2024年7月4日木曜日

1サムエル16章 音楽と祈りと賛美と預言の関係

 1サムエル16章


サウル王は恐れとわざわいの霊に悩まされました。神様がサウルに苦しみを許可されたようです。そんな時、ダビデが祈りながら竪琴を弾くことでサウルは癒されました。



(14-17節)

14,さて、主の霊はサウルを離れ去り、主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた。

15,サウルの家来たちは彼に言った。「ご覧ください。わざわいをもたらす、神の霊が王をおびえさせています。

16,わが君。どうか御前におりますこの家来どもに命じて、上手に竪琴を弾く者を探させてください。わざわいをもたらす、神の霊が王に臨むとき、その者が竪琴を手にして弾くと、王は良くなられるでしょう。」

17,サウルは家来たちに言った。「私のために上手な弾き手を見つけて、私のところに連れて来なさい。」



(23節)

神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデは竪琴を手に取って弾いた。するとサウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼を離れ去った。



ダビデの竪琴はただ上手なだけではありません。ダビデは神様に選ばれ油注がれて御霊に満たされていました。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」とあります。(7)彼は音楽が上手かっただけでなく、心が神様に真っ直ぐだったことがわかります。



(13節)

サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。



ダビデの竪琴は祈りであり賛美でした。音楽に合わせて神様のことを思い巡らすだけでなく、その素晴らしさを周りにも伝えていたようです。サウルはダビデの竪琴の音と一緒に神様に触れられたようです。「するとサウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼を離れ去った。」とあります。(23)


ダビデは後に王様になり賛美チームを作りますが、若い頃と変わらず音楽と祈りと賛美と預言をセットにしています。リーダーたちは「竪琴と琴とシンバルに合わせて預言する者」(1歴代25.1)「竪琴に合わせて主をほめたたえ、賛美しながら預言する彼ら」でした。(1歴代25.3)音楽に合わせて賛美したり預言したりするのはごく一般的でした。(10章5節、10節)しかも、聖歌隊の奉仕者たちはその「達人」でした。(第一歴代誌25章1節-3節)「達人」とは、神様のことを理解する人、させる人、悟り悟らせる人、と言う意味です。つまり、ダビデは若かった時も王様になってからも同じように竪琴を使って祈り、演奏しながら神様のことを考え、周りにもそれがわかるようにしていたようです。


なんとこれは天国の礼拝でも同じです。天で長老たちが手にしているのは竪琴です。そして、祈りである香を手にしています。天でも音楽に合わせて祈ったり、神様の素晴らしさを語ったりしてることがわかります。



(黙示録5.8)

彼らはそれぞれ、竪琴と、香に満ちた金の鉢を持っていた。香は聖徒たちの祈りであった。



神様のことばを思いめぐらす時に恐れは締め出され悪霊は離れます。神様に感謝し賛美するときに悪霊は入り込むことができません。今も音楽と祈りはセットです。そして、音楽と神様のことばはセットです。むしろ、音楽は祈りとみことばのために与えられた賜物です。今日も祈りのために、そして神様をもっと深く理解するために音楽を用いましょう。音楽を用いた祈りやみことばは人を癒します。聖書は何度も竪琴に合わせて賛美するように命令しています。(詩篇など多数)


預言者エリシャもまた神様を求めるときに、まず竪琴を求めました。祈り求めるために「今、竪琴を弾く者をここに連れて来てください。」と言っています。(列王記 第二 3章15節)そして竪琴を弾く者が弾き鳴らすと、主の手がエリシャの上に下りました。


今日も音楽は神様を求めるためのものです。それが本来の役目です。神様を賛美し、みことばをより深く悟るための神様からのギフトです。今日も音楽に合わせて祈りましょう。賛美しましょう。讃えましょう。みことばを宣言しましょう。ハレルヤ!


(詩篇 33篇2~3節)

竪琴に合わせて主に感謝せよ。十弦の琴に合わせてほめ歌を歌え。

新しい歌を主に歌え。喜びの叫びとともに巧みに弦をかき鳴らせ。



(詩篇 98篇5節)

"主にほめ歌を歌え。竪琴に合わせて。竪琴に合わせほめ歌の調べにのせて。"



2024年7月3日水曜日

1サムエル15.17-35

 1サムエル15.17-35


クリスチャンが家の中に「なんとか様」の偶像を置いて、それにせっせと供物をささげたり、拝んだりすることはないと思います。が、なんと神様は高慢=偶像礼拝だとおっしゃいます。



(23節)

従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。



サウル王はアマレク人と戦った時、「私は」主に従った、「私は」使命の道を進んだ、「私は」これをしたあれをしたと、手柄を並べ立てます。サウルの関心ごとは神様ではなく自分でした。



(20節)

サウルはサムエルに答えた。「私は、主の御声に聞き従い、主が私に授けられた使命の道を進みました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレク人たちは聖絶しました。



サウルは自分をまるで偶像のように賛美し、自慢し、従っていたようです。また、神様は「従わないことは占いの罪」(23)だとおっしゃいます。占いをしていたわけではありませんが、占い師のことばを恐れつつ聞くかのように、兵士たちの声を恐れ従っていたようです。彼は言います。



(24節)

サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。兵たちを恐れて、彼らの声に聞き従い、主の命令と、あなたのことばに背いたからです。



もともと、サウルは兵士が離れていくことを恐れていました。(13.11)それゆえ彼らの意見に従っていたようです。自分という偶像礼拝、そして人を恐れる占いの罪を指摘されても、サウルはそれを止めることができませんでした。指摘されてもなおメンツを失い人が離れていくのを怖がっているようです。彼は、イスラエルの前で自分の立場が失われないようにとサウルに懇願します。



(30節)

サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私を立ててください。どうか一緒に帰ってください。私はあなたの神、主を礼拝します。」



サウルは最後まで、自分のプライドや高ぶり、そして人に認められようとすることを止められませんでした。神様はサウルから王位を剥奪されます。



(26-28)

26,サムエルはサウルに言った。「私はあなたと一緒に帰りません。あなたは主のことばを退け、主があなたをイスラエルの王位から退けられたからです。」

27,サムエルが引き返して行こうとしたとき、サウルが彼の上着の裾をつかんだので、上着は裂けた。

28,サムエルは彼に言った。「主は、今日、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたよりすぐれた隣人に与えられました。



僕らが願うべきは神様の栄光です。そして、神様のご計画がなることです。自分が誉められ認められることではありません。


神様に聞いてみましょう。自分が認められ、高められるためにしていることはあるでしょうか。神様よりも他人を恐れて動いていることはあるでしょうか。

僕らはキリストと一緒に葬られました。もう、自分は死にました。人に認められず、悪く思われることもよしとしましょう。高ぶりは偶像礼拝です。人を恐れて従うのは占いの罪です。

賛美と栄光をお受けになるのはただ一人、神様だけです。僕らが恐れ従うべきお方はただ一人、神様だけです。主の御名だけが賛美されますように。ハレルヤ!



2024年7月2日火曜日

1サムエル15.1-23

1サムエル15.1-23


 「聖絶」とは、神様に完全にささげ、完全に滅ぼし尽くすことを意味します。また神様の裁きの意味もあります。神様が嫌われるものを徹底して消し去ることです。神様はサウル王にアマネクに対して聖絶するように命令されました。



(1から3節)

1,サムエルはサウルに言った。「主は私を遣わして、あなたに油を注ぎ、主の民イスラエルの王とされた。今、主の言われることを聞きなさい。

2,万軍の主はこう言われる。『わたしは、イスラエルがエジプトから上って来る途中で、アマレクがイスラエルに対して行ったことを覚えている。

3,今、行ってアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶しなさい。容赦してはならない。男も女も、幼子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺しなさい。』」



この世でどんなに価値があるものでも、神様が嫌い消し去るものはそのようにする必要がありました。ところが、サウルも兵士たちもそう思わなかったようです。神様の考えは脇に置いて、実際には自分の判断で残すものを分けました。結局「つまらない値打ちのないものだけを聖絶した」とあります。そして、「良いものを惜しんで、これらを聖絶しようとしなかった。」とあります。(9)



(7節から9節)

7,サウルは、ハビラからエジプトの国境にあるシュルに至るまで、アマレク人を討ち、

8,アマレク人の王アガグを生け捕りにし、その民のすべてを剣の刃で聖絶した。

9,サウルとその兵たちは、アガグと、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで、これらを聖絶しようとしなかった。ただ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶したのである。



神様にとっては全ては滅ぼすべきものでした。逆にサウルはもったいないと思い惜しみました。神様よりも自分の判断で神様の命令を変えてしまうことを、神様は非常に悲しみ、サウルを王様にしたことを悔やむとおっしゃいます。しかも、サウルは自分がアマレクを滅ぼしたと自慢げに「記念碑」をたてました。(12)これらのことは神様にとってもサムエルにとっても悲しみと怒りをもたらすものでした。



(10節から11節)

10,主のことばがサムエルに臨んだ。

11,「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだ。

12,翌朝、サムエルはサウルに会いに行こうとして早く起きた。すると、サムエルに、「サウルはカルメルに来て、もう自分のために記念碑を立てました。そして向きを変えて進んで行き、ギルガルに下りました」という知らせがあった。



しかも、サウルは「私は主のことばを守りました。」と言います。(13)不従順を指摘されると、兵士のせいにし、しかも、主にささげるためだった、と言い訳します。



(14節から15節)

14,サムエルは言った。「では、私の耳に入るこの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」

15,サウルは答えた。「アマレク人のところから連れて来ました。兵たちは、あなたの神、主に、いけにえを献げるために、羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。しかし、残りの物は聖絶しました。」



僕らもサウルと同じく神様よりも自分の判断を優先しがちです。神様が嫌うものを密かに好み、自分のためにとっておくのが現実です。しかも上手に言い訳し「神様のために」とさえ言いがちです。僕らは「私は主の御声に聞き従いました」と言いたいものです。(20)



(19-21節)

19,なぜ、あなたは主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目に悪であることを行ったのですか。」

20,サウルはサムエルに答えた。「私は、主の御声に聞き従い、主が私に授けられた使命の道を進みました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレク人たちは聖絶しました。

21,兵たちは、ギルガルであなたの神、主にいけにえを献げるために、聖絶の物の中の最上のものとして、分捕り物の中から羊と牛を取ったのです。」



密かに目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢を隠し持ち、罪を人のせいにするその姿は、私たちにそのものです。神様の願いはシンプルです。僕らが自分ではなく主に従うことです。



(22節-23節)

22,サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

23,従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」



今日、自分を調べてみましょう。神様が捨てようと思っているものを惜しんで隠し持っていないか、それを正当化していないか、そして他の人のせいにしていないかと。たとえ全世界を手に入れても神様の悲しみと怒りをもたらすなら何もなりません。(マタイ16.26)














2024年7月1日月曜日

1サムエル14.36-46

 1サムエル14.36-46


聖書は僕らに謙遜であるように教えます。しかも、聖書が教える謙遜さは僕らが思うレベルではなく、自分を死んだ者と思って完全に明け渡すことです。イエス様はおっしゃいます。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」(マタイの福音書16章24~25節)この実例がヨナタンです。普通、僕らは自分を生かそうとするし、自分を守ろうとします。でも、ヨナタンは逆です。そしてイエス様は真逆です。自分を捨てて十字架の処刑まで従い、そのようにして僕ら愛してくださいました。


ヨナタンは神様に対して全幅の信頼を置いていたし、神様に自分の命を預けていました。強い軍隊にたった2人で乗り込んで行って勝利します。(14.6)神様に自分を明け渡すことは、彼が地上の権威者に対しても自分を捨てて服従する態度に表れています。聖書は基本的に地上の権力者に従うように教えています。たとえそれが変な権力者であっても、です。



(ペテロの手紙 第一 2章13~16)

人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、

あるいは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめるために、王から遣わされた総督であっても、従いなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることは、神のみこころだからです。

自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。



ヨナタンにとっての地上の権威者は王様であり父であるサウルでした。そして、サウルの命令は間違ってる不本意なものでした。(29節) それでもヨナタンは父の命令に従います。自分を捨てて神様に全てを預ける事は、地上の権威者に従うこととつながっていました。王はこの戦いに勝利するまで何も食べてはならない、と命令していましたが、ヨナタンはそれを知らずに蜜を食べました。



(27-28)

しかし、ヨナタンは、父が兵たちに誓わせたことを聞いていなかった。彼は手にあった杖の先を伸ばして、蜜蜂の巣に浸し、それを手に付けて口に入れた。すると彼の目が輝いた。

兵の一人がそれを見て言った。「あなたの父上は、兵たちに堅く誓わせて、『今日、食物を食べる者はのろわれる』とおっしゃいました。それで兵たちは疲れているのです。」



王はヨナタンに死刑を宣告します。



(43-44)

サウルはヨナタンに言った。「何をしたのか、私に話しなさい。」ヨナタンは彼に話した。「確かに、手にあった杖の先で、少しばかりの蜜を口にしました。この私が死ななければなりません。」

サウルは言った。「神が幾重にも罰してくださるように。ヨナタン、おまえは必ず死ななければならない。」



王様の考えは自分と違ったし、ヨナタンはその命令を知りませんでした。それでも、彼は自分を捨てて従います。神様に自分を明け渡すことと王様に自分を明け渡すことは、ヨナタンにとっては同じでした。彼は自分を捨てて「この私が死ななければなりません。」と言います。(43)


自分を捨てることは、それで終わりにはなりません。

イエス様は言われます。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」(マタイ16.25)イエス様はこの通りに十字架の処刑に従って自分を捨てましたが、復活され、全ての栄光と権威を持っておられます。僕らも自分を捨てて明け渡すことは、惨めな死で終わりません。神様に喜ばれ、神様から高くあげられます。聖書は「あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」と言います。(1ペテロ5.6)


ヨナタンは自分を捨てて父である王サウルに従いました。でもそれで終わりません。民は王に反論してヨナタンを救います。


(45節)

民はサウルに言った。「この大勝利をイスラエルにもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。絶対にそんなことはあり得ません。主は生きておられます。あの方の髪の毛一本でも地に落ちてはなりません。今日、あの方は神とともにこれをなさったのです。」こうして民がヨナタンを救ったので、彼は死ななかった。


自分を捨てることは、それで終わりにはなりません。神様がちょうど良い時に高く上げてくださいます。今日も互いに相手を自分より優れた人と思って従いましょう。(ピリピ2.3)自分を捨てて神様を愛し、人を愛する時に、それで終わることはありません。ハレルヤ!