今朝、妻の父を天に送って、改めて僕ら地上の人生は限られていると思わせられています。
昨日のリバーの卒業式で、新札幌聖書教会の朴先生が、どんな時も、苦しい時も、悲しい時もまず賛美する、ということを教えてくださいました。それで今日もまずいつもの通り賛美をし礼拝を捧げたいと思います。
地上の持ち時間はすぐに終わり、そして、永遠は長いです。そして地上での生き方が永遠の生き方を決えます。地上で与えられている賜物をどのように使うか、というメッセージです。任されてるものはみんなあります。それを用いることの大切さ、とその結果です。父の死も、今日のメッセージもつながっていると思わせられています。
●神様の期待は一緒に治めること
神様の期待と願いは僕ら人間と一緒にこの世界を治めることです。
この世界を造られた時からそうでした。神様だけで十分なのに、神様は人間を作って、神様のお仕事を一緒にしたい、一緒にしよう、と任せてくださっています。
"神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」"
創世記 1章26節
この世界をお世話をするのは、神様だけで十分なはずです。だのに、最初から神様の似姿に、神様のパートナーとして、神様の子どもとして、一緒にこの地上の人生を神様を愛しながら、愛されながら生きていくために作られています。
※預ける王様
イエス様はそのことを王様としもべに例えておられます。
(13)
彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。
10人で10ミナです。一人1ミナずつです。一ミナは当時の100日分の賃金だそうです。約4か月分に当たるような王様のお金を最初に預けました。一人ずつ、まとまったお金を預かりました。使うためのお金です。王様のために使って、喜ばれるために預かっています。この王様はしもべを信頼して預けてくださっています。そして、期待している王様は見たい、知りたい、と思います。
(15)
さて、彼は王位を授かって帰って来ると、金を与えておいたしもべたちを呼び出すように命じた。彼らがどんな商売をしたかを知ろうと思ったのである。
さて、結果はどうだったでしょう。最初の2人は喜んで報告します。王様も喜びます。相思相愛です。
(16-19)
最初のしもべが進み出て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで十ミナをもうけました。』
主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』
二番目のしもべが来て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで五ミナをもうけました。』
主人は彼にも言った。『おまえも五つの町を治めなさい。』
この話は神様が人間に賜物を預け、一緒に世界を治める話をわかりやすくしてくださっています。
ちなみに僕は、人に任せることが苦手でした。自分でやっちゃいたいんです。人にお願いするより、自分でできることを自分のペースでやってしまいたい、という性格でした。今もそうですが、それは神様の似姿ではありません。神様は違います。神様は効率ではありません。神様はコスパとかタイパに興味がなくて、重視しているのは一緒にすること、信頼し愛し合って喜び合って一緒に歩むことです。
うまくいくことよりも、神様と人間が愛し合い、人は神様を信頼して従い、神様は人間を愛し喜んで一緒にこの地上を治めることです。スピードは重要ではありません。コストをかけないことも重要ではありません。コスパやタイパが良くても、そこに神様への信頼、人への愛がなければ神様にとっては無意味なものです。
※初めてのお使い
子どもたちが初めてお買い物をする番組がありました。大人から見たら下手だし遅いし心配なことだらけです。でも子どもが言われた通りにスーパーに行って牛乳を買ってきた時に、お母さんは喜んで泣きます。子どもは喜び、親も喜ぶやつです。よくやったね!えらいね!と言って抱きしめて喜びます。
親がやったらすぐに終わる買い物です。それでも子に任せて、子は緊張しながら帰ってきて、ちゃんとできました、という感動的な番組です。
神様は一緒によろこでくれる母さんのようです、神様はしもべにお金を預け、それを使ったことを一緒に喜ぶ方です。なんでもっと早くできないの!とか、もっとこうすればうまくいくのに、とは言いません。
"最初のしもべが進み出て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで十ミナをもうけました。』
主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』"
ルカの福音書 19章16~17節
●神様を誤解している人
(20-21)
また別のしもべが来て言った。『ご主人様、ご覧ください。あなた様の一ミナがございます。私は布に包んで、しまっておきました。
あなた様は預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取られる厳しい方ですから、怖かったのです。』
それをどうせあなたは奪い取る。どうせうまくいかなかったら怒る。要求ばかりする。預けてないのに奪い、まかなかったものから刈り取る。神様のことをそのような横暴なひどい王様だ、と思っている人がいます。その人は神様を誤解しています。神様の愛を知らなすぎます。
神様はひどいと思います。奪う神様、預けてもないのにもっとよこせと言う神様です。そんな神様からお金を預かるのは迷惑です。どうせ私にひどい要求をするだから私は関わりたくない。怖い。預かりたくない。そう思う人は、動けないし、動きたくないです。
たぶんこの人、典型的な律法主義のようです。神様は「従え」「従え」「捧げなさい」「自分を捨てなさい「もっと献身しなさい」って言われて、そして、頑張てそうしたら「全部の栄光は神に返せ」って言われるだけ。そういう理解だけの人です。ただ奪う神様、という理解の人は動けないし、動きたくないです。
悪魔は最初からそのような誤解を植え付け、嘘を植え付けます。
お前はうまくいかないぞ、ちゃんとできないぞ、神様に裁かれぞ、神様はひどいぞ、そう思わせます。どうせ私は失敗するんだ。どうせ私は神様からひどい目に会うんだ。と思い込ませるようです。
神様は最初世界を作った時、すべての木の実から食べていいっておっしゃいますが、悪魔は全く逆のことを言います。
創世記3.1
蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」
「全部ダメなんだってね」と悪い情報だけを流す、これが悪魔のやり方です。
神様は人間に豊かに良いものを与えて、私たちを楽しませてくださる神様です。そう聖書にあります。
"私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、"
テモテへの手紙 第一 6章17節
山があり海があり動物がいて世界は美しいです。私たちのために毎朝毎日素晴らしい芸術が繰り広げられています。美しい空があります。友情も結婚も子どもたちも音楽も技術も食事も花も草も木も全部神様からのプレゼントです。それらを豊かに与えて楽しませてくださる神様です。この世界を喜び、僕らの存在を喜び、神様に似せて能力もお金も力も与えてくださってる神様です。
でも悪魔はそういう愛とかめぐみ、神様の素晴らしさには触れずに、禁止事項だけを言います。
「全部の木の実食べてはダメなんだって?!神様はひどいね。クリスチャンになると窮屈だね。
いろいろ縛られるんだね。いろいろルールがあるんだね。」
そうやって私たちを縛り自由を奪っていくのは、悪魔の仕事です。神様の素晴らしい情報を操作して神様を貶めようとします。
この王様がしもべにミナずつ与えたのは彼らがそれを使って喜んで結果を出してくれることがわかってるからです。できるから与えています。同じように、神様が人に賜物を与えたのは、できることを知っているからです。信頼されていることを喜んで用いる人はもっと与えられます。
(24-26)
そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナをこの者から取り上げて、十ミナ持っている者に与えなさい。』
すると彼らは、『ご主人様、あの人はすでに十ミナ持っています』と言った。
彼は言った。『おまえたちに言うが、だれでも持っている者はさらに与えられ、持っていない者からは、持っている物までも取り上げられるのだ。
イエス様は最後におっしゃいます。使えば使うほどもっと預けてもらえます。自転車と同じです。乗れば乗るほど上手くなります。英語と同じです。しゃべるほど上手くなります。
反対に、「どうせ私は失敗するんだ。どうせ転ぶんだ。どうせ事故に会うんだ」と思い込む人はやらないし、やりたくないと思います。
※安全か?恐怖か?
皆さん床の上に1メートル幅の長い板があるのイメージしてください。礼拝室の入り口から後段まで、1メートル幅の板が長く並べてあります。そしてその1メートルの幅の板の上を歩いてここまで来てください。
誰でもできます。
でもそれが崖の上だったら、高さ100メートルの上の吊り橋で手すりもなかったら足がすくみます。
同じ状況でも、落ちたら死ぬぞと言う恐怖感が体を動かなくします。実際は全く同じ板の上を歩くだけです。ただ心が違うんです。死ぬぞ、ひどい目に会うぞ、怪我するぞという思いが支配しています。
同じように、神様から能力を預かりお金を預かったことを安心して楽しむか、それとも「失敗したらひどい目に会う。失敗したら人生だめになる。神様はひどい」と失敗することばかりを信じるかです。
神様のことどう思うかで、僕らの人生は全然変わります。悪魔はいつもいろんなこと、人の言葉を使って脅します。神様へのイメージを悪いもののように洗脳します。時々は信頼している人の言葉を使って悪いことを吹聴します。牧師の言葉によってつまづく人もいます。だから、人の言葉でなく、牧師の言葉でなく、直接聖書のみことばから聞くことが大事です。真理は牧師の言葉ではなく、聖書の言葉から与えられます。
神様は失敗したら怒るぞ。神様はもっと奪う神様だぞ。お金もなくなっちゃうぞ。ひどい目に会うぞ。そうやって悪魔から洗脳され、神様を誤解してしまった人は何もできなくなってしまいます。
※おっかないラーメン店主
みちや先生がラーメン店主に「美味しかったです」って言ったら店主が怖い顔で「あったりめーだろ!」と言ったそうです。
ラーメン店主でさえそうなら、クリスチャンは神様の子として、神様から賜物を預かって奉仕させてもらって仕事させてもらってるんだから、神様は素晴らしい方だから、うまくいって「あったりめーだろ」って話です。神様が素晴らしいんだから、神様から預かってるんだから、そう思って、喜んでやるべきです。
この能力、肉体、お金全部、神様がやってごらんってよって預けてくださっています。神様が「私はあなたと共にいる」って言って一緒に奉仕させてくださっています。
預けてくださった神様がすごいんだから、一緒にいてくださる神様が素晴らしい神様だから、「あったりめーだろう」です。と喜んでささげて用いて、増やしていこう、という話です。
●たとえ話だけどリアルな将来
人々が神の国が来ると思っていたのは、僕らが思う以上にリアルです。確かにイエス様は王様です。やがて誰にでもわかる姿で世界の王となります。そうなんだけど、その前にエルサレムに行って人々から十字架にかけられて殺されます。そして復活して天に帰るんです。何しに帰ったか?
答えは、「王位を授かって戻って来るため」です。
キリストが神様から王位を与えられて世界を支配することは旧約聖書でも預言され、そして、新約聖書でもイエス様が仰っていることです。
"イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。"
ルカの福音書 19章12節
これはイエス様自身のことです。
(マタイ25.31)
人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
イエス様が父なる神様のもとに帰り、もう一度王様としてこの世界に来ることは何度も預言されています。僕らは今、イエス様がもう一度地上に戻ることを願い待っている時代です。
当時の人たちはこの意味がすぐわかりました。王様が遠くにいって、それから戻ってくることはこの時代、普通のことでした。たとえば、ユダヤ地方の王様はヘロデですが、ヘロデ王はローマまで行って、ローマ皇帝カイザルから王権をもらってこのユダヤ地方戻ってきて支配しています。
イエス様は一回神様のもとに行って、もう一度この世界に王様として再臨されるのが聖書の教えです。
●王様の喜びと報酬
王様は忠実なしもべを喜んで報酬を与えます。その報酬とは、お金ではありません。王様と一緒に共同統治することです。預かったわずかなものに対して忠実だったから、だから、王様は一緒に町を支配するように言います。同じように、神様は僕らに預けたお金も時間も力も賜物も人間関係も、神様のために忠実に使っているかどうか、を見られています。
人間は1日に何千回も決断するそうです「あと5分寝ようかな?」「何食べようかな?」「服どっちにしよう?」「この返信は先ににするか?後でいいか?」「エレベーター待つ?階段使う?」などです。小さなことから大きな決心まで、これは全部、判断が任され、管理が任されてるってことです。AかBか迷ったら、どちらが神様に対して忠実か、神様に喜ばれるかを考えるといいです。
※シンガポールの研修
に行った時、講師の先生が言いました。何千人も入る教会堂をいくつも建設した牧師が話してました。
「先生の教会はどうして、こんな大きな建物を建てられるのですか?そのお金はどこから来てるのですか?」
当然の質問です。先生は答えます。想像してください。
今から、隣の人の財布を預かってください。そして、隣の人は言ってください。その財布のお金、いくら使ってもいいよ。隣の人の財布から幾らでも使っていいことになりました。さて、あたなはいくら献金しますか?そしたら、その人は答えます。隣の人がいくら使ってもいい、っていうなら、全部献金します。
そうでしょう。あなたの財布は神様から預かってる財布です。そして、神様はそれをいくらつかっていいよ、って言ってくれます。これが答えです。この王様は預けたお金をちゃんと王様のためにふさわしく使ったしもべを喜びます。
2人のしもべは彼らは王様から預かったお金の管理を王様がおっしゃった通りに忠実に管理して使いました。たんです。だから王様はこの世界に戻った時に、町を治めなさい、とおっしゃいます。
王様とはイエス・キリストです。イエス様が戻ってきたときに、あなたは忠実にはよくやってるから、私と共に王様として10の町を管理しなさい、5つの町を管理しなさいとおっしゃってくれくれるんです。
今この地上の人生での判断が、どう使うかが、僕らの永遠の報いを決めます。永遠の神様の国で神様からどのぐらい信頼され、任されるかが今、日々決まっていると言うことです
クリスチャンはイエス様がこられた時に罪の裁きを受けることはありません。
でもイエス様がこられたときにこの地上の人生で預けたものをどのように使ったか、と言う評価や報いはあります。
神様にとって価値のないことに使ったか、それとも神様に言われた通りに使ったかどうか、です。その評価はあります。
イエス様が期待しているのは、僕らが預かっているものを喜ばれるように使うことです。裁きはないけど、報いは違います。忠実に神を愛し人を愛するために使ったかどうかを神様が見たい、と願っています。忠実に働いた人の報いは大きいです。神様と一緒に支配者になります。
これはリアルな話です。イエス様がもう一度来られて王様となると、なんと僕らも一緒に王様になり支配者になると聖書は言います。
"耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。
テモテへの手紙 第二 2章12節
永遠の神様の国で、どのぐらい任せられるか、それは今僕らが預かっているものをどのぐらい忠実に使うかで決まります。今、僕らは将来の準備をしています。
本当の人生はイエス様が王として来られてからです。今は永遠の人生のための準備段階です。
神様は僕らを信頼してくれています。
萎縮して、何もしないか、従うかどうか、それは、神様に対して安心しているかどうか、がポイントです。人が主にあって成長する人は必ず安心しています。神様から期待され、愛され信頼されてると感じている人です。神様のことをどう思ってるかで人は変わります。
●まとめ
神様は僕らを信頼し、任せています。
みなさんが萎縮するのはなぜですか?
厳しい方だ、自分から奪う神様だ、誰が言ったんですか?神様は僕らに安心を与えた上で、期待して預けています。
神様のことを正しく知ることは僕らをリラックスさせ、安心して、喜んで、忠実に仕えたい、と思うように帰られます。失敗しても大丈夫です。失敗も通過点の一つです。
神様はあなたを愛して、預けてくださっています。
弱いものを選び、小さいものを選び、喜び、預けてくださっています。
僕らの持ち物ではありません。全部神様からの愛のプレゼント、預かり物です。
用いましょう。増やしましょう。恐れる必要はありません。
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