2024年11月7日木曜日

イザヤ37.1-21、33-38「チーム、祈り、勝利」メッセージ

 イザヤ37.1-21、33-38「チーム、祈り、勝利」メッセージ

1祈りの大切さ

2祈りは神様とつながり一つなること

3祈りは兄弟姉妹とつながり一つになること

4祈りのゴールは全世界に神様の栄光が現されること


●祈りの大切さ


当たり前ですが、僕たちは祈る必要があります

同時に、僕たちには時間がありません。祈る余裕がありませんといいます。

祈りが大事なのはわかってます。でも、それをする余裕がないのです。


神様が中心になってほしいし、神様が私たちを祝福してほしいし、守ってほしいと思ってはいます。でも祈る時間は無いと言う矛盾の中にいます。


(ローマ人への手紙 12章12節)

"望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。"


(コロサイ人への手紙 4章2節)

"たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。"


(テサロニケ人への手紙 第一 5章17節)

"絶えず祈りなさい。"


それでも私たちは他にやらなきゃなんないことがあって祈れないって思います。悪魔は祈ることが大嫌いです。だからいろんな用事思い出させ、忙しくさせようとします。祈らなくてもちゃっちゃっとできるように感じます。祈れないことに正当な理由があるような気がします。仕事がある、あの人に連絡しなきゃなんない。もう準備しなきゃ。出かけなきゃ。


神様と2人きりになろうとすると邪魔が入ります。祈りを選ぶか、自分の用事を選ぶか、いつもその綱引きの中にいます。答えは明確です。聖書は祈りなさいと言っています。


聞いて従うか、無視するか、正解は聞いて従うことです。まず祈りです。私たちが神様の力を体験できないのは、私たちが祈らないからです。


(ヤコブの手紙 4章2節)

"自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。"


(ヤコブ1.6-7)

ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。


みなさんに質問です。


神様には僕らの祈りに答える力があると信じますか?疑っていますか?

神様は全てのことを支配する天地の主だと信じますか?疑っていますか?

僕らが願ったことよりも、もっと良いことをなさると信じますか?


※文脈の確認です。

世界最強のアッシリア軍にエルサレムに囲まれました。もう望みはありません。

そして、敵の大群はエルサレムの近くまできて、ほぼ包囲されています。勝てる状況ではないです。ここから脱出もできないでしょう。敵の将軍ラブシャケは出てきて、休むことなく脅してきます。

お前たちに力はない。お前たちは餓死するだけだと脅迫します。

ヒザキヤ王もうダメだ、と思います。絶望ギリギリです。そんな中で彼はまず祈りました。彼が祈った祈りは、神様の権威を信じて告白する祈りでした。


(イザヤ書 37章15~16節)

"ヒゼキヤは主に祈った。

「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。"


勝利と救い、そして神様の栄光は祈りを通してなされます。しかも、それは神様の栄光と力を求める祈りです。そして、この祈りは真実、真理です。神様の力と権威、勝利は確定していると信じて、祈りの中でそれを宣言しています。


●祈りは神様とつながり一つなること


祈りは神様とつながることです。祈りは神様とチームになることです。


神様が馬鹿にされ、神様がそうしられるのは私たちが馬鹿にされることです。

敵は大群でエルサレムとユダヤを包囲して天地を作られた神様をそしりバカにし王であるヒゼキヤを馬鹿にしののしっています。

敵の脅迫は神様への攻撃です。そして、それはヒゼキヤ王、この国への攻撃です。祈りの中で神様とチームになっていきます。王様はイザヤに報告します。


(4節)

おそらく、あなたの神、主は、ラブ・シャケのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリアの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、主は、お聞きになったそのことばをとがめられます。あなたは、まだいる残りの者のために祈りの声をあげてください。』」


神様は答えて言われます。


(6節)

イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。『主はこう言われる。あなたが聞いたあのことば、アッシリアの王の若い者たちがわたしをののしった、あのことばを恐れるな。


この国が脅され、攻撃されているんだけど、神様は私が罵られ、私が攻撃されている、と言います。

今も同じです。私たち教会は神様の家族であり、キリストの体となりました。祈る事はキリストと1つになっていくことです。キリストとつながり、父なる神様とつながっていくことです。わたしたちへの攻撃はキリストの攻撃、キリストへの攻撃はわたしたちへの攻撃です。

キリストの苦しみに私たちは連帯します。


敵はこの国を攻撃してるけど、神様を攻撃しています。キリストを攻撃することは、教会に繋がってるひとりひとりを攻撃することです。


祈りは神様とつながり一つとなっていくことです。そして、神様が反撃してくださいます。神様は言われます。


(7節)

今、わたしは彼のうちに霊を置く。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしはその国で彼を剣で倒す。』」


その通りに、ヒゼキヤ王の力によらず、能力によらずに神様が敵を滅ぼされます。その通りになりました。


(35-38節)

35,わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。』」

36,主の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな死体となっていた。

37,アッシリアの王センナケリブは陣をたたんで去り、帰ってニネベに住んだ。

38,彼が自分の神ニスロクの神殿で拝んでいたとき、その息子たち、アデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺した。彼らはアララテの地へ逃れ、彼の子エサル・ハドンが代わって王となった。


祈ることは、神様と繋がり神様と一つになっていくことです。そして、神様の勝利を体験することです。

神様は全部知ってますが、僕らの祈りを待っておられるかのようです。


子供は兄弟喧嘩しますよね。僕は息子たちが喧嘩している時によく言いました。「うちの子供に悪く言わないでくれ」「あなたが傷つけているのは私の子供だ。だからやめてくれ」と叱りました。


同じように、神様にとって僕らは大事な子供です。僕らへの攻撃は神様への攻撃です。神さまは放っておかないです。僕らは神様に求めることです。自分で戦うのでなく、神様に救いを求め、その権威を力を神様の裁きを求めることです。神様にとっては自分のこと。自分の愛する子供のこと、自分の宝物の大問題です。


しかも、上から注意するだけではなく一緒に傷ついてくださる方です。


私たちの病を自分のこととしてくださるために、天地の主が人となって赤ちゃんとなってきてくださいました。全く無力な、お世話になるしかない、お母さんのお腹の中で保護されるしかない小さな存在になってきてくださり、人間関係の中で傷つき、飢え、悲しみ、文字通り鞭で打たれ、弟子たちに裏切られ、孤独になる、そして殺される、全ての苦しみを共有してくださる方です。


イエス様の側で先に私たちと一つになろうとしてくださっています。

祈りはこの方と繋がります。


(ヘブル4.15)

15,私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

16,ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。


天地を造り支配しておられる神様が人となってくださり、すべての病や悲しみを経験され、私はあなたを背負う、と言ってくださいました。泣くと共に泣きなさいっておっしゃる方です。だから私たちは遠慮なく自分の悲しみを主の足元にもっていくことができます。


ヒゼキヤは敵の脅しの手紙を主の前に広げて、悩みと苦しみを神様の足元に置きます。


(14-16節)

14,ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取って読み、主の宮に上って行き、それを主の前に広げた。

15,ヒゼキヤは主に祈った。

16,「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。

17,主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセンナケリブのことばをみな聞いてください。


問題を、神様に持っていきます。自分で対応するのではないです。ここにお手本があります。

祈りは、神様とのチームワークを強くします


●祈りは兄弟姉妹とつながり一つになること


そして祈りは、神様につながる人たちのチームワークを築きます

私たちには一緒に祈ってもらう仲間が必要です、というよりも、もうすでに与えられています。


この側近たちは、ヒゼキヤ王への脅しは自分の悲しみでした。この国の悲しみ、そしてこの神様に対する暴力は自分の事でした。


(36章22節)

ヒルキヤの子である宮廷長官エルヤキム、書記シェブナ、アサフの子である史官ヨアフは、自分たちの衣を引き裂いてヒゼキヤのもとに行き、ラブ・シャケのことばを告げた。


ヒゼキヤにはチームがいました。家来たちにとって敵の脅しは自分ごとです。まるで自分達が傷つけられたかのように悲しんでヒゼキヤ王に報告しています。


ヒゼキヤ王にはそれだけでなく、祈ってくれて、神様の言葉を教えてくれる指導者がいました。祈ってください、とイザヤにもお願いします。


(イザヤ書 37章2~4節)

"彼は、宮廷長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに粗布を身にまとわせて、預言者である、アモツの子イザヤのところに遣わした。

彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っておられます。『今日は、苦難と懲らしめと屈辱の日です。子どもが生まれようとしているのに、それを産み出す力がないからです。

おそらく、あなたの神、主は、ラブ・シャケのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリアの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、主は、お聞きになったそのことばをとがめられます。あなたは、まだいる残りの者のために祈りの声をあげてください。』」"


ヒザキヤの側近たちとイザヤは祈りを共有し、みことばを共有するチームでした。ただ怯えているだけの仲間ではありません。今も同じです。これが教会です。

私たちはキリストの体であり、一人一人は器官です。1つ部分が苦しめば全体が苦しむのです。だから一緒に、自分のこととして祈ります。


(1コリント 12:26-27)

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。


体は繋がっています。どこかが痛かったら体全部が苦しみます。


昨日久しぶりに飛行機が揺れてちょっと吐きそうになりました。

飛行機は2時間以上あるのでやる気満々でパソコンも充電満タンにして飛行機乗ったんです。読みたい本も用意してありました。でも飛行機が揺れて気持ち悪くなると全ての機能が動かなくなり、とてもじゃないけど、メッセージのこと考えられませんでした。参考書も持っていたけど、読む気力になりませんでした。これは、胃の問題でなく全身の問題です。


同じように、僕らはキリストの体の中で生きています。全部繋がっています。


今回、5日間KBIで学んで、いちばん教えらたことは、自分が他人に対して、隣人に対し無関心だったか、です。人の痛みに関心がなく、キリストの体を表してなかったな、とすごく教えられました。無関心でその痛みを共有しようとも、相手を観察して理解して自分のこととして愛してもいない冷たさを示されました。


この側近たちもイザヤも自分のことでした。王様の問題じゃなくて、私の問題となって一緒に祈り苦しみ神様の言葉を一緒に求めました。ヒゼキヤはイザヤにお願いします。祈ってください。


(4節)

あなたは、まだいる残りの者のために祈りの声をあげてください。


仲間にそしてイザヤに祈ってください、とお願いすることと自分でも祈ることは一つのことです。

祈りはチームワークです。主とのチームワーク、そして、仲間とのチームワークです。

これが神様の願う教会です。


※ある先生は言いました。1人の宣教師を送るには割合として、1対9の割合で送り出す側のエネルギーが必要です。後方支援が必要です。大事です。と。


アルゼンチンで35年宣教しておられる在原先生、ものすごく用いられている先生です。まだ日本人が海外に宣教に行くってことが一般的なじゃなかった35年前、アドバイザーに言われたそうです。

「あなたがそこで宣教師として働くには最低でも200人の人が継続的に祈ってくれることが必要です。その祈りの仲間を集めなさい」と。それでデプテーションをし、200人の人が祈ってくれるようになって、今があるそうです。送り出す人と、そして送り出される人、祈る人たちが一つになって神様のご計画は実現します。

送り出される宣教師が目立つかもしれないけど、でもこれはキリストの体、教会全体のものです。

イエス様のことは、教会のことです。キリストの働きは教会全体が祈りによってなされることです。誰かの個人プレーではありません。


僕はいつも他人のことには関心が薄くて、個人プレーで来たなぁと思わされています。祈ってくださいって言うし、相手のことも祈るけど、自分の体のこととして親身になっていなかったと思わされました。

今置かれている状況をよく観察し認識しそれを自分のことして一緒に祈るのが教会です。


祈り会に出席して毎週仲間の課題を祈り続ける人と、週報で1行だけ読んで終わるのとは全然違います。

祈りは宣教そのもの、祈りは教会形成そのもの、祈りは神様の願いそのものです。


祈りは僕らの心が神様の心と一つになっていくことです。そして、祈りは仲間が一つになることです。イエス様の願いは何度も何度も繰り返してあなたがたが一つになることです、父である神様とイエス様が一つであるように、あなたがたが一つになることです、それが願いです、とイエス様は何度も祈っておられます(ヨハネ17章)


ぜひ皆さん祈ってください。祈り会に出てください。火曜の祈り会でなくてもいいから、小さいグループで2人でも3人でも心合わせて祈るなら、そこにイエス様はおわれます。教会のこと、宣教師のこと、個人のこと、共有して、一緒に祈り、神様と繋がってください。その時に僕らは神様の解決、神様の勝利を見ます。神様の心が、私たちの心となります。祈りなしに、会議を信徒会をしても上滑りです。


僕も上部でなく、本当にもっと皆さんのことをよく見て知って、自分事になるように愛していけるようにと思わされました。


リーダーが牧師が個人主義で、無関心でワンマンプレーだと教会全体が悪いところも伝染感染してしまいます。そういう牧師の欠点から脱却して、神様の願う教会、神様の思い通りのわたしたちに変えられたいです。僕らの課題、問題はイエス様の体の問題です。そのままでOKではありません。

その時に神様の栄光が現されていきます。


●祈りのゴール


その目的はただ救われるためではなく、全世界が神様だけが主であることを知るようになるためです。


(イザヤ書 37章15~16節)

"ヒゼキヤは主に祈った。

「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。"



ヒゼキヤの祈りは、助けてください、もあるけど、それ以上に神様の力と栄光を見せてください。というものです。敵の傲慢さと脅しは神様の栄光に傷をつけるものです。

この救いは単なる救いではなく、全ての地上の全ての王国が主を知ることになります、という祈りです。


(20節)

私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知るでしょう。


私にも、そして、周りにも、そして全ての国々にも、栄光を主権を見せてください。全ての人が主を讃えるようにしてください、という祈りです。


まさに彼の祈りは、御名が聖なるものとされ、御名が崇められますように、です。まさに、御国が来ますように。王国が来ますように、という祈りです。全ての国があなただけが主であることを知ることです。

私たちにでなく、栄光がただ主にのみあるように、という祈りです。


21節で預言者イザヤがヒザキヤに神様から預かったメッセージを送ります


(イザヤ書 37章21節)

"アモツの子イザヤは、ヒゼキヤのところに人を送って言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたはアッシリアの王センナケリブについて、わたしに祈った。』"


何を祈った?『あなたはアッシリアの王センナケリブについて、わたしに祈った。』敵が主の栄光を傷つけていることを祈り、救いと同時に現れる神様の栄光を、全世界が神様の栄光を知るようにと祈りました。「あなたは祈った。」まるで待っていたようです。


救われることによって全ての人々が主こそ神様、主だけが神様であることを知りますように、と祈ることを喜んでおられるように見えます。

力と栄光はただ主のものです。歴史の主権者は神様だけです。


この戦いは主権の戦いです。自分の力を誇るか、神様だけを誇るか、の戦いです。

正解は神様だけに頼り、神様の栄光だけを求めることです。


この世の全ての力、救い、良いものの上に、神様の主権と栄光があります。もちろん医療も大事、社会福祉制度も大事、専門家も大事、人の計画や計算も大事だし尊敬すべきです。でも同時に、それら全てを与えてくださる主権者は神様です。祈りは栄光と主権が主にあるように求めるものです。この方以外に救いはない、と聖書は言います。


主の力と栄光を求める祈りの答えは僕らの思いを遥かに超えています。


僕らは自分の問題さえ解決したらああ、よかったよかったで終わりがちです。でも、神様の願いは、全ての人たちが神様の栄光を知り、神様の主権を知り、神様に戻ってくることです。神様の王国が御国が来ますように、と祈りなさい。御名が聖なるものとされるように祈りなさ、イエス様が教えてくれた祈りは、もちろん日毎の食べ物、お金、健康のことも大事だけど、全ての人の上に神様の栄光が表され、御国がくることです。


ヒゼキヤの祈りはお手本であり、ゴールを見据えています。


(20)

私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知るでしょう。


もちろん個人的な願いも大事です。でも、それ以上に神様の願いがなるように、栄光が、ただ主にあるように、全ての人に主の栄光が表されるように、と祈らされます。


栄光とは、ヘブル語で重さ、という意味です。

重心が自分にあるのではなく、神様の重さを求めること、これが栄光を求めることです。全ての人がこの神様の重さ、大きさ、栄光を知ることです。


あなたこそ神です。あなたこそ世界の全てを支配しておられる神です。


主の御名があがめられますように。


ヒゼキヤの祈りの目的がここに書かれています。神の名があがめられることです。

御名が聖とされますように。

力と富と知恵と勢いと誉と栄光をもっている神様が現わされますように。


主の栄光を求める祈りを神様は必ず聞いてくださいます。

祈りましょう。祈られましょう。神様の栄光を求めましょう。ハレルヤ!


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