1列王16.21-26
どうしてあの人を嫌うのか、派閥で争うのか、その原因はイエス様以上に自分の考えが正しく大事だと思うからです。僕らは自分の考えとイエス様に明け渡すことのせめぎ合いの中にいます。赦し愛さなければ、という思いと、あいつが悪い、という思いの葛藤です。葛藤するならマシだけど、神様を完全に忘れるなら、争いと憎しみの一択です。本当は神様に愛され一つとなり祝福されるはずのイスラエルが南北に分断しました。さらに、北イスラエルの中でも分裂が起きました。
"当時、イスラエルの民は二派に分裂していた。民の半分はギナテの子ティブニに従って彼を王にしようとし、もう半分はオムリに従った。
列王記 第一 16章21節
神様を離れたイスラエルでは単純に力の強い人が勝ち、王となります。…ですが、そこに神様の祝福はありません。
オムリに従った民は、ギナテの子ティブニに従った民より強かったので、ティブニが死ぬとオムリが王となった。"
列王記 第一 16章22節
王様になったオムリは、神様の怒りを引き起こす人でした。神様の怒りを引き起こす有害な王です。
"オムリは主の目に悪であることを行い、彼以前のだれよりも悪いことをした。
彼はネバテの子ヤロブアムのすべての道に歩み、イスラエルに罪を犯させ、彼らの空しい神々によってイスラエルの神、主の怒りを引き起こした。"
列王記 第一 16章25~26節
分裂と争いの理由は神様を愛さず、神様に自分を明け渡さないからです。教会の中にさえ分裂、分派があります。教会の歴史は分裂の歴史でもあります。それは神様より伝統や作法、解釈の違いなど、自分の考えを第一にするからです。聖書はそれを「肉のわざ」と言います。
"肉のわざは明らかです。…敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
ねたみ、…そういった類のものです。
ガラテヤ人への手紙 5章19~21節
敵のために命さえ捨てて愛し、赦し、祈ってくださるイエス様とは真逆です。イエス様よりも自分の正しさや考えを上にしてガンコに主張していないかどうか、自分に聞いてみましょう。
僕らは自分のものではありません。すでにイエス様のものです。自分にこだわるわたしはキリストと共に死に、葬られました。(ローマ6.6-8)自分は死んだ人だと思ってイエス様に従うときに不思議と和解や愛や一致が現れます。「主が人の行いを喜ぶとき、敵さえもその人と和らがせる。」とある通りです。(箴言16.7)それはイエス様が僕らの中に住んで生きておられることがハッキリしてくるからです。それがイエス様の願いです。
"父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。"
ヨハネの福音書 17章21節
一致は僕らが自分のものでなく、この世のものでもなくなったことのしるしです。僕らは神様のものです。そして、僕らが一致することによってこの世の人たちは本当に神様が存在すること、神様が僕らを愛していることを知ります。逆に、分裂させようとする人たちは警戒すべきです。「分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。」(ローマ16章17~18節)
今日も自分を捨てる祈りをしましょう。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」と祈りましょう。(マタイ6.10)自分の義を主張するのは誘惑です。まるで「空しい神々」のようです。(26)その先は分裂と争いです。今日も自分を捨てて、イエス様に満たされましょう。そこに一致があり、そこに主の栄光が現れます。ハレルヤ!
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