イザヤ20章
この世には、消えていく誇りと、消えない誇りがあります。消えていくものを誇りとする人は惨めです。神様は聖書を通して実例を見せてくださっています。僕らの人生が恥で終わらないためです。
イスラエルは、強いエジプトと同盟を結んでいることを自慢し、エジプトの強さをまるで自分の誇りのように思っていました。その結果は惨めです。エジプトは、アッシリアに滅ぼされ裸で歩かせられて連行されます。神様以外を求める人の最後はそのようです。
(3節から6節)
3,主は言われた。「わたしのしもべイザヤが、エジプトとクシュに対するしるし、また前兆として、三年間裸になり、裸足で歩いたように、
4,そのように、アッシリアの王はエジプトの捕虜とクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にして、裸足のまま、尻をあらわにして、エジプトの恥をさらしたまま連れて行く。
5,人々は、クシュを頼みとし、エジプトを誇りとしていたゆえに、打ちのめされ、また恥を見る。
6,その日、この海辺の住民は言う。『見よ。アッシリアの王の前から逃れようと、助けを求めて逃げて来たわれわれの拠り所がこの始末だ。われわれは、どうして助かることができるだろうか』と。」
どんなに強い国も人も軍事力も技術も神様ではありません。この世の力に頼る人は逆に恥を受けます。
(31章1節、3節)
1,ああ、助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬に頼り、数が多いといって戦車に、非常に強いといって騎兵に拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。
3,エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も肉であって霊ではない。主が御手を伸ばされると、助ける者はつまずき、助けられる者は倒れて、皆ともに滅び果てる。
僕らの助けは神様です。なくならない誇りは神様を頼る人に与えられます。神様以外に頼るものがない貧しい人、悲しむ人、飢え渇く人は祝福されているとイエスはおっしゃいます。神様だけを求めやすいからです。(マタイ5章)神様は、この世の知恵ある者とか強い者を恥じ入らせるために、わざわざ弱いものを選んでいます。
(コリント人への手紙 第一 1章26~27節)
兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
神様は「わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」とおっしゃいます。(2コリント12.9)弱い時、時間がない時、お金がない時、力が出ない時はむしろ神様の時です。神様に頼り、神様の救いと力を体験できるからです。「わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。」(イザヤ49.23)「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(2コリント12.9)弱い時こそ最強の時です。今日も大丈夫です。「ハレルヤ」は直訳すると、「主を誇れ」です!
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