出エジプト32.15-35
神の怒りと裁きの箇所を読むと「なんか、私の知ってる神様と違う…」「愛とゆるしの神様じゃなかったの?」など考えさせられます。
神様は罪に対して正しく怒りと裁き下す神様です。しかも、その裁きを人間に委ね、裁きの代行者として自分の子どもや友人や隣人を殺すように命じている驚きの箇所があります。
(27節から29節)
27,そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。各自腰に剣を帯びよ。宿営の中を入り口から入り口へ行き巡り、各自、自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺せ。」
28,レビ族はモーセのことばどおりに行った。その日、民のうちの約三千人が倒れた。
29,モーセは言った。「あなたがたは各自、その子、その兄弟に逆らっても、今日、主に身を献げた。主があなたがたに、今日、祝福を与えてくださるように。」
神の裁きがあるのはわかるけど、自分の手で自分の子どもや兄弟を殺すなんて想像を超えています。
この出来事は、神様が愛するイエスキリストを怒りと裁きゆえに殺したことをあらわしています。愛し喜びであるひとり子を神の裁きとして殺したのは神様ご自身です。それゆえに神様の怒りはなだめられました。
(ヨハネ3章16節)
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの手紙 第一 4章10節)
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
神様が愛する子イエス様を殺しました。神の怒りゆえです。
愛する子や兄弟や隣人が殺されるのを見るのは耐えられないことです。まして、自分で手を下すことなどできません。しかし、聖なる神様はそうされました。僕らを愛し救い出すためです。その愛は不釣り合いすぎで、大き過ぎで、ちょうどいい言葉がありません。この愛に並ぶものはありません。だからイエス様は躊躇なくおっしゃいます。
(マタイの福音書 10章37節)
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。"
神様が愛する子の上に裁きを下し、僕らは全てを免除され、赦され、救われました。僕らが何かで神様にお返しすることなどできません。ただその大きさに驚き、恐れひれ伏して全てをささげるだけです。
どんな賛美も感謝もふさわしい言葉など僕らから出てきません。神様の愛は大き過ぎます。理解を超えています。ただ、平伏すのみです。
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