イザヤ42.1-9
イエス様はガミガミと言い争い、論破しやっつける方ではありません。
むしろ、人から罵られ、苦しめられ、神の怒りを代わりに背負い、痛んでいる人たち、闇の中にいる人たちを救い出し、癒す方です。イザヤはイエス様のことを預言しています。
(イザヤ書 42章2~3節)
"彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。
傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。"
争わず、叫ばず、ただ神様に信頼して罪人たちを救い出す計画をなそうとする姿を新約聖書は次のように説明しています。
(ペテロの手紙 第一 2章23~24節)
"ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。"
くすぶる僕らを見捨てることなく忍耐して下さったことは僕らにとっての救いです。ご自分を捨てて愛して下さったことは僕らの光です。
(イザヤ書 42章4節)
"衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」"
(イザヤ書 42章6節)
"「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。"
イエス様の上には無限の御霊がおられます。(ヨハネ3.34)だから、イエス様は罪人に対する忍耐と愛を完全に表すことができました。イエス様は神様にとっての喜びです。神様とイエス様は一つです。
(イザヤ書 42章1節)
"「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。"
そして、神様の御霊は僕らにも同じように与えられています。僕らもまた神様にとっての喜びであり愛する子です。イエス様が争うことなく忍耐し続けてくださったことは僕らの模範だし、僕らも御霊によってそうすることができます。
(ペテロの手紙 第一 2章21節)
"このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。"
(テモテへの手紙 第二 2章24~26節)
"主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍耐し、反対する人たちを柔和に教え導きなさい。神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせてくださるかもしれません。
悪魔に捕らえられて思いのままにされている人々でも、目を覚まして、その罠を逃れるかもしれません。"
神様の御霊が僕らにも与えられています。イエス様と同じように僕らも喜ばれる愛されている子です。そして、僕らはイエス様に似た人と変えられている途中です。へりくだり、忍耐し、ののしられてもののしり返さず争わず、神様の真実と愛を表すものとされます。僕らでなく、イエス様の御霊が僕らの中におられます。ハレルヤ!
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