2サムエル15.1-6
何に時間を使うかは、僕らが何を愛するか、何を求めるかの表れです。お金も同じで、僕らが何を愛し何を求めているかが現れます。この世を愛するか、神様を愛するか、この世を求めるか、神様を求めるかです。聖書は「あなたがたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。」と言い、世とは「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」です。(ヨハネの手紙 第一 2章15-16節)
アブサロムはこの世を愛し、世を求めることに熱心でした。人々から好意をもたれ、気に入られるために毎日、朝早くから時間と力を注ぎました。それは4年間も続きました。(7)しかも、彼の風貌は美しく、「イスラエルのどこにも、アブサロムほど、その美しさをほめそやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで、彼には非の打ちどころがなかった。」(14.25-26)とあります。美しいアブサロム王子は路上に立ち、優しく人々に声をかけ、手を差し伸べて、抱き、口づけして話を聞いてくれました。
その努力は効果を上げ、「アブサロムはイスラエルの人々の心を盗んだ。」とあります。(6)
(サムエル記 第二 15章2節)
アブサロムはいつも、朝早く、門に通じる道のそばに立っていた。さばきのために王のところに来て訴えようとする者がいると、アブサロムは、その一人ひとりを呼んで言っていた。「あなたはどこの町の者か。」
(サムエル記 第二 15章5~6節)
人が彼に近づいてひれ伏そうとすると、彼は手を伸ばし、その人を抱いて口づけしていた。
アブサロムは、さばきのために王のところにやって来る、すべてのイスラエルの人にこのようにした。アブサロムはイスラエルの人々の心を盗んだ。
熱心さは僕らが何を愛しているかが現れています。それは誰を愛し、誰から好意を得るためなのか問われます。反対に怠惰さも僕らが何を愛し求めているかが現れています。正解は「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」です。(マタイ22.37)そして、その愛と行動は肉からは出ることがありません。神様が与えてくださる御霊によって与えられます。アブサロムは肉に従って熱心にこの世の栄光と権力を求めました。
アブサロムは自分は正しい判断ができると自賛し、反対にダビデ王を批判して「王の側にはあなたのことを聞いてくれる者はいない」といいます。
(サムエル記 第二 15章3~4節)
アブサロムは彼に、「聞きなさい。あなたの訴えは良いし、正しい。だが、王の側にはあなたのことを聞いてくれる者はいない」と言っていた。
さらにアブサロムは、「だれか私をこの国のさばき人に立ててくれないだろうか。訴えや申し立てのある人がみな、私のところに来て、私がその訴えを正しくさばくのだが」と言っていた。
人々はこの美しく親切で話を聞いてくれる王子が次期政権をとると期待し、ダビデ王はいつ引退するのか、と考えるようになり「イスラエルの人々の心はアブサロムになびいて」いきました。(13)こうしてアブサロムはイスラエルの人々の心を盗んでいき、クーデターを起こすタイミングを狙い、それは実行されました。(8節以降)
時間や力の使い方は僕らが何を愛し、何求めているかが現れています
今日のスケジュールを考えてみましょう。今日、僕らは何を愛し何を求めているのでしょう。神様を愛し、神様を求める日でありますように!
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