為です。今日も祈り続けましょう。主こそが世界の王であり支配者です。この神様と交わることができるなんて最高です。どんなことが起こっても、神様と一緒なら大丈夫です。ハレルヤ!






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