2024年8月18日日曜日

ヘブル3.7-4.13 今日が救いの日。頑固にならないで

 ヘブル3.7-4.13 今日が救いの日。頑固にならないで(召天者記念礼拝 2024.8.18)

今日は召天者記念礼拝です。先輩たちが最後まで信じて天に凱旋したように、同じように神様は今日みなさんを永遠の安息に招いてくださっています。そして、神様が今日何度も僕らに繰り返されるフレーズがこちらです。


(7-8)

「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。


(15)

「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。


(4章7節)

「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」


イエス様だけが天国への道です。イエス様を信じる人は裁かれることなく、永遠の命を持ちます。死から命に移っています。この言葉を聞くなら、頑固になってはいけないと何度も主は繰り返されます。


北海道聖書学院の元学院長の八尋先生の学院での最後のメッセージを聞く機会がありました。

その時、退職間近の先生が最初におっしゃった言葉は「私は、死ぬまで生きていたい。」

僕も周りの人たちも最初はポカーンという感じでしたが、その意味を説明してくれました。一生、死ぬまで、頑固にならず、神様との関係が生きたものでありたい、神様が与えてくださる天からの命につながって感謝して生きていきたい、死ぬまでそうありたい、という意味でした。


先生がそういう理由は離れていく人が多いからです。

一度イエス様を信じて洗礼を受けても、頑固になって、自分は大丈夫、自分は自分でやっていける、そのように高ぶり、過去に戻る時に、神様との関係は終わり、その人は神様が用意されている天の安息にも祝福にも入れなくなります。待っているのは永遠の苦しみです。そのような人が多いし、今日の聖書の箇所はそれを警告しています。


頑なになって、自分が神様より上になり、この世の楽しみや自分の力で自分を生かそうとする人は神様との関係が死んでいきます。神様のことばを聞いても本気にはしません。

神様は今日、僕らを招いておられます。


(4章7節)

「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」


今日、まだ信じていない皆さんへのメッセージと、すでに信じた皆さんへのメッセージが2つあります。


①信じていないみなさんには、今日神様の声を神様の言葉を聞いたら、頑固にならないで、心が柔らかいうちに信じて下しあ、ということです。今日、聖書は繰り返しています。今日、頑固にならないで信じてください。みなさんは招かれています。永遠の命と祝福に招かれています。


②そして、すでに昔信じたみなさんへのメッセージがあります。それは、再び頑固になって落ちていかないように、です。


フラー神学校のロバートクリントン教授によると、聖書に登場する指導者でさえ、最後まで信仰を持って走り抜いたのは30パーセント以下だと書いているそうです。


僕はその話を聞いて、イエス様によると25パーセントだと思いました。イエス様の話はこうです。

ある人が種を蒔きました。その種は神様の言葉でであり、救いの言葉であり、いのちのことばです。ある種は岩の上の薄い土地に落ちて発芽したけど枯れました。ある種は道端に落ちて鳥に食べられました。ある種は発芽したけど雑草に塞がれて枯れました。ある種だけが良い土地に落ちて発芽し成長し実を結びました。イエス様によると、発芽して成長して最後まで実を結ぶ種は25パーセントです。


東栄教会今年50周年を迎えました。記録を見たら洗礼受けた人は200人を超えています。先に天に召された先輩たちが多くいます。でも一方では信仰を捨ててしまった人もたくさんいます。


今日は阿部先生、樽井さん、菅野さん、馬場さんの納骨をします。最後まで信仰を持って生涯を終えた先輩たちです。イエス様がおっしゃった通りに天に用意されている安息に住まいに招かれ、永遠の祝福に入れられています。


(4章1節)

こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。



●安息に入れなかった先輩たちの実例


(7節から11節)

7,ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、

8,あなたがたの心を頑なにしてはならない。荒野での試みの日に神に逆らったときのように。

9,あなたがたの先祖はそこでわたしを試み、わたしを試し、四十年の間、わたしのわざを見た。

10,だから、わたしはその世代に憤って言った。『彼らは常に心が迷っている。彼らはわたしの道を知らない。』

11,わたしは怒りをもって誓った。『彼らは決して、わたしの安息に入れない。』」


神様はイスラエルの先祖たちに、祝福の土地を与える、そこに導くと言われました。

そこは「乳と蜜の流れる地」と言われる地です。祝福の土地、安息の土地です。この地は神さまとの約束の成就として与えられる土地です。ところが、先輩たちは頑固になって、招き入れられる約束を信じなかったし、いつも目先のことで文句ばかり言い続け、逆らい続け、安息の地に入ることができませんでした。


(16-19)

16,では、聞いていながら反抗したのは、だれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た、すべての者たちではありませんか。

17,神が四十年の間、憤っておられたのは、だれに対してですか。罪を犯して、荒野に屍をさらした者たちに対してではありませんか。

18,また、神がご自分の安息に入らせないと誓われたのは、だれに対してですか。ほかでもない、従わなかった者たちに対してではありませんか。

19,このように、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことが分かります。


神様が当時与えてくださったカナンの土地は天の祝福を表しています。僕らが招かれている天の安息を示すかのように書かれています。


※当時の様子


(ヨシュア1章3節)

わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。


神様は時間を超えています。だから。まだ与えられてなくても、すでにあなた方に与えている、と言われます。ヨシュアとイスラエルの民はその言葉を信じて、歩み出しました。必ず与えられるのですが、聞いた人たちはただぼーっとしているのではなく、信じて、出発して、戦って、その土地を手に入れる、というプロセスが必要でした。信じることと従んで歩み出すことはセットです。神様の言葉はあなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている」です。


彼らは祝福の地を偵察して報告します。神様がおっしゃった通り素晴らしい土地でした。

ただ、偵察隊12人のうち10人が、その土地に行くことに反対します。理由はそこにいる人たちは自分達より強いから、そこに入っていくのは無理だ、というものです。

そうすると、報告を聞いた人たちの顔は見る見る曇っていきました。


(民数 13:31)

しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。

あの民は私たちより強いから。」


彼らは「攻め上れない」といいます。


(民数 13:32)彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。

「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。

私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。


悪いことが起こるという想像力のはすごいです。まるで、それが確定事項のように言い切ります。神様は必ずそこに招き入れるとおっしゃったのに、彼らは無理だと宣伝します。そしてそれは人々に広がり、不安になり、嘆き、悲しみ怒り始めます。神様の言葉は希望と喜びを与える言葉です。人が作った悪い想像は不安と絶望と怒りを与える言葉です。


私たち人間は不思議なことに、神様の言葉は信じないけど不安なこと、悪い想像は信じやすいものです。思い煩いを作り出しては怒り、ありもしないことを想像して悲しみます。


イエス様は「私は平安を与える」とおっしゃいます。神様は安息を与える、と何度もおっしゃいます。

安息や平安の反対は不安、焦りです。神様から離れると平安からも離れます。神様につながっていると、喜びと愛と平安がありますが、神様から離れると悲しみと不安と怒りがあります。それを克服するために、神様以外で満たされようと安心しようとして、何かに誰かに愛されようとしてこの世にすがります。

それが、旧約聖書に書かれた先輩たちの姿でした。


(9-12)

9,あなたがたの先祖はそこでわたしを試み、わたしを試し、四十年の間、わたしのわざを見た。

10,だから、わたしはその世代に憤って言った。『彼らは常に心が迷っている。彼らはわたしの道を知らない。』

11,わたしは怒りをもって誓った。『彼らは決して、わたしの安息に入れない。』」

12,兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。


イスラエルの先輩たちは何度も神様に救われていたし養われていました。それが事実です。

でも、その恵みや愛をを見ようともしません。何もないはずの荒野で、40年間水があたえられ続けました。


僕も去年イスラエルの荒野をちょっとだけ歩きました。ガイドさんはバスを降りる度に、絶対に水を持っていくように言います。そこで30分も歩いたら喉カラカラです。暑いのに汗もかかないような乾燥地帯です。そのような何もない荒野で、40年の間水が与えられ続け、パンも肉も与えられ続けました。それでも、彼らは神様を疑い逆らい続けます。

自分から選んで神様から離れて安息の土地、素晴らしい祝福の土地に入ることができませんでした。


●私たちへの警告


(15-17)

15,「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように」と言われているとおりです。

16,では、聞いていながら反抗したのは、だれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た、すべての者たちではありませんか。

17,神が四十年の間、憤っておられたのは、だれに対してですか。罪を犯して、荒野に屍をさらした者たちに対してではありませんか。



今日納骨をする先輩たち、そして先に召された先輩たちは天の故郷、天の住まいに入れられています。今日の箇所では安息と表現します。


(4章1節)

こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。


あの素晴らしい乳と蜜の流れる土地のことも安息の地というし、僕らが地上の人生を終えて迎えられる天の故郷も安息です。天のふるさとは究極の霊的な祝福です。それを安息と言います。


(9-11)

9,したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています。

10,神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。

11,ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。


神様はこの世界をお作りになったときに7日目に休まれてその世界を祝福されました。神様にとっては7日目は祝福と喜びの日です。悪いことが何もない祝福の世界を表す日です。


(4-5)

4,なぜなら、神は第七日について、あるところで「そして神は、第七日に、すべてのわざを終えて休まれた」と言われ、

5,そのうえで、この箇所で、「彼らは決して、わたしの安息に入れない」と言われたからです。


その祝福と喜びの日、完璧な安息の世界に入れないことを警告しています。


※目先のことで判断しないように


僕らは目先のことで一喜一憂しがちです。でも神様はもっと長期的に見ておられます。僕らは人間なので、神様のように時間を超えて物事を見ることができません。

現時点では私たちの願いが叶わなかったように見えます。現時点では不幸に見えます。でも、神様はもっと良いことをしようとなさっています。だから、信頼しなさい、と言います。これが聖書が教える忍耐です。忍耐はやせ我慢ではなく、希望を持って信頼し続けることです。


(ローマ8.28)

神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。


神様良い方です。僕らの計画通りにならない時も僕らのことを考えてさらに良いことを成そうとしています。


なんで神様、今日それをしてくれないのかどうして待たされるのか、私たちは不満を言います。でも神様はもっと良いものを与えようとなさっているわけです。


※苦しみの先に栄光がある実例


イエス様の親友ラザロが死んだ時、イエス様は彼の墓に行きました。そして死んだラザロの姉と妹、マリアとマルタに迎えられ、彼女たちは不満を言います。


もっと早く来てくれれば、弟は死ななかった。言葉は柔らかいけど、何を今更どうして早く来てくれなかったのか。そのようにいいたげです。


(ヨハネの福音書 11章21節)

マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。


でもイエス様はあえて、死ぬ前に助けに行かなかったようです。


(ヨハネの福音書11章3-6節)

3姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

4これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」(…中略…)

6しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。


神様の栄光を表すために、死んだ者が蘇る希望を表すために、イエス様はあえてラザロが病気になってもそこに行かず、時間をかけたわけです。愛する弟が死んでしまう、という最悪を通ることによって、イエス様は復活の事実を見せようとしておられました。僕らが絶望と思うことさえ、神様は良いことのために通らされます。絶望は祝福のための通過点です。


この後ラザロは復活します。


(ヨハネの福音書11章43-44)

43イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」

44すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。


だから、今日、あなた方の心を頑にしてはいけない、と御霊が僕らに言われます。

先輩たちが荒野で苦しんだ時、どうして神様、こんなことをさせるるのだ、と頑固になって祝福を失ったように、そのようにあなたはなってはいけないと繰り返して言われます。

その先に神様の栄光があるからです。

確かに人生には苦しみがあります。それでも、その先にある神様の安息はなくなっていません。


確かに荒野で先輩たちがが苦しんだのは事実です。その苦しみにも意味があります。神様は言われます。


(申命記8.3-7)

3,それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。

4,この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。(…中略…)

7,あなたの神、主があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。


苦しみの目的は神様のことばが本当に実現することを知るためでした。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」(3)「あなたの神、主があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。」(7)


それでも人は目先のことだけを見て心を頑にしがちです。

神様がよくしてくださったことには目を留めず、いつも不満を探しつぶやきます。

どうせ私たちは祝福されないんだ。どうせ滅ぼされてしまうんだ。彼らは自分で願った通り、自分で選んだ通りに滅ぼされて行きました。何を選ぶかです。神様のことばを聞いて信じることを選ぶか、無視することを選ぶかです。


不平不満を言うのは簡単です。礼拝しなくなるのは簡単です。それは神様がしてくださったことよりも、神様があれしてくれなかったこれしてくれなかった神様がしてくれないことを数えていればすぐに感謝せず、礼拝しない人になれます。

すぐに不満と不安と怒りに取り付かれた人になれます。

神様には平安があります。そして、神様から離れた人には不安があります。この世で満たされようと必死になります。食べ物や、人に愛されることや、見た目や業績やお金で満たされようとします。


神様がくださるのは安息です。完全な安心と休みです。その平安を望まない人はお望み通り永遠に平安から、安心から、祝福から切り離されてしまいます。自分で選べます。聖書は何度も安息に入る、と約束しています。


天の安息に入れない人がいることをはっっきりと伝えています。

イエス様は私たちを見放すことはありませんが、私たちの側では選択することができます。

選べます。


●愛し合い励まし合うことの大切さ


落ちていく人を放っておきなさい、とは神様は言われません。

むしろ、一人も落ちることがないように励ましあおうというのが12節と13節です


(12-14節)

12,兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。

13,「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。

14,私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。


お互いに助け合う役目と責任があります。神様から離れていく人を放っておかないで助け合いなさい、と言います。13節「日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。」


(ヘブル人への手紙 10章25節)

ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。


今日皆さんが集まるのはすごく大事です。教会は牧師さんの話を聞くだけの集まりではありません。集まって、互いに愛し、助け、励ましあい助け合うのが聖書の教える家、神様の願いそのものです。


聖書は個人主義は教えていません。個人では愛し合うことができないからです。個人では励まし合うことができないからです。私は個人的に神様を信じています、教会には集まりません、というなら、聖書はそれに倣ってはいけないと言います。


聖書は、終わりの日が近づくと、ますます愛は消えていきますといいます。個人主義の時代になります。

愛さない、関わらない、自分さえ良ければいいという時代になると聖書は言います。しかも、偽の教えが流行って多くの人を惑わします。だからこそ日々互いに集まって、愛し合い、伝え合い、励ましあうことが必要です。


私たちは教会に集まって、お互いのために今日あなたのために何を祈ったらいいかになったらいいか教えてください、と言います。あなたのために祈らせてください、と集まります。人のために祈る事は愛することです。祈りがなければ愛は与えられません。反対に、神様からの愛がなければ他の人にのことを祈りたいなんて思いません。祈りと愛はセットです。祈ってもらうのも愛です。


これがキリストの教会です。イエス様の体です。イエス様が私たちの家に住んでおられます。神は愛です。そして教会は祈りの家と呼ばれます。個人主義では励まし合うことができません。


人間は孤独な時に罪を犯します。誰も見てないときに本性が出ます。だから集まって励ましあいなさいと言うのです。集まって愛し合いなさいと言うのです。神様は「人が1人でいるのは良くない」とおっしゃるのです。


●まとめ


(7-8節)

7,ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、

8,あなたがたの心を頑なにしてはならない。


聖霊は「まだ心が柔らかい間に、イエスに応答しなさい」と言っているんだ。今迷っている人は、選べます。信じて、永遠の安息に入ることができます。拒否して心が硬くなっていくこともできます。平安はどんどんなくなります。


やがて神様の前に立たされます

僕らは全てを弁明します。その時に言い訳をしても遅いのです。全てがさらけ出されています。


13,神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。


今日、あなたは決断の縁に立っています。安息に入るか、永遠の滅びと苦しみに入るかです。

今日、イエス様を信じることを決断しましょう





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