2024年5月28日火曜日

出エジプト36.1-7

 出エジプト36.1-7


神様とお会いするための幕屋を作るとき、神様はその材料について「進んで献げる心のある人に、主への奉納物を持って来させなさい。」と言われました。(出エジプト記35章5節)神様が人の心を動かしてくださる時、人は喜んで献げるようになります。神様が人々の霊を促し、心を動かしてくださるからです。



(出エジプト記35章21節)

心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。



神様が心を動かしてくださると、献げることは喜びとなります。人々は毎日献げ、それは止まらず、余るほどになり、ついに持って来ないよう制止するほどになりました。



(出エジプト記 36章3~7節)

彼らは、聖所を造る奉仕の仕事のためにイスラエルの子らが持って来たすべての奉納物を、モーセから受け取った。しかしイスラエルの子らは、なおも朝ごとに、進んで献げるものを彼のところに持って来た。

そこで、聖所のすべての仕事をしていた知恵のある者はみな、それぞれ自分がしていた仕事から離れてやって来て、

モーセに告げて言った。「民は何度も持って来ます。主がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどのことです。」

それでモーセは命じて、宿営中に告げ知らせた。「男も女も、聖所の奉納物のためにこれ以上の仕事を行わないように。」こうして民は持って来るのをやめた。

手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。



僕らは、あれがない、お金がない、時間がない、力がない、人がいない、と思いがちです。が、神様が人を動かすときに不足など何もありません。問題は神様によって動かされていないことです。すべてを満たすことができる神様を本気で信じて求めていないことです。5000人を前にパンが足りない時もイエス様にとっては全く問題ではありませんでした。イエス様は言われます。



(マルコの福音書 8章19~21節)

わたしが五千人のために五つのパンを裂いたとき、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」「四千人のために七つのパンを裂いたときは、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」

イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」



神様の前ではすべてが溢れるばかりです。そして、地上でもその豊かさを見ることができます。神様によって僕らの心が動かされたときに喜びは溢れ出て、全てを献げたいと思うようになります。マケドニアの教会は極度に貧しく試練だらけの教会だったはずなのに、神様が心を動かされた時に喜びにあふれ、惜しみなく献げる人たちになりました。



(コリント人への手紙 第二 8章1~4節)

さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。



ありが足りない、これが足りないと思うのは、問題の中心ではありません。考えるべき大問題は本気で神様に求めているか、聖霊によって心が動かされているかです。献身しているか、本気の祈りがあるかどうかです。神様のご臨在が表れているか、御霊の実が表れているかです。神様の前には不足は何もありません。神の国とその義を求めましょう。定型文の、いのちのない、カタチばかりの祈りことではありません。御霊を求め、御霊によって神様と交わることです。何よりも優先し、十分な時間を神様と過ごすことです。その時に天の窓は開かれ、恵みが降り注ぎます。天ではあらゆるものが満ちています。神様の前では不足は何もありません。恵みは注がれます。求めましょう。ハレルヤ!



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