2025年8月20日水曜日

伝道者7.1-6「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい」礼拝メッセージ

 伝道者7.1-6 「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい」礼拝メッセージ


今日は先に天に召された人の記念礼拝です。

私たちもいつか必ず人生を終えます。この世はひとときだけ滞在する場所であって、本当の家は天にあることをもう一度確認する日です。


だから聖書は言います。


"祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。"

伝道者の書 7章2節


誰かの死に触れた時、人は「自分もいつか死ぬ」という現実に向き合います。 そこから「じゃあ、自分の生き方はこれでいいのか?」「今、大事にしてるものって本当に価値あるのか?」って問いが生まれる。

死に触れることは、神様の前で「どう生きるべきか」を真剣に考えるきっかけになるんです。


だから、死を意識する家に行く方が良い。宴会で楽しみにふけるよりも、ちゃんと終わりを意識する方が良い。と書かれています。

人は、一度死んで、死後には神様の裁きを受けるとあります。


ヘブル 9:27 人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている


僕も何度も死に立ち会って、いろんなお葬式をしました。振り返ってみて、やはり1番衝撃的だったのは3つ下の弟の死です。30代の若さで死にました。なぜその弟の死が衝撃的であったか。それは僕が高校の時から、彼とあまり話さなかった、関心がなく、関わらなかったです。お互いに避けて口も聞かない時期もありました。交通事故で危篤になったときに、このまま死んでもらっては困ると思いました。まだちゃんと謝ってないし、まだちゃんと和解してない。たった1人の弟なのに、神様が与えてくれた。家族なのにまだちゃんと愛してない。このまま終わって良いのか、神様の前になんて言い訳すればいいのか、いや言い訳なんてできないと思いました。だから必死で祈りました。神様、弟を癒してください。助けてください。そして和解させてくださいって祈りました。


宴会の家に行くより喪中の家に行く方が良い。そこにはすべての人の終わりがあるからだ。

今ごまかしてること後回しにしてること、見ないようにしてること。

それが全部明るみに出る日が来るから、しかもそれはすべての人がいつか向き合う日だから、だからお葬式の家に行く方が良いと聖書は言います。


弟の死の話ですが、

神様は憐れみ深くて祈りを聞いてくださいました。弟はすぐには死なないで1ヵ月意識不明で延命しました。僕は旭川の病院の集中治療室に通いました。意識不明の弟のところのところに行って謝りました。

何度も話しかけました。もっと遊びたかった。もっと兄弟として、たった1人の弟として、そして大事にしたかった。何度もそのことを耳元で伝え、謝りました。

そしてイエス様が許してくださること、そして天国があることを話をしました。弟は目も開かなかったし、もちろんしゃべれなかったけど、でもある日、弟の目から涙が浮かんでいました。彼が死んだ日、僕の心にははっきりと、彼が今まで見たことがないほど喜んでイエス様に迎えられている映像のようなイメージのようなものが与えられました。


すべての人に終わりが来ます。そしてすべての人が神様の前に立ちます

この地上で何を優先してきたか問われます。本当にそれは永遠の天の国で喜ばれることだったのか、それが問われます。


"名声は良い香油にまさり、死ぬ日は生まれる日にまさる。"

伝道者の書 7章1節


名声は嬉しいです。人から褒められることを評価されること嬉しいですね。そしてもっと大事なことは神様にから評価されること。人に見られなくても、誰にも認められなくても、見ていてくださった神様によくやった、と言われること。

それはどんな良い香油にまさる、とあります。香油は聖書の時代の貴重な宝物でした。

今風に言うなら、どんな銀行残高よりも、神様の前に喜ばれることがまさっている、と言うことです。


そして、意外なことが書いてあるのは後半です。

「死ぬ日は生まれる日にまさる。」です。普通は

赤ちゃんが生まれるとみんな喜びます。嬉しいからです。

でも聖書は生まれた日、みんなが喜んだあの日よりも死ぬ日が勝っていると言うんです。普通は誰かが死ぬと悲しみます。その意味は全体で、文脈で読むとわかります。神様に受け入れられる名声はどんな宝にまさっています。そして、死ぬ日は神様に受け入れられる日です。その方がまさっている、と言います。


イエス様はおっしゃいます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と断言します。(ヨハネ14.6)


なので、イエス様によって、イエス様を通して、僕らは天に迎えられます。

人生でたくさんの罪を犯した僕らだけども、イエス様はイエス様はそれを全部引き受けて、神様の呪いを怒りを、身代わりに受けてくださいました。


そして、あなたの罪は赦された、と言ってくださっています。今日もそうです。イエス様が赦してくださり、それで僕らは神様のもとに、天国に迎えられます。生まれる日は、嬉しいけど、これから大変な人生が始まる日でもあります。そして死ぬ日は、全ての汚れも苦しみも病気も悲しみも終えて、きよめられ、赦され、完全にされて受け入れられる日です。その方がまさっています。


僕も皆さんも人生でたくさん失敗したと思います。

愛すべき人は愛せなかったし、許す人は許せなかった。してはいけないことをしてしまったし、誰かを傷つけてきました。それでも、その裁きはイエス様が十字架の上で引き受け、父よ、彼らの罪を赦してください、と祈ってくださいました。今も天で祈ってくださっている、と書かれています。イエス様を通してだけ、僕らは神さまに受け入れられます。


赦された人として、死んで天に迎えられるのは、どんな財産よりもまさっています。地上に生まれて苦しみが始まった日よりもずっと勝っていると言うのです。


その日は僕らの体も心も新しく完全にきよくなる日です。


聖書は言います。1コリント15.40


40,また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、


42朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、

43,卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、

44,血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。



今日は午後から

武田繁松さんの納骨をします。おばあちゃんが入院してから、家に行くと決まって言いました。

「俺のせいなんだ。俺が悪かった」「俺がお山の大将だったんだ。ひどいことしたんだ。ごめんな」ってお母さんの写真を見ながら泣くんです。

僕はおじいちゃんのため息、自分の欠点を悲しんで悔い改めている姿を見ました。


そのように私たちはこの地上でこの弱い肉体、罪がまとわりついた性格の中でため息をつきながら、呻きながら、生きています。


でも、死んで神様に迎えられる日は完全に新しくされ、新しい体、栄光ある人に完璧に変えられます。


僕らはこの死ぬ日を目指して生きています。生まれる日よりもずっとずっと喜ばしい、神様に迎えられて死ぬ日です。この地上の人生はその準備です。そして地上ではやるべきことが神様から与えられています。


それは今から神様を愛し、人を愛することです。愛することは、赦される希望を周りに伝えることです。


この希望を知らない人は、この世だけの楽しみで満たされようとしてます。天の喜びを知らないから当たり前です。


人間はみんな欠乏感があります。何かが足りないんです。だから食べるものや飲むことや楽しいことやお酒や恋愛や結婚や仕事でうまくいくことやお金を貯めることや、そういう地上での達成感のあること、満足できることを求めて生きてるんです。でもsそれはみんな一時的ですぐにまた不安や不満が襲ってきます。本当に満たされることはありません。聖書は地上のものでは満足しないといいます。お金を愛する人はお金で満足できないようです。


"金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた空しい。"

伝道者の書 5章10節


これを書いたソロモンという王様は最高の富と権力を手にして、神様以外で満足しようとあらゆることを試したといいます。しかし、すべての虚しかったといいます。


"私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんと空しいことか。

笑いか。私は言う。それは狂気だ。快楽か。それがいったい何だろう。

私は心の中で考えた。私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけよう。(…中略…)

私は自分の事業を拡張し、自分のために邸宅を建て、いくつものぶどう畑を設け、

いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。

木の茂った森を潤すためにいくつもの池も造った。

私は男女の奴隷を得、家で生まれた奴隷も何人もいた。私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、多くの牛や羊を所有していた。

私はまた、自分のために銀や金、それに王たちの宝や諸州の宝も集めた。男女の歌い手を得、人の子らの快楽である、多くの側女を手に入れた。

こうして私は偉大な者となった。私より前にエルサレムにいただれよりも。しかも、私の知恵は私のうちにとどまった。

自分の目の欲するものは何も拒まず、心の赴くままに、あらゆることを楽しんだ(…中略…)

実に私の心はどんな労苦も楽しんだ。これが、あらゆる労苦から受ける私の分であった。

しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。"

伝道者の書 2章1~11節


お金がダメだとか、楽しいイベントとかお笑いがダメと言うことでは無いけども、でも、神様との関係が切れたままの笑いは虚しくまるで鍋の下の薪が大きな音でパチパチ言って派手だけど、すぐに消えていくむなしいものだといいます。


"愚かな者の笑いは、鍋の下の茨がはじける音のよう。これもまた空しい。"

伝道者の書 7章6節


逆に、神様が与えてくださる天の喜びを信じている人から叱られる事は、どんな音楽よりも価値があるといます


"知恵のある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。"

伝道者の書 7章5節


神様は私たちを愛し訓練するために、わざわざうまくいかないこと、壁にぶち当たることを用意してくださっています。その時に自分の力のなさ、愛のなさ貧しさを知って神様を求めるからです。パーティーで満足している時には神様のことがわからなかったのに、苦しみや悲しみを通らされる時、イエス様の十字架の苦しみと愛を知ります。


"悲しみは笑いにまさる。顔が曇ると心は良くなる。"

伝道者の書 7章3節


だから笑よりも悲しみが良いと言うのです。自分の愚かさとか、失敗とか、罪深さとか、愛のなさにちゃんと目を向けることです。自分の失敗とか罪悪感は悲しいけど、でも、それはイエス様が引き受け、十字架でイエス様が裁かれ、殺され、僕らが受け入れられる、そのめぐみと愛を教えてくれます。

自分の罪が大きいほど、イエス様の愛と赦しも大きいです。自分の後悔の数が多い人ほど、赦してもらい愛してもらった数が多い人です。だから、失敗して顔が曇ると、またイエス様の十字架の愛を知ります。その時に、心が良くなる、と書かれています。


"悲しみは笑いにまさる。顔が曇ると心は良くなる。"

伝道者の書 7章3節


なぜか?すぐに消えてしまうパーティよりも自分のどうしようもない罪に向き合う時に、イエス様だけがこの罪を赦し、癒し、回復させてくださることを知り、この世に希望があるのでなくて、イエス様の赦しに希望があることがはっきりわかるからです。


イエス様は言います。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5.3)


自分には人を愛することもできなくて、自分には正しさもないこと、自分に足りなさを覚えていることその人は幸いだと言うんです。神様がその人に力を与え、愛を与え、回復を与えてくださるからです。地上に居ながらにして、天からの希望や愛や恵は注がれます。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5.3)


その人こそ祝福されているといいます。

悲しみを忘れたくて、まるで痛み止めを飲み続けるように、この世の満足や楽しみを求め続けるなら、それは本当の解決ではありません。


皆さんにとって、嫌だけど、今、ちゃんと向き合わなければならない自分の後悔や失敗や悲しみは何でしょうか本当はちゃんと苦しまなければならない、本当はちゃんと悲しまなければならないことはなんでしょう。


そこから逃げるための歌やエンタメは虚しい、いや、愚かだと聖書は言います。


"知恵のある者の心は喪中の家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。

知恵のある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。

愚かな者の笑いは、鍋の下の茨がはじける音のよう。これもまた空しい。"

伝道者の書 7章4~6節


神様からの喜びや癒しを知らずに、この地上で幸せをつかもうとして、満足しようと頑張っている人がほとんどです。


死んだ後のさばきとか、天国を知らない人にとっては、この世が全てです。なるべく楽しくなるべく充実しようとします。友達がいておいしいものがあって、パーティがあってこれこそが良い人生なのだと思います。神様を知らなければそう思います。


逆に、どんなイベントがあっても楽しいことがあってもなんとなく居場所がない。馴染めない人、違和感を感じる人、その人は、本当の居場所が地上ではなくて、神様のところにあることを感じている人です。僕らの国籍は天国にあります。


※大学生の頃、女子の友達が言ってました。今はいいけどシワが怖い。衰えるのが怖い。いいな。芸能人は最高の化粧品使ってお肌のメンテしていつもまでも綺麗でいられる芸能人はいいなぁ。ほんとに怖い。皮膚が下がっていくのが怖いと言っていました。この世での美しさとか栄光幸せを求めるなら怖いと思います。なぜなら100%の人が衰えていくからです。


僕らは消えていくものとか、腐っていくものとか、価値が下がっていくものとか、死んでいくものを追いかけるべきではなく、いつまでも変わることのないなくなることのない希望しかないもの。つまり神様の関係をこの希望を追い求めていくのが正解です。


"自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。

自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。"

マタイの福音書 6章19~20節


それでも神様はこの地上でも宝や楽しみや喜びを与えてくださいます。この地上仮住まいだけど、食べ物与え、着物を与え、音楽を与え、そして愛するべき家族友人を与えてくれます。それを楽しむのは良いことです。いずれすべてとお別れしていくけども消えていくけど、でも与えられているものを楽しみなさいと9章にあります。神様が与えてくださるプレゼントだからです


"あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。"

伝道者の書 9章9節


家族も食べ物も娯楽もあらゆるエンターテイメントも、神様から与えられたプレゼントとして感謝するときに良いものです。


同じものでも、それに依存し、天国に目を向けなくし、偶像化するならば警戒するべきものです。すべてのものは神様に感謝、神様の栄光、神様が与えてくれたものとして使うべきなんです。


おいしいもの、こんなに楽しい友達、家族をありがとう。こんなに素晴らしい音楽を与えてくれてありがとう、神様を誉めたたえて感謝するために楽しみが与えられています。


この世の楽しみは神様に感謝して賛美するべきツールにもなるし神様を忘れさせ引き離す誘惑にもなります。だからいつも、すべてのことを感謝しなさい。主にあって喜びなさい、と聖書は言います。


今日の聖書の箇所は

楽しみの家に行くより喪中の家の方が良い、です。


そこには全員が迎える終わりの日があるからです。

神様に喜ばれること神様によくやったと言われる事はどんな宝よりも良いと思います。



自分の人生のゴールをイメージしてみましょう。


1 自分の人生のゴールをイメージしてみましょう。みなさんのお葬式はどのようなものでしょうか。

今日の行動は死の日に神様の前で誇れるでしょうか?今、時間や力を費やしていることは永遠の価値を持つものでしょうか?


2 あなたが今与えられている苦しみは何でしょう。神様は苦しみを通して私たちが何を求めるようにしておられるでしょう。


悩み苦しむ事は神様を求める日です。自分の汚さや醜さや弱さを知らされることは、イエス様が十字架でその汚い罪、惨めな姿を全部引き受けてくださったことを教えてくれます。あなたの罪はイエス様が引き受け、もうきよめ、赦されています。あとは、それを信じ受け入れるだけです。


イエス様は僕らに仰ってることばです。


「友よ。あなたの罪は赦されました。」(ルカ5.20)


宴会で忘れるよりも、すべての人が死ぬことを意識して生きる事は良いことです。

与えられた人生の一瞬、一瞬を神様と共に歩み、神様に喜ばれる選択をすることです。


そして、この希望を周りの人に、闇の中にいる人に、本当の希望を求めている人に、全ての人に伝えることです。


神様はそのためにトラブルを、苦しみを通してくださいます。天国で価値のあることを選ぶための苦しみです。ごまかさないで天で喜ばれることを選ぶためにです。


自分の人生のゴールをイメージしていきましょう。今日の行動が死の日に神様の前に喜ばれるものでありますように。


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