2024年7月31日水曜日

2サムエル3.1-21

 2サムエル3.1-21


友人の牧師が「イラついて子どもを叱っているときに聖書を使ってはいけない。」と言ってました。

なぜなら、こう書いてあるからです。「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」(ヤコブ3.18)「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」(ヤコブ1.20)僕らは自分のことでは神様の教えは出さないくせに、他人を裁くときに限って張り切って「神様の教えはこうだ!」と言い出しがちです。


ダビデはひどい目にあわされても仕返しせず、自分の主君サウルを尊敬し続けました。自分がやがて王となる神様のことばは知りつつ、信頼しつつ、です。

反対に、アブネルはサウルの息子イシュボシェテに気に入らないことを言われると急に激しく怒り、神様のことばを振りかざして行動に移します。



(6節から11節)

6,サウルの家とダビデの家が戦っている間に、アブネルがサウルの家で勢力を増していた。

7,サウルには、アヤの娘で、名をリツパという側女がいた。イシュ・ボシェテはアブネルに言った。「あなたはなぜ、私の父の側女と通じたのか。」

8,アブネルはイシュ・ボシェテのことばを聞くと、激しく怒って言った。「この私がユダの犬のかしらだとでも言うのか。今日、私はあなたの父サウルの家と、その兄弟と友人たちに真実を尽くして、あなたをダビデの手に渡さないでいる。それなのに今日、あなたは、あの女のことで私をとがめるのか。

9,主がダビデに誓われたとおりのことを、もし私がダビデのために果たさなかったなら、神がこのアブネルを幾重にも罰せられるように。

10,それは、サウルの家から王位を移し、ダビデの王座を、ダンからベエル・シェバに至るイスラエルとユダの上に堅く立てるということだ。」

11,イシュ・ボシェテはアブネルを恐れていたので、彼に、もはや一言も返すことができなかった。



当時、先代の王様の側女と寝る事は、自分がその王座を継承することを表す行為でした。アブネルは自分を王様のように高くする傲慢さがありました。

そのことを注意されると、アブデルは怒ります。イシュボシェテが今まで守られてきたのは「この私のおかげな」と繰り返します。そして、神様がおっしゃった通り、「サウルの家から王位を移す」と言い出し、すぐに行動に移します。動機は怒りと憎しみ、そして高ぶりです。



(12節)

アブネルはダビデのところに使者を遣わして言った。「この国はだれのものでしょうか。私と契約を結んでください。ご覧ください。私は全イスラエルをあなたに移すのに協力します。」



アブネルは国中の長老たちを説得し、ダビデに従うように言って歩きます。

神様がおっしゃった「ダビデが王となる」ことに従っているように見えます。が、自分の栄光、手柄、権威を求めることです。そしてイシュボシェテに対する怒りです。


神様のご計画は平和をつくる人によって平和のうちになされます。人の怒りは神の義を表すものではありません。この後アブネルはあっという間に殺されてしまいます。(27)ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。


今日、神様が僕らの動機を調べてくださいますように。

僕らが神様のことばの前でへりくだり、平和のうちに身を委ねるものでありますように。

2024年7月30日火曜日

2サムエル2.12-32

 2サムエル2.12-32


神様の願いは争いを避けることですが、僕らは争ってしまいます。なぜ人は争い殺し合うのか?聖書は次のように答えます。



(ヤコブの手紙 4章1節)

あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。



そして、「からだの中で戦う欲望」とは、欲しいものを手に入れるためなら人と争い、殺してでも手に入れようとする欲望です。



(ヤコブの手紙 4章2節)

あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。



戦う時には大義名分を掲げるけども、実際は自分の栄光のため、自分の強さを見せたかったり肉欲や物欲を満たすためです。欲しがる欲望は僕らの心にあって、それは争い殺し合うガソリンのようです。

最初は闘技であったとしても、傲慢さと欲が心にある限りは争いは止まりません。小さな火が大火事になるように広がっていきます。その悪い実例が、ダビデ家の将軍ヨアブの家来たちと、サウル家の将軍アブネルの家来たちとの間の闘技でした。彼らは同じイスラエル人たち同志であり兄弟です。



(サムエル記 第二 2章14~17節)

アブネルはヨアブに言った。「さあ、若い者たちを出し、われわれの前で闘技をさせよう。」ヨアブは言った。「よし、そうしよう。」

ベニヤミンの側、すなわちサウルの子イシュ・ボシェテの側から十二人、ダビデの家来たちから十二人が順番に出て行った。

彼らは互いに相手の頭をつかみ、相手の脇腹に剣を刺し、一つになって倒れた。それで、その場所はヘルカテ・ハ・ツリムと呼ばれた。それはギブオンにある。

その日、戦いは激しさを極め、アブネルとイスラエルの兵士たちは、ダビデの家来たちに打ち負かされた。



彼らの中の欲望は燃え広がりブレーキが効かなくなっていきます。エスカレートする戦いと「このままではまずい」と思う気持ちが交錯するようです。



(サムエル記 第二 2章18~24節)

そこに、ツェルヤの三人の息子、ヨアブ、アビシャイ、アサエルがいた。アサエルは野のかもしかのように、足が速かった。

アサエルはアブネルの後を追った。右にも左にもそれずに、アブネルを追った。

アブネルは振り向いて言った。「おまえはアサエルか。」彼は答えた。「そうだ。」

アブネルは彼に言った。「右か左にそれ、若い者の一人を捕らえ、その者からはぎ取れ。」しかしアサエルは、アブネルを追うのをやめず、ほかへ行こうとしなかった。

アブネルはもう一度アサエルに言った。「私を追うのはやめ、ほかへ行け。なぜ、私がおまえを地に打ち倒さなければならないのか。どうやって、おまえの兄ヨアブに顔向けができるというのか。」

アサエルはなおも拒んで、ほかへ行こうとしなかった。それでアブネルは、槍の石突きで彼の下腹を突いた。槍はアサエルを突き抜けた。アサエルはその場に倒れて、そこで死んだ。アサエルが倒れて死んだ場所に来た者はみな、立ち止まった。

しかしヨアブとアビシャイは、アブネルの後を追った。太陽が沈んだとき、彼ら二人はギブオンの荒野への道を通り、ギアハの反対側にあるアンマの丘までやって来た。



殺し合いを続ける悲惨さは両者ともわかっています。それで、アブネルは日没後に山の上から呼びかけ、停戦を提案し、両者は合意して一旦争いを終えることができました。



(サムエル記 第二 2章26~28節)

アブネルはヨアブに呼びかけて言った。「いつまでも剣が人を食い尽くしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。いつになったら、兵たちに、自分の兄弟たちを追うのをやめて帰れ、と命じるつもりか。」

ヨアブは言った。「神は生きておられる。もし、おまえが言い出さなかったなら、確かに兵たちは、明日の朝まで、それぞれ自分の兄弟たちを追うのをやめなかっただろう。」

ヨアブは角笛を吹いた。それで兵たちはみな立ち止まり、それ以上イスラエルの後を追わず、戦いを続けることはなかった。



この日は終えることができましたが、彼らの心の中に争い心はくすぶり続けたようです。聖書は「サウルの家とダビデの家の間には、長く戦いが続いた。」と言います。(3.1)

争いの原因は、私たちが自分の栄光を欲しがる高ぶりです。相手を尊敬せず、見下します。心の中にある小さな気持ちは口に出ます。内側がきよめられない限り、どうしても高ぶりは出てしまうし、結果として争いに発展し広がってしまいます。聖書は人を見下すことを止めるように繰り返します。


(箴言 17章14節)

口論の始まりは水が吹き出すようなもの。争い事が起こらないうちにやめよ。


(箴言 26章20節)

薪がなければ火が消えるように、陰口をたたく者がいなければ争いはやむ。


(箴言 22章10節)

嘲る者を追い出せ。争いは出て行く。もめごとも辱めも終わる。



人を尊敬してないこと、愛してないことを認め、告白して捨てましょう。

そして、イエス様がくださる新しい心を受け取りましょう。イエス様がくださる御霊は兄弟姉妹を愛し、尊敬します。相手はイエス様が命を捨ててくださったほどの大事な人です。その心は与えられます。求めましょう。変えられましょう。必ず与えられ変えられます。ハレルヤ!

2024年7月29日月曜日

2サムエル2.1-7

 2サムエル2.1-7

神様は何度も敵を愛するように、悪に善で返すように教えています。与えられている上司や同僚や家族隣人のために、たとえその人が悪くても祈り、感謝し、祝福するようにとです。(ローマ12.21、13.1、ルカ6.35、1ペテロ3.1-2など多数)

ダビデにとってサウル王は自分を苦しめる人でした。それでもダビデは最後の最後までサウルを祝福します。まさに、悪に対して愛と尊敬で勝利しました。


サウル王の最後はペリシテ人によって殺されて、その死体は敵の城壁の上にさらし者にされました。その時、ヤベシュ・ギルアデの人々は立ち上がり、徹夜で敵地まで歩いて行き、その遺体を奪還し自分たちの町に運びます。彼らは丁寧に葬り、悲しみ、断食しました。これはサウル王に対する愛と尊敬の表れです。ヤベシュ・ギルアデの人々にとってはサウル王は初期の頃自分たちを救ってくれた恩人です。



(サムエル記 第一 31章11~13節)

ヤベシュ・ギルアデの住民は、ペリシテ人がサウルに行った仕打ちを聞いた。

そこで勇士たちはみな立ち上がり、夜通し歩いて行き、サウルの死体と息子たちの死体をベテ・シャンの城壁から取り下ろし、ヤベシュに帰って来て、そこでそれらを焼いた。

彼らはその骨を取って、ヤベシュにあるタマリスクの木の下に葬り、七日間、断食した。


 

ヤベシュ・ギルアデの人々が命をかけてサウルの遺体を丁寧に葬ってくれたことをダビデは感謝し、彼らを祝福します。



(サムエル記 第二 2章4~6節)

ユダの人々がやって来て、そこでダビデに油を注ぎ、ユダの家の王とした。ヤベシュ・ギルアデの人々がサウルを葬ったことが、ダビデに知らされたとき、

ダビデはヤベシュ・ギルアデの人々に使者たちを遣わし、彼らに言った。「あなたがたが主に祝福されるように。あなたがたは、あのような真実を尽くして主君サウルを葬った。

今、主があなたがたに恵みとまことを施してくださるように。あなたがたがそのようなことをしたので、この私もあなたがたに善をもって報いよう。



ダビデのケースは僕らへの神様の願いでもあります。与えられた上司や、家族や、与えられた隣人を尊敬することです。それが自分を苦しめる人であっても、たとえみことばに従わない夫であっても尊敬することを聖書は教えています。(1ペテロ3.1-2)彼らはその姿を見ます。そしてそれは神様に喜ばれることです。ダビデはサウルの遺体を取り戻し、愛と尊敬を持って丁寧に葬ってくれた住民たちを祝福しました。


神様の願いが僕らの人間関係の中に表されますように。今日、神様の与えてくださる愛と尊敬を具体的に表すことができますように。この神様の願いが天で行われるように、地でも行われますように。

2024年7月28日日曜日

詩篇57篇メッセージ 洞窟の中で光を見よう

 詩篇57篇メッセージ 洞窟の中で光を見よう


表題 ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに。


洞窟に住んだことあるでしょうか。多分非常に不便だし暗いし住むには適さない不快な環境だと思います。いつも命を狙われた経験あるでしょうか?

この詩篇は命を狙われて、洞窟に隠れるしかなかった時に書かれたものです。


ダビデは王様サウルに妬まれ、10年以上洞窟で逃亡生活をしました。

ダビデを追いかけているサウルはおかしくなった人狂った人がすべての権力を持っています。

今なら警察に相談しようとか、裁判ではっきりさせようとか、思うかもしれないけど、この王様が全ての権力を持っています。今でいう警察の権限も裁判の権限も軍隊の権限も全部狂ったサウル王が持っています。国を挙げてダビデは殺されかかっています。


社会的には何も助けがない状況です。

そんな時にダビデがどう祈ったのか、それがこの詩篇です。


皆さんはそんな状況の中にあるとき、どんなお祈りをするでしょうか?私は毎日殺されるかもしれない、と怯えた経験はありません。毎回牧師批判を言われ続けた時期はあります。何もしなくても全身が疲労感で一杯になります。


ダビデはどう祈ったか。詩篇は祈りのお手本です。


●神様の翼の下とは神様の愛と真実の中。


ダビデは安全な避難場所がありました。洞窟に逃げていましたけど、本当の避難場所、安全なところは神様の御翼の下です。ダビデは祈ります。


1,私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。私は滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避けます。


みんなは洞窟にいれば大丈夫。と言うかもしれません。でもダビデは言います。私は「あなたに身を避けています。」「御翼の陰に身を避けます。」


敵の攻撃が過ぎ去るまで、私は神様の翼の下にいますといいます。ひなが親鳥の翼の下で安心しているように神様の翼の下に身を避けます。


高級羽毛布団に包まれて安心しているイメージをしてみてください。今まで体験したどんな布団より暖かく、ふわふわで安心感が違います。そんなイメージです。

外は寒いけどこれにくるまっていれば大丈夫、そんなイメージです。しかも、外には自分を攻撃し苦しめ殺そうとする人たちがいるけど、それでもこの羽毛布団の中にすっぽりくるまっていれば、絶対に安心安全。そんな布団にくるまっているイメージです。


神様が守ってくれる、その下で安心しているイメージをダビデは表現しています。親鳥である神様はダビデのことを愛しているし、あなたは守られやがて栄光を手に入れるし、その約束は必ず実現する、といい続けてくださる神様の安心感です。周りでどんなに酷いことがあっても、そこに頭まですっぽり入っていれば大丈夫です。


神様の祝福の約束が3節と10節にあります。


3,神は天から助けを送って私を救い私を踏みつける者どもを辱められます。セラ

神は恵みとまことを送ってくださいます。


ちなみにセラは諸説ありますが、賛美リーダーのために、一時静まる、とか、一呼吸置いて 再開する、という説があります。


10,あなたの恵みは大きく天にまで及びあなたのまことは雲にまで及ぶからです。


恵とは、愛のことです。しかもなくならない愛のことを恵と言っています。

そして、まこととは、真実のことです。僕らもよく使うヘブル語があって、アーマン、アーメンです。真実です。その通りになることです。神様の翼の下は、なくならない愛、そして、必ず神様が言われた通りになる真実さに満ちています。だから安心できます。


ダビデは狂った王から狙われ続けても絶望しませんでした。諦めるたくなるし、逃げられないなら死んでしまいたいとも思うような生活です。それでも、この苦しみの生活そのものが、神様の愛と真実なご計画の通りに動いている最中だということを認識しています。これは神様のご計画の通過点なんだとわかっています。


今は苦しめられているけど、やがて最後には、神様が敵を滅ぼす、神様がそうおっしゃっている、と確信しています。それが真実。まこと、アーメンです。2節は全てを成し遂げてくださる。3節は神様が使いを送って下さって、敵を辱め滅ぼしてしまうということが、彼の確信です


詩篇 57篇2~3節

"私はいと高き方神を呼び求めます。私のためにすべてを成し遂げてくださる神を。

神は天から助けを送って私を救い私を踏みつける者どもを辱められます。セラ

神は恵みとまことを送ってくださいます。"


また、6節後半も敵が自滅することを預言しています。将来のことだけど、確信してもう自滅したかのように歌ってます。


6,彼らは私の前に穴を掘り自分でその中に落ちました。


最後には、自分に敵対する人たちが、最後には滅ぼされることを知っています。今はその途中です。


具体的には自分が王になるという預言は実現するという信仰です。神様がそうおっしゃったからです。


(2サムエル7.16)

「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」


神様の翼の下とは愛と真実の中にいることです。

これは僕らにも適用できます。イエス様はおっしゃいました。


(マタイ6:22-23)

からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら(神様の恵みや約束を見つめているなら)全身が明るくなりますが、目が悪ければ(問題や自分の欲や不安ばかりを見つめるなら)全身が暗くなります。


僕らにも当然苦しみはあります。でも、問題を見つめれば暗くなります。逆に神様の救いや力、そしてみことばの約束を思い巡らすと明るくなります。それを信じることで悪魔に勝利しなさい、と聖書は言います。


(1ペテロ 5:9-10)

堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。(…中略…)あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。



●脅しの言葉と真実の言葉の戦い


実際はダビデは呪いの言葉にさらされています。敵の脅しと呪いの言葉の中で、神様の愛と救いを信じる、という戦いです。


詩篇 57篇4節

"私のたましいは獅子たちの間で人の子らを貪り食う者の間で横たわっています。彼らの歯は槍と矢彼らの舌は鋭い剣です。"


まるで飢えている、しかも狂っているライオンの中に入れられているようです。横たわっているかのようです。「彼らの歯は槍と矢 彼らの舌は鋭い剣です。」


まるでライオンが食い殺そうとしてくるような脅しを受けていると言うことです。その攻撃は「ことばの攻撃」です。彼らの歯は槍。舌は鋭い剣です。言葉で刺される、言葉で切られる、脅され、絶望させられるような言葉で傷つけられています。

ことばによる攻撃と呪いの真ん中に自分の魂は放り込まれています。確かに傷ついて動けなくなりそうです。


6,彼らは私の足を狙って網を仕掛けました。私のたましいはうなだれています。


足に網がかかると動けなくなります。呪いと脅しの言葉は僕らを動けなくしようとします。

神様の愛と真実さを知らない人は、この呪いと脅しの罠にハマってしまいます。


神様のみことばから離れた人間は悪いこと、嫌なこと、辛いことを繰り返し心の中で思い出すのが特徴です。おこるはずのない恐怖を植え付けるのが敵の攻撃です。


反対に、攻撃の中でも希望と自由を持つ人は、愛と恵みのことばを毎日聞いて、心に蓄えている人です。心がけて。そうじゃないと、ワナにハマって起こってもない恐怖を勝手に予想して、信じ込んでしまいます。きっと悪いことが起こるだろう、繰り返し思いがち。だから、ダビデは神様の言葉を賛美するんです。賛美は神様の確かな約束の宣言です。


7,神よ私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌いほめ歌います。


何をほめ歌うのか?

56篇もダビデの状況が最悪の時の賛美ですが、その時こそ神様のみことばをほめたたえると言います。


(56篇10-11節)

10,神にあって私はみことばをほめたたえます。主にあって私はみことばをほめたたえます。

11,神に信頼し私は何も恐れません。人が私に何をなし得るでしょう。


敵が何を言おうと神様の愛の言葉、約束、その真実さ忠実さの方が遥かに大きいからです。愛に変更はないし、神様の真実さに変更はありません。

神様の愛と真実さは洞窟の中にいてもなくならないからです。だから、ダビデは洞窟の中で感謝します。



詩篇 57篇9~11節

9,主よ私は国々の民の間であなたに感謝し もろもろの国民の間であなたをほめ歌います。

10,あなたの恵みは大きく 天にまで及び あなたのまことは雲にまで及ぶからです。

11,神よあなたが天で あなたの栄光が全地であがめられますように。



これが勝利です。私たちの戦いは、実は信仰の戦いです。霊的な戦いと言うのは、何を信じ、何を思い、何を口にするか、という戦いです。見えるものが全てだと思うのか、それとも、見えない神様の言葉を信じるのか、という戦いです。


今日も敵である悪魔は言葉を武器のようにして、槍のようにして、剣のようにして私たちに攻撃します。私たちの心の中に神様の言葉ではない、嘘の言葉、脅しと呪いの言葉を置いて、苦しめます。お前はだめな人間だ。お前はきっと悪いことが起こるんだ。そのような明らかに神からではない悪い考えが入り込んで私たちを洗脳していきます。これは霊的な戦いです。


そのような悪い想像とか言葉は子どもの頃刷り込まれたとか、友達に言われた傷つけられた言葉とか、先生に言われた言葉とか、そのように影響力のある人間を通して、汚されている場合があります。悪魔はあらゆる人や状況を使って僕らの心を汚します。悪い言葉や価値観で汚します。


みなさん、どっちがいいですか。絶望と不安と時々高ぶりの繰り返しの人生になりたいですか?

それとも、攻撃されても状況が暗くても、神様の翼の下で安心して希望と喜びと感謝がある人生になりたいですか?


人の発言を鵜呑みにして、ネットの情報をディボーションのように自分の心に入れて、悪い想像を自分で反芻して、膨らませて恨んだり恐れたりするのは罠です。


反対に、神様の御言葉を毎日繰り返して聞いて、それによく噛んで食べ、心にいつも神様の愛の言葉、真実な言葉があることが正解です。

毎日聖書を読む習慣のある人は明るいです。


ダビデと同じように、殺されかかってなくても、洞窟に逃げてなくても、同じように悪魔は今日も僕らを狙って食い物にしてその人生をおかしくしようとします。


ペテロの手紙 第一 5章8~10節


"身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。


神様の愛と真実な言葉を信じ、宣言するのが勝利です。6節と7節では、この苦しみの中で神様の勝利を確信しているかのようです


詩篇 57篇6~7節

"彼らは私の足を狙って網を仕掛けました。私のたましいはうなだれています。彼らは私の前に穴を掘り自分でその中に落ちました。セラ

神よ私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌いほめ歌います。"


洞窟は暗いし、洞窟はよく見えないし、洞窟は息苦しいでもダビデは、その苦しみの中で素晴らしいの神様を褒めたたえ、光を得ています。


●愛と真実さで勝利するための音楽


神様の約束や愛を賛美すること、歌うことは私たちを天国にある喜びや希望に連れて行ってくれます。賛美は私たちを真実と神様の愛に目覚めさせてくれます。そのために楽器を使い音楽を使うように聖書は繰り返します。


8,私のたましいよ目を覚ませ。琴よ竪琴よ目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。


楽器は、神様の約束を思い出させるための道具です。音楽に合わせて神様の約束を希望を歌います。

暁とは朝焼け。朝日。音楽にのせてみことばを歌うことは、闇の中に光をもたらす方法です。

思い出させ、確信させるのが賛美です。


ダビデは暗闇の中でも歌いました。暗闇の中でも神様の約束を歌うことによって、光を呼び覚ましていました。

敵の攻撃の中でも神様の愛と真実を歌うことは勝利です。


ヨシャパテという人は敵が攻撃してきた時、戦いの時、軍隊より先に賛美チームを遣わしました。

詳しくは2歴代20章をお読みください。

どうしようもなく、勝てる相手ではない状況の時に、神様を求め、神様から約束の言葉をもらい、それを歌う賛美チームが軍隊の先を進みました。そしてその言葉の通りに勝利しました。


賛美チームは神様の恵みはとこしえまで、神様必ず勝たせてくださると言う神の言葉を大きな声で、みんなに兵士たちわからせ、確信させるためのものでした。


今も変わらず、賛美の歌をみんなで心合わせて歌う意味は、それは神がこういうお方だと言うことを全員で確認し、みんなで希望をもち、神様の愛とまことを確信するためです。


賛美は神様に対するものだけども、同時に私たちは自分に対しても周りの人たちに対しても宣言になります。確信になります。賛美は宣言です。賛美は希望与えます。そのための道具が楽器であり音楽です。自分にも神様の愛と約束を信じて感謝明日るように、命令するかのようです。


8,私のたましいよ目を覚ませ。琴よ竪琴よ目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。

9,主よ私は国々の民の間であなたに感謝しもろもろの国民の間であなたをほめ歌います。


ダビデは若い時から竪琴に合わせて祈ったり神様の言葉を歌ったりしていました。サウルの前で竪琴を持って祈ったとき悪霊は去ったとあります。ダビデはただ演奏を聴かせたのでなく、祈りながら、神様はこのようなお方です、と歌ったり、音楽に合わせて祈ったりしていたと考えられます。悪霊は去りました。


この当時、神様の言葉が、音楽に合わせて語られるのは普通のことでした。楽器を持った預言者が旧約聖書にたくさん登場します。


エリシャも神様の言葉を求めるときにまず竪琴を弾く人を連れてきてください。と言います。


(列王記 第二3章)

15,しかし今、竪琴を弾く者をここに連れて来てください。」竪琴を弾く者が竪琴を弾き鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り…


音楽にのせて祈り求めて、そして神様からの言葉を音楽に乗せて語るのが、この当時一般的でした。

だから、ダビデは神様の愛と真実な言葉を確認するために楽器を使います。


8,私のたましいよ目を覚ませ。琴よ竪琴よ目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。


神様の言葉を確認させるためにあるのが音楽です。

敵は言葉で攻めてきます。お前が悪いんだ。お前は神なんだ。お前の家族がうまくいかない。お前の人生真っ暗だ。この後もっと悪いことが起こるぞ。お前たちの子供たちはもっと不幸になるぞ。悪いことばかり言って?でもそんな攻撃に私たちは縛られていません。神様、そんなこと言ってません。


音楽は敵の計画を阻止するためにすごく用いられます。神の言葉を宣言するための音楽が賛美の歌です。


9,主よ私は国々の民の間であなたに感謝しもろもろの国民の間であなたをほめ歌います。

10,あなたの恵みは大きく天にまで及びあなたのまことは雲にまで及ぶからです。

11,神よあなたが天であなたの栄光が全地であがめられますように。


賛美は闇の中で光を呼び出します。恐れを締め出します。恐れに縛られている僕らを自由にします。

神様の真理の言葉を歌うことでダビデは勝利しました。そして僕らも勝利します。


神様の大きさとその栄光を見つめて賛美し感謝していると、この世のトラブルが小さく見えます。神様を賛美しましょう。問題を数え上げるよりも、主の大きさと強さと愛を数えあげましょう。全き愛は恐れを締め出します。他人のことばに一喜一憂して振り回されやすいです。が、僕らが聞くべきは人間のことばではなく「神のことば」です

僕らは選べます。神様のことばを聞き、歌い、信頼しましょう。のろいでなく祝福のことばこそ真理です。敗北ではなく勝利の約束こそが真理です。聖書のことばは真理です。


ーー考えてみましょうーー

あなたが今苦しんでいるのはどんなことでしょう。

それにはどんな悪の言葉がありますか?

それに対する神様の真実な愛の言葉は何か考えましょう。