2025年10月30日木曜日

エレミヤ29.1-14

 エレミヤ29.1-14


気に入らない場所、気に入らない人たち、思った通りじゃなかった生活、好きになれない環境(教会?)があります。イスラエル人にとって、故郷が破壊されバビロンに強制移住させられることは屈辱だし気に入らない極みです。ところが神様はおっしゃいます。「その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。」と。



"「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。

妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。

わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』"

エレミヤ書 29章4~7節



その場所に置かれたのは神様です。「わたしが(そこに)引いて行かせた」(4)とおっしゃいます。連れて行かれた場所で不満と文句を言い続けるのではなく、逆にその人たちの平安を祈りなさいとおっしゃいます。これは僕らに言われています。環境のせいにし、周りを批判するのが得意な僕らです。…ですが、イエス様の願いは逆です。気に入らない敵を、迫害する相手を愛し、赦し、善を行い、祝福することが神様の願いです。



"あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。

あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。"

ルカの福音書 6章27~28節



大事なことは環境がどうか、周りの人たちがどうかではありません。気に入るか、不愉快か、でもありません。その場所で神様を求め、心を尽くして神様に呼びかけ願うことです。イスラエル人たちはバビロンでの生活を通して偶像に頼るのをやめ、神様だけを求める人に変えられました。そのためのバビロン生活でした。そこは祝福に向かうために必要な通過点でです。神様のご計画は人の思いと違います。悪い環境の中で神様に祈り求めるとき、周りが変わるより先にまず自分が変えられます。その大事なプロセスを通過して最後には神様の祝福が完成されます。



"わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。

あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。

わたしはあなたがたに見出される──主のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──主のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』"

エレミヤ書 29章11~14節



今日も気に入らない場所、気に入らない人たち、思った通りじゃなかったことがあると思います。でも、そこは周りの人たちのため、起きた出来事のため、神様の平安を祈るために与えられたものです。神様を心から求めるために、神様に連れて行かれた多くはあなたにとって気に入らない場所でしょう。「神様、なぜですか?」「いつまでですか?」と言いなくなることもあると思います。でも神様は言われます。「それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(11)将来と希望が約束されています。そのために必要なのはちゃんとその場所で祈りつつ過ごすことです。大丈夫です。トンネルの向こうには必ず祝福と栄光が輝いています。ハレルヤ!

2025年10月29日水曜日

エレミヤ28章

 エレミヤ28章



僕らは真実よりも心地良い話を聞きたいものです。だから教会でも「人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。」と言われてます。(テモテへの手紙 第二 4章3~4節)そしてまた、牧師や指導者も真実よりも、みんなが気に入る話をしたい誘惑があります。もし、人に喜ばれるためだけに教えているなら、もうその人はキリストのしもべではありません。



"今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。"

ガラテヤ人への手紙 1章10節



本物の指導者は人々の賞賛や拍手ではなく真実を求めて語ります。でも、ニセ指導者も登場することは聖書が何度も警告していることです。



"また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。"

(使徒の働き 20章30節)



色んな面がありますが、以下の点である程度わかるかと思います。

●自分への賞賛を求めているのか、神様の栄光を求めているのか

●自分は一般よりも上の「霊的レベル」があるように振る舞うか

●自分の主張や力を伝えたいのか、神様の御言葉をそのまま忠実に伝えたいと思っているのか 

●自分を愛しているのか、神様と人を愛しているのか

●人々の罪を悲しみ祈っているか


「聞こえた」「示された」ということが自動的に神様からのみ言葉とは限りません。「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。」(1ヨハネ4.1)「預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。」(1コリント14.29)「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」(使徒17.11)とある通りです。


エレミヤは偽物の預言者ハナンヤと直面しました。彼は、ユダとエルサレムがバビロンに滅ぼされていく神様のご計画を否定し、人々が喜ぶような話をします。バビロンの支配は2年以内に終わり、奪われた神様の宮の道具も、人々もすぐに帰ってくる、と伝えます。人々は喜んだと思います。しかも、そのフェイク情報を「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。」と神様の名で語ります。(2)



"その同じ年、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の第五の月に、ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、主の宮で、祭司たちと民全体の前で、私に語って言った。

「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、バビロンの王のくびきを砕く。

二年のうちに、わたしは、バビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪い取ってバビロンに運んだ主の宮のすべての器をこの場所に戻す。

バビロンに行ったユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダのすべての捕囚の民も、わたしはこの場所に帰らせる──主のことば──。わたしがバビロンの王のくびきを砕くからだ。」"

エレミヤ書 28章1~4節



偽預言者ハナンヤはエレミヤに対して徹底抗戦の姿勢です。神様が作るようにおっしゃったエレミヤの首にある木のかせを人々の前で砕きます。これが砕かれたように、2年以内にバビロンの支配は終わる、とです。



"しかし預言者ハナンヤは、預言者エレミヤの首から例のかせを取り、それを砕いた。

そしてハナンヤは、民全体の前でこう言った。「主はこう言われる。このとおり、わたしは二年のうちに、バビロンの王ネブカドネツァルのくびきを、すべての国々の首から砕く。」そこで、預言者エレミヤは立ち去った。"

エレミヤ書 28章10~11節



彼の言葉はウソです。彼は預言者ではなく、人々にウソの平安と神様への反抗を与えようとした人でした。ハナンヤには神様の裁きが降り、彼は「今年、あなたは死ぬ。」と言われた通りに死んでしまいました。本物の神様のみことばは実現することば、神様のことばは歴史そのもの、現実そのものです。



"「行って、ハナンヤに次のように言え。『主はこう言われる。あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせを作ることになる。

まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは鉄のくびきをこれらすべての国の首にはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らは彼に仕える。野の生き物まで、わたしは彼に与えた。』」

そこで預言者エレミヤは、預言者ハナンヤに言った。「ハナンヤ、聞きなさい。主はあなたを遣わされていない。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。

それゆえ、主はこう言われる。見よ、わたしはあなたを地の面から追い出す。今年、あなたは死ぬ。主への反逆をそそのかしたからだ。」

預言者ハナンヤは、その年の第七の月に死んだ。"

エレミヤ書 28章13~17節



もう一つ、ニセ預言者を見分ける大切な要素として、人々の罪を悲しみ、祈っている人かどうか、があります。本物の預言者は、周りの罪は自分ごとです。もし彼らが預言者であるなら、その人は人々の罪を認めて神様に祈り、願います。「もし彼らに主のことばがあるなら、彼らは、主の宮、ユダの王の宮殿、またエルサレムに残されている器がバビロンに持って行かれないよう、万軍の主にとりなしをするはずだ。」(17章18節)


人を愛し、神様を愛することは祈ることです。神様の裁きが取り消され、赦され、憐れんでいただけるように、祈ることです。イエス様こそ本物の預言者です。罪のないイエス様が、まるで自分のことのように人々の罪のために祈り、求め、とりなしてくださいました。


ニセ預言者ハナンヤには祈りも愛もなかったようです。ただ自分の栄光、自分が賞賛されることだけを求めていたようです。このように、本物かどうかはその行動、生活、実によってわかります。



"こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。

わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。"

マタイの福音書 7章20~21節



自分ではなく神様を求めましょう。人からの賞賛でなく、神様の真実を求めて祈りましょう。僕らが神様だけを指し示し、誠実に人々にみことばを伝える人になれますように。愛して祈る人になれますように。教会の指導者が自分の意見とか主張は捨てて、神様の栄光とそのみことばだけを伝えることができますように。御霊の祈りに合わせて、人々の罪を悲しみ、一緒に祈るものとされますように。

2025年10月28日火曜日

エレミヤ27章

 エレミヤ27章


自分がやってしまった罪の結果、神様からの苦しみを受けることがあります。そんな時は神様がなさることに従う必要があります。神様は罪を犯し続けたエルサレムとユダの人々に、バビロンの国に従い首を差し出すようにおっしゃいます。偶像礼拝の国バビロンさえも神様の権威の中で用いられる神様のしもべです。



"主は私にこう言われた。「あなたは縄とかせを作り、それをあなたの首に付けよ。

そうして、エルサレムのユダの王ゼデキヤのところに来る使者たちによって、エドムの王、モアブの王、アンモン人の王、ツロの王、シドンの王に伝言を送り、

彼らがそれぞれの主君に次のことを言うように命じよ。『イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたは主君にこう言え。

わたしは、大いなる力と伸ばした腕をもって、地と、地の面にいる人と獣を造った。わたしは、わたしの目にかなった者に、この地を与える。

今わたしは、これらすべての地域をわたしのしもべ、バビロンの王ネブカドネツァルの手に与え、野の生き物も彼に与えて彼に仕えさせる。

彼の地に時が来るまで、すべての国は、彼とその子と、その子の子に仕える。しかしその後で、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にする。

バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない国や王国があれば、わたしは剣と飢饉と疫病をもってその民を罰し──主のことば──彼の手で彼らを皆殺しにする。"

エレミヤ書 27章2~8節



僕らはすぐに善悪の判断をしたがり、あれは、神様からの権威、これは悪魔から、とラベリングをしたがりますが、聖書は全てが神様の権威だと言います。ます。神様はバビロンのネブカドネザル王に仕えなさいと言います。ネブカドネザルもバビロンも悪い国です。それでも神様の権威の下です。全ては神様の御手の中にあります。



"人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。

したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。"

ローマ人への手紙 13章1~2節




バビロンはユダとエルサレムを訓練してきよめるために用いられる道具です。必ず脱出の道が用意されています。神様の時が来たらバビロンは滅びます。バビロンは滅ぼされ、「多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にする」(7)と神様はおっしゃいます。この世の権威は一時的です。

すべての出来事は神様の御手の中にあります。神様から与えられた試練に、僕らはへりくだり従う必要があります。もしも訓練や懲らしめに従わず受け入れないなら、ただただ頑固で頭の固い人になっていくだけです



"ユダの王ゼデキヤにも、私はこのことばのとおりに言った。「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。

なぜ、あなたとあなたの民は、主がバビロンの王に仕えない国に向かって語られたように、剣と飢饉と疫病で死のうとするのか。"

エレミヤ書 27章12~13節



悪いことが起きたとき、イヤな相手と出会った時、それでも神様を信頼して委ねましょう。頑固になって、あれがイヤ、これがイヤだとは言わず、へりくだりましょう。全ての出来事が神様の御手の中にあり、全てを用いて僕らを成長させてくださいます。神様は必ず脱出を与えてくださいます。


"あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。"

コリント人への手紙 第一 10章13節

2025年10月27日月曜日

エレミヤ25-26.19

 エレミヤ25-26.19


神様の愛は伝えたいけど、神様の怒りや裁きがあることは、なんかちょっと脅しのようで、みんなに伝えるのを躊躇しちゃいます。

でも、聖書がこんなにもはっきりと裁きを伝えるのは、同時に救いの道も用意されているし、すべての人が本当のことを知って救われて欲しいと願う神様の愛と願いだなって思います。神様は全人類に裁きを下すとハッキリおっしゃっています。



"まことにイスラエルの神、主は、私にこう言われた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。

彼らは飲んで、ふらつき、狂ったようになる。わたしが彼らの間に送る剣のゆえである。」"

エレミヤ書 25章15~16節



"見よ。わたしの名がつけられているこの都に対して、わたしはわざわいを下し始めているからだ。あなたがたは罰を免れようとするのか。免れることはできない。わたしがこの地の全住民の上に、剣を呼び寄せているからだ──万軍の主のことば。』

あなたは彼らにこのすべてのことばを預言して言え。『主は高い所からほえ、聖なる御住まいから声をあげられる。その牧場に向かって猛々しくほえ、ぶどう踏みをする者のように、地の全住民に向かって叫び声をあげられる。

その叫び声は地の果てまでも響き渡る。主が諸国の民と争い、すべての肉なる者をさばき、悪者どもを剣に渡されるからだ。──主のことば──

万軍の主はこう言われる。見よ。わざわいが国から国へと移り行き、大いなる暴風が地の果てから起こる。

その日、主に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、彼らは悼み悲しまれることなく、集められることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。』」"

エレミヤ書 25章29~33節



そんな悲惨な将来に希望が与えられました。それがイエス様です。この怒りと裁きは、イエス様が引き受けてくださいました



"この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」"

使徒の働き 4章12節



神様の怒りと裁きを伝えるのは、僕らが裁きにあわない道を選んで欲しいからです。神様はエレミヤに悔い改めるようにと伝えさせます。ちゃんと神様の怒りと裁きを語り、そして、悔い改めが必要なことも「残らず語れ。一言も省くな。」とです。



(26.2-3)

主はこう言われた。「主の宮の庭に立ち、主の宮に礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。一言も省くな。

彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすればわたしは、彼らの悪い行いのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直す。



神様の願いは罪人が殺されることでなく、彼らが立ち返って生きることです。



"彼らにこう言え。『わたしは生きている──神である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』"

エゼキエル書 33章11節



神様は罪を怒り嫌っています。でも同時に罪がある人間を愛し、何とか救いたいと手を伸ばしておられます。



(26.12-13)

エレミヤは、すべての首長と民に告げた。「主が、この神殿とこの都に対して、あなたがたの聞いたすべてのことばを預言するよう、私を遣わされたのです。

さあ今、あなたがたの生き方と行いを改め、あなたがたの神、主の御声に聞き従いなさい。そうすれば、主も、あなたがたに語ったわざわいを思い直されます。



神の怒りを伝えないで「そのままでいいよ。大丈夫」というのは残酷です。

神様の愛と救いの方法は僕らがちゃんと裁きと救いを両方伝えることです。神様の願いの通り、すべての人が救われるために、躊躇せず、愛して、省略しないで伝えることができますように。僕らが用いられますように。



"神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。"

テモテへの手紙 第一 2章4節

2025年10月26日日曜日

エレミヤ24章メッセージ「祝福のための通過点」

 エレミヤ24章メッセージ「祝福のための通過点」


あなたが犯した罪のせいで、不幸になっている、神様から見放されている、と感じることはありますか?後悔していることはありますか?あの時の選択が間違って今こんな状況になってしまった、残念に思っている人がもしいらっしゃるなら、今日のメッセージはそんな人に対する神様からの希望のメッセージです。


●悲惨な状況こそが良い実を産む


今日の箇所を書いた人はエレミヤという預言者です。エルサレムに住んでいますが、エルサレムがバビロンという国に滅ぼされ、王国全体が失われ捕虜として連れていかれる時代。

その時に言われたのが今日の箇所です。


どんな様子だったか詳しくは2列王記に書かれています。


"バビロンの王は、主の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、主の神殿の中にあるイスラエルの王ソロモンが作ったすべての金の用具を切り裂いた。主が告げられたとおりであった。"

列王記 第二 24章13節


神様は最初から何度もバビロンの攻撃を警告していました。

あなた方がわたしを裏切り、偶像礼拝をやめないなら、あなた方は敵に攻撃され全てを失う。あなたがは国を失い、敵に捕まって敵の国に捕虜になって連れていかれる、と。それは本当になりました。酷い目に遭うのは何度も罪を犯し、神様を軽く見て、裏切り続けたからです。この状況は彼らの罪の結果です。

人は罪という種を撒けば神の怒り、滅びという刈り取りをします。


(ガラテヤ 6:7-8)

神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。


最悪の状況に陥ったユダヤ人たちに神様は言われます。


(1節後半-2節)

主は私にこのように示された。見よ、主の神殿の前に、二かごのいちじくが置かれていた。

一つのかごにあるのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごにあるのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものであった。


皆さんイメージしてください。

片方は腐っていて、臭ったと思います。

エレミヤは、この人々、神様を裏切ってきたこの国が腐って食べられないいちじく、って言われるんだろうな、という場面です。

ところが、神様は耳を疑うようなことを言われます。


(3-5)

そのとき、主が私に、「エレミヤ、あなたは何を見ているのか」と言われたので、私は言った。「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いほうは非常に悪く、悪くて食べられないものです。」

すると、私に次のような主のことばがあった。

「イスラエルの神、主はこう言う。わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。


え?と聞き返したくなる場面です。神様は今間違えておっしゃいました?この腐ったイチジクはユダとエルサレムじゃないんですか?今、良いいちじくって言いましたよね?良い方ですか?捨てられんじゃなかったのですか?!


神様は続けて言われます。


(6-7)

わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。

わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。


腐って当然のような最悪な人々のことを、

2「非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のよう」5「この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。


どういうことなのか?神様に捨てられてこの悲惨な侵略と破壊が起こったのではなかったですか?

このことはエレミヤ29章10-11節にもう少し詳しく書かれています


(29章10-11節)

まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。

わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。


確かに罪を犯したその刈り取りとして、神様の怒りを受け裁かれ、捨てられました。神様のご計画は「それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」と言われます。滅ぼして終わりではなく、非常に良いものに回復するための計画、将来の希望のための計画だとおっしゃいます。


神様は愛するものにちゃんと向き合って、ちゃんと必要な懲らしめ、苦しみを通されて、余計な不純物は取り去られます。これが神様のメッセージです。、全てを失う彼らこそ、どん底を体験することこそ、非常に良いイチジクになるための途中経過です


今までは偶像に頼り、自分に頼り、誇り、欲望のままに生きていました。でも、強制的に全てを失いました。それは、彼らをもう一度回復されるためです。


神様ははっきり言われます。


(7節)

わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。


この試練によって、「彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。」と言われます。心の全部が変えられるためのどん底です。


●十字架のイエス様の死と復活を示すため


イエス様は十字架で苦しみを受け、神様の裁きを受けて、苦しんで殺されました。そして、聖書はあの十字架の苦しみは罪のための罰であり、神の怒りだったといます。


(イザヤ53章3-5節)

3,彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。

4,まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。

5,しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。


あの十字架は僕らの罪の結果です。


(1ペテロ2章24節)

キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。


そして、その後、復活されました。神様の怒りを引き受けて苦しみ、殺されました。でも、その後復活し、今も生きておられます。イエス様を信じる人、受け入れてイエス様とつながった人、とは、イエス様と一緒に神の呪いと怒りを受けたとみなされ、一度死んだとみなされて、復活した人です。


※バプテスマとは

今日中田智大さんのバプテスマがあります。彼はイエス様と一緒に神様の怒りを受けて、一度死んだ人とみなされます。


水に浸されることは、罪人の中田さんがイエス様と一緒に一度死んだことを表します。

そして、水から上がることは、イエス様と一緒に復活して、新しい人生が始まることを表します。

中田さんの全てが、心の全てが変わることを表すのがバプテスマです。


(7節)

わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。


ユダとエルサレムの人たちが神様の怒りを受けて、一度全てを失うのは、そこを通って心の全てが変えられ、神様に立ち返るからです。


教会は道徳を教えるところではないです。頑張っていい人になりましょう。ああしましょう、こうしましょう、が中心ではなくイエス様と一緒に十字架で死に、赦され、変えられ、イエス様によって新しく変えられることが中心です。


僕らはイエス様を信じた時、イエス様とつながりました。キリストと一緒に一度死んで、今は復活してキリストと一緒に新しく生きています。


同じようにイスラエルは神様の怒りを受け、神様の罰を受けて国を失います。でもその後に復活します。

イスラエルの滅びと復活はイエス様を表しています。


最悪の苦しみを通ることが、新しく変えられるための通過点とされるのです。


(5-7節)

5,「イスラエルの神、主はこう言う。わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。

6,わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。

7,わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。


●私たちへの適用


悪魔は悪い想像を心に入れてきます。そして僕ら自身も神様の希望のことばよりも想像する恐怖を繰り返し反芻しがちです。自分の過去の失敗や恥を思い出しては落ち込みます。

悪魔はあなたは絶対回復しない。あんたは捨てられた。あなたの人生終わった あなたは不幸になる。とささやきます。


しかし聖書はそう言ってません。確かに罪の結果、人は恥ずかしくなり、苦しみます。でも、それは通過点であって、イあの十字架に向かい、悔い改めの祈りをしてきよめられるための通過点です。

これが神様のメッセージです。、全てを失う時こそ、全てを失う彼らこそ、非常に美しい良いイチジクとなります。


悪魔のささやきではなくて、イエス様の御言葉によって状況を判断することが大事です。ああすべき、こうすべき、とか、ああすればよかった、こうすればよかった、という後悔ではなく、十字架によって赦され、イエス様と一緒に復活する、福音に立つのが正解です。みんな罪があります。みんな恥があります。それで苦しみます。だからこそ、自分の妄想でも悪魔のささやきでなく、自分の計画や計算でもなく、福音の言葉をいつも聞く必要があります。


心貧しい人は幸いです。心砕かれた魂は幸いです。

最悪の状況によってあなたの人生が終わるのではありません。

彼らは、孤独だ。見放されたと感じています。でも、神様はそう言っていません。


(5節)

「ユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。」


彼らは終わってないし、この災いは祝福のためのスタートです。


※平安とは


平和とか平安と言うのは問題がないと言うことではありません。問題の中にあって、神様の御言葉を聞きながら希望を持って進むことです。神様は私たちを苦しみに合わせないようにする方ではなくて、苦しみの中であなたを守ってくださるお方です。

神の怒りはイエス様に注がれました。僕らに注がれたのではありません。皆さんの苦しみは罰でも呪いでもなくて、神さまの愛の訓練です。心の全てを持って立ち帰るための通過点です。


そのためには快適な場所から引き離されることがあります。

彼らの場合は70年も懲らしめられ、それによって生活全部を心全部を悔い改めて変えられました。


皆さんが今連れていかれている苦しみの場所はどこでしょう。

人間関係が壊れてしまうとか、経済生活が破綻するとか、健康を失うとか。

それでも、悪いことに見えても、あなたにとって必要な通過点だと見ています。


苦しみを通して、お金に頼っていた、自分の力に頼っていた、この世の楽しみで満たされようとしていたなど、余計なものが取り去られて神様だけに献身するように変えられます。神様のみことばを聞いて、信頼して生きるものと変えられていきます。

取り去られることは悪いことではなくて良いことです。

神様は、あなたの人生に良いことをなさる方です。試練を通らないとわからないことがたくさんありあす。


6節では「わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。」とあります。


外国に連れて行かれたけど、孤独と不安だったけど神様の眼差しから離れている時は一瞬もありません。

今日も神様はあなたを愛のまなざしで見守っています。神様が無関心でいるのではありません。

彼らはこの苦しみをと通して、神様とより近くなって彼らは成熟する人たちとなります。


ヤコブの手紙は言います。


"私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。

あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。"

ヤコブの手紙 1章2~4節


私たちは苦しみを通して成熟します。

神様は見捨てる方ではありません。

僕たちの悪い状況は罰ではありません。もっと良い計画のために用意されているものです。


エゼキエル書 11章18~20節

"彼らがそこに来るとき、すべての忌まわしいもの、すべての忌み嫌うべきものをそこから取り除く。

わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。

こうして、彼らはわたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行う。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。"


あなたの苦しみは祝福のための通過点です。自分を捨てて新しくされるためです。


考えてみましょう

あなたに与えられている苦しみは何ですか?

苦しみを通して今後あなたが手放すこと、心が変えられることを具体的にあげて祈りましょう。