イザヤ39章
自分さえよければいいのが僕らの罪の本性です。愛の反対は無関心です。でもイエスの願いはそれとは真逆です。「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ2章4節)イエス様は他人のことを自分のこととして、一つになるようにと何度も願っておられます。「彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。」(ヨハネの福音書17章11節など多数)
神様の壮大な願いとご計画は、神様から離れて散り散りになってしまった人類が、もう一度神様のもとに集められることです。そのために、神様はまずイスラエルを選びました。神様がイスラエルを愛し、選び、助け、癒してくださる事は、神様の全人類に対する愛の表れです。
ところが、ヒゼキヤ王は自分さえよければいいと思ったようです。ヒゼキヤは神様に何度も助けられました。強国アッシリアの攻撃からも救われ、病気になった時も癒されました。(37-38章)こんなに愛されているのに、「自分に与えられた恵みに応えようとせず、かえってその心を高ぶらせたので、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。」とあります。(歴代誌 第二 32章25節)次の世代に神様の裁きがある、と言われますが、ヒゼキヤは「自分が生きている間は平和と安定があるだろう」と思い、次の世代が苦しみ滅びることをなんとも思いませんでした。(8)
(イザヤ書 39章5~8節)
イザヤはヒゼキヤに言った。「万軍の主のことばを聞きなさい。
見よ。あなたの家にある物、あなたの父祖たちが今日まで蓄えてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日々が来る。何一つ残されることはない──主は言われる──。
また、あなたが生む、あなた自身の息子たちの中には、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者がいる。」
ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は平和と安定があるだろう、と思ったのである。
自分さえ良ければ、将来国が滅んでも子供たちが捕虜にされても構わないと言う無関心さ、冷たさは僕らの姿です。神様の願いはそれとは真逆です。すべての世代が神様の愛の対象です、次の世代もその次の世代も何代も先まで、すべての人が救われるのが神様の願いです。
僕らは自分さえよければ、安泰であれば、あとは野となれ山となれ、という冷たさは神様の願いではありません。聖霊が僕らの中に住んでおられます。神様の心が僕らの心となりつつあります。その願いはすべての人が救われることです。次の世代もその次の世代も救われ神様に感謝してその愛の中に留まることです。僕らの視野が自分のことだけでなく、神様の願いのように広く大きくされますように。
0 件のコメント:
コメントを投稿