1列王13.1-25 神様より大事なことはなんですか?
今日はバプテスマです。バプテスマはイエス様を信じた時に、イエス様と浸され、十字架の処刑を一緒に預かるものとして、その呪いを終え、きよめられ、罪がゆるされ、新しくされることを表しています。めぐみさんは神様の子どもです。神様の愛する人、神様の民、聖なる人です。
今日のメッセージは、それでも、神様の民、子どもたちでさえ、何度も失敗してしまうことを一緒に読みます。神様に愛され選ばれているのに、ずれていくのがイスラエルの現実です。
それを通して、それでも諦めずに僕らに教え続け、何度も赦し、神様に戻してくださる神様の愛とめぐみを受け取りたいと思います。
●文脈
神様はイスラエルを愛する妻のように、宝の子どもたちのように愛しておられます。だから、彼らが偶像を拝むことを神様は怒り、ねたみます。これは正しい感情です。夫婦が浮気を怒り妬むのと同じです。神様は妬む神、と何度も書かれています。これは契約を結び、一つとなる約束をしたゆえに、正しい怒り、妬みです。
先週読んだところは、あんなに祝福されていたソロモン王でさえ、老人になって神様から離れ、偶像礼拝に陥り、その結果、神様の妬み怒りを引き起こしたことでした。
神様は、偶像礼拝の結果として次の世代も混乱と争いの中に放置されます。神様が最初から言っていた通りにこの国を分裂させました。
その分裂に用いられたのが今日のヤロブアムという王様です。彼はイスラエル12部族のうちの10部族を引き連れて王様になりました。国は分裂しました。南王国ユダと、北王国イスラエルです。
さて、ヤロブアムは王様になったんだけど、心配事が出てきました
イスラエル人は決まった日に南王国のエルサレムに礼拝にいくことが律法で決まってます。
ヤロブアムは心配しました。南王国にいくことでやっぱりみんなが、私たちはの場所はエルサレムだ、エルサレムの神様こそ私たちの神様だ、と思うのではないか… 南王国のレハブアムの方がダビデの直系だし、自分らの王様だと言って寝返っていくんじゃないか…と。そこで彼は人々を南に行かせないために、新しい宗教を作りました。
(12章28-29節)
28,そこで王は相談して金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もうエルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上った、あなたの神々がおられる。」
29,それから彼は一つをベテルに据え、もう一つをダンに置いた。
彼は金の子牛を自分の国の1番北の端のダンと一番南のベテルに置いて、ここで金の子牛様を拝みなさい、と国民に命令しました。ヤロブアムは自己保身のために偶像礼拝をさせます。神様よりも自分の方法です。偶像礼拝は自分のために利用するものです。神様より自分を愛することです。ヤロブアムは宗教を作り、それを利用して人々が自分から離れないようにさせます。そんなヤロブアムに神様は預言者を通して警告し、悔い改めるチャンスを与えてくださいます。
●ヤロブアムへの信仰のテスト
神の人と呼ばれる1人の預言者が南ユダからやってきます
やってきたのはベテル、まさに金の牛の礼拝所のある場所です。今、ヤロブアム王がこの祭壇で祭壇で香を炊いて偶像礼拝をしています。何が起こったか1節かから2節です
"一人の神の人が、主の命令によってユダからベテルにやって来た。ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていた。
すると、この人は主の命令によって祭壇に向かい、これに呼びかけて言った。「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。『見よ、一人の男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちを、いけにえとしておまえの上に献げ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』」"
列王記 第一 13章1~2節
この人は預言者なので、神様の言葉を伝えますが、ヤロブアム王様に言うのかと思ったら、「祭壇に向かって」言ったとあります。宣言した内容は2節です。ヨシヤと言う王様が生まれ、この偶像に仕える祭司たちを殺し、その人骨をこの祭壇の上で焼く、という預言です。つまり、王様が勝手に作ったこの金の牛を拝むことへの裁きの預言です。
ヤロブアムにとっては誰、コイツ?って感じです。知らない人が急に近づいて来て、何か言ってます。
ヨシヤって誰?と思うし、何言ってるかわかりません。まさに不審者です。本当の預言かどうか疑わしいものです。そこで神様はこの預言が本物だとわからせるためにしるしを与えてくれます
"その日、彼は一つのしるしを与えて、次のように言った。「これが主の告げられたしるしである。見よ、祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る。」"
列王記 第一 13章3節
祭壇は青銅で作られています。これが割れることは神様からのしるしです。普通はありえないことです。
ヤロブアム王はそれでも信じないでしょうから、神様はもう一つしるしを与えてくれます。
王は、この不審者をすぐ逮捕せよと言いました。…が、その伸ばした手が動かなくなり、しなびていく神様のしるしです。「彼を捕らえよ」というのは当たり前です。今風に言うなら、SP、警備をくぐり抜けて、怪しい人が王様に近づいて何か言っているのですから、普通に逮捕されます。ところが、これが本当に神様からの警告だと分かるように、王さまの手がしなびて動かなくなります。
"ヤロブアム王は、ベテルの祭壇に向かって叫んでいる神の人のことばを聞いたとき、祭壇から手を伸ばして「彼を捕らえよ」と言った。すると、彼に向けて伸ばしていた手はしなび、戻すことができなくなった。
神の人が主のことばによって与えたしるしのとおり、祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼれ出た。"
列王記 第一 13章4~5節
驚いた王様はこの神の人に懇願します。6節です。
"そこで、王はこの神の人に向かって言った。「どうか、あなたの神、主にお願いして、私のために祈ってください。そうすれば、私の手は元に戻るでしょう。」神の人が主に願ったので、王の手は元に戻り、前と同じようになった。"
列王記 第一 13章6節
腕は元に戻りました。これが神様の確かなしるしでありました。
さて、ここでヤロブアムはどう答えたらいいと思いますか?
ヤロブアムはもともと本当の神様を知ってはいたはずです。
だからこの偶像礼拝が神様の怒りを引き起こす愚かなことだとわかっていたはずです。罪をを認めて神様に謝るべきところです。祈ってもらって腕は治りました。ところが、王の答えはこれです。7節です。
"王は神の人に言った。「私と一緒に宮殿に来て、食事をして元気をつけてください。あなたに贈り物をしたいのです。」"
列王記 第一 13章7節
なんと、「食事でもどうですか?プレゼントもしたいです」と言うのが王様の答えです。この人はすごいな、この人と仲良くしておいたほうがいいな。この人をもてなそう。この人にプレゼントしよう、ということです。彼は全く神様の事は見えなくなっています。
元々この金の牛の偶像礼拝は国民が自分から離れないために作った方法です。
この王様、今度は、腕が動かなくなったり、祭壇が割れたりする人、この人と仲良くしておいた方がいい、と思ったみたいです。いつも考えるのは自分の立場だけです。
ご飯に誘ってもてなしてご馳走をあげて、プレゼントすれば自分は安泰だ、この人を敵にしない方がいい、この預言者とは良い関係でいた方がいい、という計算です。この人、神様を見ないで人間しか見てないです。見えなくなっています。
僕らも癒されたとき、助かったとき、神様に感謝し、礼拝するか、それとも、これはあの人のおかげ、この人のおかげ、と人ばかり見るかが試されます。
ヤロブアムはこの神様からの警告、そして神様からのテストに彼は不合格でした。
ただ、自分にとって使える人かどうかです。使えそうな人とは仲良くしよう、という王様です。
僕らも試練を通して神様からのテストありますよ。その時に神様を見上げることが試されています。人間ではなくて、状況ではなく、もう一度神様に立ち返るための試練であり、そのための訓練であり、そのための信仰のテストです。何を見るか、誰を中心に考えるか。試練は神様だけを崇め、礼拝し、従うための訓練です。余計なものを手放して神様に戻るための試練です。
神様に戻るために、神様はわざわざ苦しみを通して警告してくださる時があります。それにどう答えるか、僕らは試されます。ヤロブアム王は全く神様に気づくことすらできなくなってしまいました。
●神の人への信仰のテスト
王様の食事はすごい豪華です。王様のプレゼントは、莫大な金銀です。それでも、預言者は即答でお断りしました。これは神の人のための信仰のテストでもありました。
当時は一緒に食事をするっていうのは、今よりもずっとずっと家族であり、仲間であり、兄弟姉妹だと表す行為でした。彼は即答で断ります。
"すると神の人は王に言った。「たとえ、あなたの宮殿の半分を私に下さっても、私はあなたと一緒に参りません。また、この場所ではパンも食べず、水も飲みません。
というのは、主のことばによって、『パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない』と命じられているからです。」
こうして、彼はベテルに来たときの道は通らず、ほかの道を通って帰った。"
列王記 第一 13章8~10節
神様はこの王様に会う前から最初から3つの禁止を与えてくれてました。
食べるな、飲むな、道を戻るな、です。
これはこの誘惑に巻き込まれないため、偶像礼拝に巻き込まれないための神様からのガイドラインです。安全のためです。神様からの愛の守りです。僕らにも神様は律法を与えてくださっています。これは安全のためです。神様から離れさせる誘惑がたくさんあるからです。子供の安全のためにルールを教えるように、律法を教え僕らを愛し守ろうとしてくださっています。ここでは食べるな、飲むな、です。これはご馳走を取り上げるケチな神様でなく、守ってくださる神様です。小さい子供に、車道に出てはいけないよ、危ないから、と教えるのと同じです。盗んではならない、嘘ついてはならない、淫らなことをしてはならない、これは僕らを守り本当に祝福するためです。安息日を守りなさい。他に神様があってはならない。父母を敬いなさい。縛りではなく、守りのため、愛ゆえです。
さて、この預言者へのテスト、1回目は合格です。ところまだ終わりませんでした。さらに難易度の高いテストがありました。1人年寄りの預言者が、もう一度誘惑して声をかけてきます。
今度は年寄りの預言者が食事に誘います。
"一人の年老いた預言者がベテルに住んでいた。その息子たちが来て、その日、ベテルで神の人がしたことを残らず彼に話した。また、彼らは、この人が王に告げたことばも父に話した。
すると父は「その人はどの道を行ったか」と彼らに尋ねた。息子たちは、ユダから来た神の人が行った道を知っていた。
父は息子たちに「ろばに鞍を置いてくれ」と言った。彼らがろばに鞍を置くと、父はろばに乗り、
神の人の後を追って行った。そして、その人が樫の木の下に座っているのを見つけると、「ユダからおいでになった神の人はあなたですか」と尋ねた。その人は「私です」と答えた。
彼はその人に「私と一緒に家に来て、パンを食べてください」と言った。"
列王記 第一 13章11~15節
なぜこの老人の預言者が誘ったのかその事は全くわからないし書いてもないです。ただ、誘いを受けた神の人はさっきと全く同じようにお断りします
"するとその人は言った。「私は、あなたと一緒に引き返して、あなたと一緒に行くことはできません。また、この場所では、あなたと一緒にパンも食べず、水も飲みません。
というのは、私は主のことばによって、『そこではパンを食べてはならない。水も飲んではならない。もと来た道を通って帰ってはならない』と言われているからです。」"
列王記 第一 13章16~17節
ところが、この年寄りの預言者は上手にダマします。18節にだましたって書いてあります。
"彼はその人に言った。「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主のことばを受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ』と告げました。」こうして彼はその人をだました。"
列王記 第一 13章18節
だましてどうなったか、19節です。
"そこで、その人は彼と一緒に帰り、彼の家でパンを食べ、水を飲んだ。"
列王記 第一 13章19節
神様は道を戻ってはならない、と言っていたけど、彼は戻りました。この老人がだましたからです。悪いのはこの老人です。でも、だまされたこの人は悪くない、と言えるでしょうか?皆さんどう思いますか?
この人、私は預言者ですと言うおじいさんの声は聞いたけど、やっぱり神様の言葉を求めなかったんですね。自分で神様に聞いてはいなかったです。どうしてでしょう?権威がありそうに見えたかもしれません。ベテラン預言者みたいな感じで厳かに、「御使いが主のことばを受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ』と告げました。」といいました。彼は自分で神様に聞くことなく、だまされました。
僕らもよくあると思います。自分で神様に聞かない、求めないで、
僕らは「◯◯牧師が言っていることだから」と簡単に信じてしまうことがあります。◯◯牧師の言っていることが聖書からなのか、それとも自分の考えなのか見分ける必要があります。「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べる」ことが大事だと聖書は教えています。(使徒17.11)
老預言者は自分のことを「私もあなたと同じく預言者です。」と自己紹介しています。僕らも同じように「◯◯教会牧師」という肩書きとか、神学校の教授です、とか、「神様がそうおっしゃった」と言う言葉や権威に弱い者です。再生回数の多い人気YouTuber牧師が言ったから、と信じてしまいます。
みなさんにとって神様よりも大きく見える人は誰ですか?神様のことばよりも影響がある、と思ってしまう人は誰ですか?神様よりも大きく振り回されてしまう揺れうごいてしまう人やモノはありますか?
大事なのは本当に神様のことばかどうか、です。今は僕らに聖書が与えられています。権威は聖書にあります。聖書に基づいているかでその人の発言が本当かどうかがわかります。ニセモノを見抜くためには僕ら自身が聖書そのものに触れ続ける必要があります。
もちろん緊張の直後でした。お腹も空いていました。喉も渇いていました。ヤロブアム王様と戦って祭壇が割れる奇跡まで起こして、もしかしたらこの王様に殺されるかもしれない緊張状態の後です。確かにお腹空いてたと思います。確かに喉渇いてたと思います。でも、神様に聞くことはしませんでした。
この預言者に本当の神様の言葉が、神の人への裁きのことばが与えられました
"彼は、ユダから来た神の人に呼びかけて言った。「主はこう言われる。『あなたは主のことばに背き、あなたの神、主が命じた命令を守らず、
引き返して、主があなたに、パンを食べてはならない、水も飲んではならないと言った場所でパンを食べ、水を飲んだので、あなたの亡骸は、あなたの先祖の墓には入らない。』」"
列王記 第一 13章21~22節
あなたは死ぬということです。そして先祖の墓に入れないことはユダヤ人にとってすごく不名誉なことです。祝福を失ったその象徴的な裁きの言葉です。
あなたは死ぬ、裁きを受ける、祝福が取り去られた、と言う神様の言葉を聞いたときにこの神の人はどうするべきだと思いますか?
私は罪を犯しました。神様ごめんなさい、って認めるべき場面です。罪を告白して悔い改めの祈りをするべき場面です。でも、彼は悔い改めの祈りはなく、普通に飲食をした後でロバに乗って帰り始めるんです
。食べて、飲んだ後に帰り支度を始めたようです。神様にひれふしたとも、神様に祈ったとも、そこで食べるのをやめたとも書いてないんです。
"彼はパンを食べ、水を飲んだ後、彼が連れ帰った預言者のために、ろばに鞍を置いた。
その人が出て行くと、獅子が道でその人に会い、その人を殺した。死体は道に放り出され、ろばは、そのそばに立っていた。獅子も死体のそばに立っていた。"
列王記 第一 13章23~24節
この人は、神様に従ってないことを認めなかったようです。
この後すぐに彼はライオンに殺されてしまいます。このライオンは神様の裁きです。不思議なことにそのライオンはロバを傷つけることもなく、他の人を傷つけることもありませんでした。まさにピンポイントで神の裁きとしてその神の人はライオンに殺されました。
しかもその人だけが殺されて、まるで飼い慣らされた犬のように、ライオンはそこにいたと書いてあります
命をかけて王様に警告を与えた神の人でさえ、最後まで従うことはできずに裁かれました。
完璧な人なんていません。どんなに用いられた神の人でも疲れます。弱くなります。
彼はだまされました。この人、少し前に命がけで王様に警告した人です。彼でさえ、弱い時に誘惑に負けるんだったら、私たちはみんなムリです。神様に裁かれるものです
信仰を守るのは、自分の力では無理です。弱いんです。
だからイエス様の救いが必要です。いつも神様に聞くことです。
自己保身のためでなく、神様の御心をいつも求めることです。
神様の言葉は絶対です。この話の文脈はソロモンが多くの女性たちによって偶像礼拝を取り込んでいったことによって国が堕落し分裂し崩れ去っていく途中にあります。勇敢に王様に警告した預言者でさえも、神様の言葉に従いきることができませんでした。
まして、私たちは神様の言葉に従いきることなんてできない弱いものです。
神様、まあまあやってるからいいでしょう、と言いたいところです。でも、神様の言葉は絶対です。聖なる聖なる聖なる言葉です。
この神様の基準に従わない人は裁かれます。これが私たちが救いが必要な理由です。正しい人は1人もいません。こんなに命がけの預言者でさえ神に裁かれるなら、僕らはなおさらです。
彼はライオンに殺されました。これは神の裁きを表しています。だったら私たちはアウトです。全員アウトです。
誰が救ってくれるんでしょうか?従い切れない神様の裁きを誰が受けてくれるんでしょうか。僕らもライオンに食べられるのでしょうか。
神の裁きを受けてくださったのは、僕ではなくイエス様です。神の裁きを受けて、血だらけになって呪いを受けて下さったのはイエス様です。
めぐみさんがいい人だったから、救われたのではないです。ただイエス様がめぐみさんの代わりにその裁きを受けてくださったからです。それが福音です。救いです。私たちに力はないけど、救いはないけど、でもイエス様には救いがあります。
●BFPのスペシャルハイナイト、東京、名古屋、大阪の集会に参加しました。どの集会でもみんなで泣きました。あの人が悪いイスラエルが悪い、ガザが悪い、イランが悪い、ということでなく、この集会はまず自分から悔い改め、神様に立ち帰ろう、という集会でした。どの集会でも、議論したり批判するのでなく、まずは、まずは自分が神様に従ってなかった認め、主の心と一つになれるように祈りましょう、と呼びかけられました。まず、自分を手放し、明け渡し、神様に捧げる祈りをしましょう、そういう集会でした。イスラエルを批判したり、反対に盲目的にイスラエルが正しい、とするのではなくて、まずは私が明け渡したないこと、従っていないことを認めて祈りましょう。そして同じく、罪と怒りの連鎖の中にいる中東の全ての人たのため、日本のため、祈りましょうという集会でした。どの集会でも泣きました。
お願い事の祈りだけでなく、神さまに聞く祈り、神様がどう思っておられるか聞く祈りをしました。
500日以上人質としてトンネルの中に監禁されていて、2月に解放された人の証が紹介されました。
彼は、空気の薄いトンネルの中で、わずかばかりの食事が与えられて生き延びた人です。毎晩、神様に次のように祈ったそうです。
「神様、気分はどうですか?今日はどんな1日でしたか?何か問題がありますか?」
彼はいつも、神様の気持ち、神様にとってどんな1日か、神様にとってどう思ってるか?聞く祈りをしたそうです。そして次に、この食事ありがとうございます。生かされていること、空気があること、ありがとうございます。家族を守ってください。いつか、解放されてみんなと会えますように。と祈りつづけたそうです。
試練は神様からの愛の警告です。
私たち試練を通して苦しみを通して、悔い改めのチャンスがあたえられています。イエス様の十字架による赦しを体験するチャンスが与えられています。
全ての人は失敗します。それでもイエス様は十字架によってあなたの罪はゆるされたって言い続けてくださっています。だから私たちは暗闇に留まることなく、何度も悔い改めて神様の心に戻ることができます。何度失敗しても戻ることができるのはイエス様が血だらけになってあなたの罪がゆるされたって言ってくれてるからです。
感謝しましょう。
神様のことばに戻りましょう。自分の思いでなく、神様の心を求めましょう。
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