2024年5月21日火曜日

出エジプト32.1-14

 出エジプト32.1-14


神様は罪を怒り、裁き、わざわいを下す方です。罪とは神様から離れることです。神様から離れることは自分から祝福や恵みを捨てて、神の怒りや災いを自分から求めるようなものです。ほとんどの場合、本人は気づかないものです。誰かがそれを忠告することが必要だし、また誰かが代わりに神様に祈り、憐れみを赦しを求めることも必要です。


神様は「ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。(…中略…)それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」(出エジプト20.3-4)とおっしゃり、「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」と言われていました。(20.6)


ところが、モーセがしばらく離れると、途端に彼らは偶像を求めて金の子牛を作ります。神様の恵みや救いを全否定して、金の子牛が私たちを導いた、と言い出しました。神様を捨てることは祝福や恵みを捨て、自分から災いを受けに行っているようなものです。



(1-6)

1,民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」

2,それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」

3,民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。

4,彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」

5,アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼びかけて言った。「明日は主への祭りである。」

6,彼らは翌朝早く全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えた。そして民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた。



神様は怒りと裁きを宣言されました。



(7節から10節)

7,主はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。

8,彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道から外れてしまった。彼らは自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ』と言っている。」

9,主はまた、モーセに言われた。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。

10,今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする。」



神様の怒りと裁きは彼らが自分から選んだ道です。それでも、モーセは神様に願いました。彼らを赦してくださるように、憐れんでくださるように、恵みの約束を思い出してくださるように祈り求めました。すると、なんと主は「その民に下すと言ったわざわいを思い直された。」とあります。(14)



(11節から14節)

11,しかしモーセは、自分の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。

12,どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。

13,あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」

14,すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。



この後も、イスラエル人たちは何度も何度も神様を裏切り、神様の怒りと裁きを招きます。そのたびにモーセは神様の前にひれ伏して赦しを願います。神様は「わざわいを思い直された。」と何度も書かれています。祈りは聞かれます。しかも、モーセの祈りは自分の命と引き換えに彼らを赦してください、というものでした。



(31節から32節)

31,そこでモーセは主のところに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。

32,今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」



今も神様の怒りと裁きはあります。でも同時に恵みと憐れみもあります。モーセが自分の命を引き換えに彼らの赦しを祈ったと同じように、イエス様はイエス様は十字架で苦しみ、死んでくださり、神の怒りと裁きを身代わりに受けて、今日も僕らの赦しと憐れみを祈ってくださっています。



(ローマ人への手紙 8章34節)

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。



(ヨハネの手紙 第一 2章1節)

私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。



「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6.7)罪の結果は神の怒りとわざわいです。でも同時に神様の憐れみと赦しが必ずあります。罪を認めて告白し、赦しを願いましょう。仲間の罪も認めて告白し、赦しを祈りましょう。祈りは聞かれます。裁きは過ぎ越され癒されます。神様は災いを思い直してくださる方です。



(ヤコブの手紙 5章15~16節)

信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。





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