伝道者の書1-2章
ただ疲れる一日と、疲れるけど魂の内側に喜びがある1日にはだいぶ違いがあります。それは神様を愛するために動いたか、それとも自分のためだけに動いたかの違いです。
自分のためだけに動くと疲れます。そして虚しさが残ります。でも神様のために働いた人は疲れても内側には霊的な喜びや充実感があります。
人間はみんな神様から離れてしまって、その虚しさを何かで埋めようとして動きます。一生懸命知識を得たり、スキルを磨いたりしますが、知識を増し加えるほどに悩みは増え、虚しさが増し、苛立ちも増えていきます。
"空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。"
伝道者の書 1章2~3節
"私は自分の心にこう言った。「今や、私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」
私は、知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうと心に決めた。それもまた、風を追うようなものであることを知った。
実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。"
伝道者の書 1章16~18節
僕らは満足したくて快楽や笑いを追求します。おいしいものを食べたり飲んだりするし、また人によっては仕事で満足を得ようとします。でも聖書はやっぱり虚しいといいます。
"私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんと空しいことか。
笑いか。私は言う。それは狂気だ。快楽か。それがいったい何だろう。
私は心の中で考えた。私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけよう。人の子がそのいのちの日数の間に天の下ですることについて、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていよう。
私は自分の事業を拡張し、自分のために邸宅を建て、いくつものぶどう畑を設け、
いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。
木の茂った森を潤すためにいくつもの池も造った。
私は男女の奴隷を得、家で生まれた奴隷も何人もいた。私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、多くの牛や羊を所有していた。
私はまた、自分のために銀や金、それに王たちの宝や諸州の宝も集めた。男女の歌い手を得、人の子らの快楽である、多くの側女を手に入れた。"
伝道者の書 2章1~8節
何かを達成した人であっても、神様を愛するためでないなら、結局は愚かな人と同じように死んで忘れ去られてしまいます。
"私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、なぜ、私は並外れて知恵ある者であったのか。」私は心の中で言った。「これもまた空しい」と。
事実、知恵のある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、一切は忘れられてしまう。なぜ、知恵のある者は愚かな者とともに死ぬのか。
私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだからだ。確かに、すべては空しく、風を追うようなものだ。"
伝道者の書 2章15~17節
聖書は心の奥底に喜びや満足がある生き方を教えています。それは神様を愛し神様のために生きることです。神様が愛している隣人を愛するために生きることです。その労苦は無駄にはならず、消えていく事はありません。永遠に神様に覚えられています。
"神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。"
ヘブル人への手紙 6章10節
神様を愛し、神様が愛する人たちのための苦労は天で喜ばれ、不思議とその喜びは天から僕らに注がれます。
"ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。"
コリント人への手紙 第一 15章58節
神様への愛、神様からの愛は永遠に消えません。そのために動いたことも永遠に価値のあることです。
"いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。"
コリント人への手紙 第一 13章13節
この愛の中で動いていなければ、どんなに良いことに見えてもムダです。注目されたり、人からよく思われることはありますが、それでも役に立たずに忘れられて消えていく虚しい人生です。
"たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。
たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。"
コリント人への手紙 第一 13章1~3節
今日1日がただの疲労で終わるのか、体は疲れても魂に喜びと充実感があるのか、その違いは神様を愛するために動いたかどうか、そして、神様の愛で隣人のために動いたかどうかです。
自分のためだけに動くと疲れ、虚しさだけが残ります。でも神様のために働いた人は疲れても内側には霊的な喜びや充実感があります。
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