2025年10月12日日曜日

エレミヤ17章5-18メッセージ 誰を頼って生きてますか?

 エレミヤ17章5-18メッセージ

誰を頼って生きてますか?


●人に頼る人は呪われる


問題が起こるとみなさんは真っ先に何をするでしょうか。

最近は真っ先にAIに聞く、チャットGPTにどうしたらいいですか?って相談する人が増えているそうです。


ユダ王国とはもともと神様が作った国です。神様は彼らをわたしの愛する子どもたち、わたしの妻、わたしの宝といって、彼らを慕い求めています。神様が救い、神様が命、神様が力、全てであることを最初は知っていました。でも、だんだん神様を忘れて、神様に祈らず、求めなくなっていました。国家的な危険が迫ったときに、神様に助けを求めず、最初に偶像に求め、次に助けてくれそうなエジプトに心が向き、交渉をはじめます。そんな彼らに神様ははっきり言われます。


"主はこう言われる。「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。

そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。

エレミヤ書 17章5~6節


神様から離れたまま、人間の力でなんとかしようとする人はのろわれよ、と言われていて、彼らは干からびている、荒地の灌木のよう、根がなくて、枯れている木のようだ、と言います。神様から離れたままエジプトに頼っても、そこに救いはないし力もありません。


※画像 荒野の中で枯れている灌木


神様に相談せず、求めず、神様から心が離れたままで、人間や、人間の作った何かに頼る人は呪われよ、と聖書は言います。


仮に一時的にうまく行っても、霊的には枯れ果ててしまいます。


※この当時の状況


この時代エレミヤは悔い改めなさいとずっと言ってました。神様の裁きとしてバビロンが攻撃してくるから偶像を捨てて、神様に戻りなさい、というメッセージです。でも、

ユダとエルサレムの人たちは、まずは外交政策を考えます。エジプトの王様ファラオと交渉して多くのお金を差し出して一緒に戦ってもらえるようにします。人間に頼り、お金に頼り、軍事力に頼ります。神様のことを考えもしません。


そんな彼らに神様は「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。」幸せが訪れても出会うことはなく、」幸せにはなれない。とはっきり言います。神様から離れて外交努力で、人の知恵と力でなんとかしようとする人は呪われよ、とさえ宣言しています。

すごく強い表現です。


●人が頼りにならない理由


なぜ人に頼るのがそんなに愚かか?

その理由は9節です。人の心は曲がっているからです。


"人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。"

エレミヤ書 17章9節


神様から離れた人間の心は何よりも曲がっている、それが理由です。人を信じても、そもそも人の心が曲がっている、と言います。親切な人、いい人に頼っても、強そうな人に頼っても、その心は曲がっている、しかも、「何よりも」って強調してる。新改訳改訂第3版では、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と訳しています。


「ねじ曲がっている」という語を「陰険」と訳しました。


新改訳3版

人の心は何よりも陰険で、それは直らない。


新共同訳2018

心は何にも増して偽り、治ることもない。


「陰険」とは表面的にはよく見せても、裏では悪いことをする、という意味です。裏とオモテです。本音と建前が違いすぎて、ねじ曲がっている、といいます。そんな人間の心に頼るのは愚かだ、と言います。


9章8節その具体例があります。


9:8

彼らの舌はとがった矢。人を欺くことを言う。口先では友に向かって平和を語るが、心の中では待ち伏せを企む。


身近な人との関係でもそうです。

いいひとに見えても、一緒になってみたら大変だった、よくある話です。

この人と結婚したら幸せになれる、と思ったのに、一緒になってこんなだらしないところがあった、がっかりした、裏切られた、知らなかった、良くある話です。人の心は曲がっています。表面はよく見えても、その心には罪があります。聖書がそう言っています。


ローマ 3:10-13

「義人はいない。ひとりもいない。(…中略…)彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」


どんなに素晴らしい人に見えても、罪はあります。

みにくい部分、陰険な部分が、罪があります。神様がそう言っています。だから、神様を求めずに人に頼ろう、あの人についていこう、あの人がいれば幸せになれると思っても、その次はがっかりするだけです。しかも、神様は呪われよ、神様から心が離れた人は呪われよ、人を頼る人は呪われよ、強く宣言します


5節

"主はこう言われる。「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。

そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。


それでも僕らは人を信頼し、愛し、一緒に生きようとします。結婚は罪のある捻じ曲がったひと同士の結婚です。そのままでうまくいくはずがありません。教会の交わりも、会社の同僚や友人関係も、親子関係も同じです。それを上手に隠して、いいところだけ見せようとしても限界があります。


どうすればいいのでしょうか?

まずは、人間には罪があって人を救うことができない、人間は救いではない、とちゃんと認めることです。わきまえることです。


今日の聖書は僕らをガッカリさせるための箇所ではなく、祝福するための箇所です。


●神様に信頼しする人は祝福される


7-8節

主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。

その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。"


神様を信頼し、神様にいつもつながっている人は不思議です。日照りの日、作物が収穫できず収入が途絶えてしまうのに、心配しません。しかも、不思議と実を結びます。一体どうなってるのか?それは、自分の力に頼っていないし、他人の知恵にも頼ってないからです。ただ、神様だけを頼り、求め、信頼しています。


「その人は主を頼みとする。その人は、水のほとりに植えられた木。」


彼がより頼んでいるのは、人ではなく、神様です。神様は喜びの平安の水を与えてくれています。

人に信頼しているのではなくて、良いものを与えてくださる神様を信頼する人です。


人に頼り、人で満たされようとする人と、神様に頼り、神様に救われようとする人では結果が全然違います。


あなたは愛する子、あなたを喜ぶ、とおっしゃる神様を信じて歩む人には喜びがあります。苦しい状況のはずなのに、危険なはずなのに、その人は神様の言葉を信頼して歩んでいるから心配しません。

もしも、神様を悲しませるようなことをやってしまった後でも、あの十字架の上で、僕が隠していた罪全部、あなたの罪全部を引き受けて、二度と思い出さないと言ってくださっているイエス様です。このイエス様に信頼する人には平安と喜びがあります。


逆に、不幸なひととは、神様を無視して自分や周りのことだけを考える人です。そして人で癒されよう、人で救われよう、人で満たされようとする人です。

人に頼ると、自分の思い通りになればハッピー、そうでなければ怒りと悲しみ、といつも周りや状況に振り回され続け焦りと不安ばかりの歩みです。


悪魔もそれが効果的だと知っているので、イエス様に目を向けさせず、自分の欠点、そして他人の欠点、相手の悪さばかりに目を向けさせ、落ち込ませようとします。


祝福されるひととは、心が捻じ曲がっていることを知っています。だから他人の心に注目したり頼ったりするのではなく、イエス様に頼るひとです。


7節「主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。」

8節 その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。


外の環境が厳しくてもいつも神様の言葉を聞いています。神様からの言葉があります。あなたを愛し、喜び、赦し、受け入れてくださっている言葉を聞き続け、その愛の中で行きます。状況によらず信頼と安心で心が守られています。外側は苦しくても心の奥には神様と一緒にいてくださる安心と喜びがなくなることはありません。


お金持ちになって豪邸に住んでも、不安で孤独でイライラしてるなら意味がありません。

逆に牢屋にいても、神様い愛され、感謝して、安心して賛美している方がいい。


神様との交わりは内側から平安と喜びと愛を与えてくれます。まさにいのちの水の泉です。

外側は苦しくて、辛く悲しいことがあっても、心の奥から神様のみことばが聞こえてきます。あなたの罪は赦された、あなたは愛されている、あなたは喜びの子という言葉を聞き続けます


※グーグルのテレビの話


こないだ休みをもらったので、久しぶりにテレビを見てたら、企業の生産性、創造性、スピード、そして社員の満足度を決めるのは何か、というのをやってました。特にGoogleが社内の数百のチームを分析して、結果を出すチームとはどんなチームか研究したそうです。研究の結果、生産性とか良い結果を出すチームで大事なことは心理的な安全性だったそうです。安全性とは「自分の意見を言っても、バカにされたり、責められたりしない、安心できる状態。これが、企業に撮って一番良い結果を生む大切なことだ、という結論でした。

それを見て、これってイエス様の福音を聞き、その安心感の中にいる人じゃん、って思いました。


どんなに自分が悪くても、相手が悪くても、その醜さとか欠点を見るのではなくて、その罪への裁きを引き受けてくれたイエス様を見ている人には、安心があります。イエス様がすでにそれを清めた、と言ってくださるからです。

どちらが偉い、どちらが正しい、どちらが強い、誰のせいでこうなったのか、そんなことはイエス様の十字架の前では小さなことです。イエス様があなたの罪を二度と思い出さない、って言ってくださっているからです。


8節

その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。


だから、僕らは朝も昼も神様のいのちのみことば、めぐみのみことばを反芻して、いのちの泉のほとりにいる必要があるし、その人は祝福されます。


エレミヤは、詩篇1篇をいつも考えていたかもしれません。


詩篇1篇2-3節

主のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。

その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える。


昼も夜も神様の言葉、神様の教えを口ずさむ人は、その人は祝福されます。


祝福されたいですか?呪われたいですか?

当たり前です。祝福されたいに決まっています。主を信頼することは、まず、昼も夜も主の言葉、主の教えを聞くことです。信仰は、信頼は、聞くことから始まります。


●私たちへの適用


※神様以上に求め頼るものはありますか?


みなさんが求めているのは人ですか?それとも神様ですか?祝福や平安を誰に求めてるでしょうか。

罪のある私たちは心に穴が開いているようで、なんとなく虚しくて、寂しくて、それを埋めるために何かを求めているようです。神様に愛され、神様と交わる喜びと祝福を知らなければ、それに代わって何かで満足したいと思います。


ある人は、食べること、飲むことで手っ取り早く満足しようとします。

その人にとっては神様に求めるよりも、まずは食べること、飲むこと、です。人によってはアルコールや薬物を体に入れることで手っ取り早く満足しようとします。神様に頼るより、何か体に摂取するものを求める人もいるでしょう。実は僕もこの傾向あるなと思います。神様より先に濃いめのカフェイン系を求めてることがあります。みなさんはどうですか?でも求めるべきはまず神様との交わりです。コーヒがだめ、ということではなく、そこに神様への感謝や信頼があるかどうか、です。

治療薬がダメ、ということでなくて、薬を用いてくださる神様への信頼や感謝があるかどうかが問われています。癒しは神様のもの、力は神様のものです。


ある人は人で満足し人で安心しようとします。

いつも誰かと連絡を取りたいし、相手の反応で、嫌われたかも、と思って不安になったりします。

その人は神様に愛されていることを知らない人です。みなさんはどうでしょう。僕も、いつも妻に認められたい喜ばれたい、と思います。もちろんそれも神様から与えられた大事なプレゼントです。でも、その相手を与えてくだあったのは神様です。愛も喜びも平安も神様から与えられるものです。


ある人は活動や業績で承認されることで安心しようとします。誰かを助けたり、良いことをする自分に満足しようとします。何かをしているとか、誰かを助けている自分で評価を得ようとします。これも僕も心当たりがあります。みなさんはどうでしょう


どれも、神様より人に頼り、モノに頼り、行いに頼る人です。もしも神様から心が離れたまま、そのまま人間だけ頼り人間の力だけで乗り越えようとするなら、呪われよ、と今日神様がおっしゃいます。。


"主はこう言われる。「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。

そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。

エレミヤ書 17章5~6節


イエス様と出会ったサマリヤの女性は恋愛依存、性依存だったようです。愛されてる感覚を男性とのスキンシップで手に入れようとしていました。一人の関係が終わると、すぐに次を探します。いつも誰かがそばにいてくれないとダメだったみたいです。その人は5人と離婚し、今6人目と同棲しています。

イエス様は彼女に言われました。


ヨハネ 4:13-14

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」


イエス様だけがどんな時にも尽きない泉です。

みなさんにとって、神様よりも、この人なら助けてくれる、という人はいますか?

神様よりも自分の判断でいける、自分の力で大丈夫って思うことはありますか?

神様は僕らの心を探ります。


10節

わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。


神様が探っておられるのは僕らの心が何を頼っているか、何を求めているか、です。


たまに、御言葉を避ける人います。教会の人は好きだけど、祈りは避ける人。教会のBBQは好きだけど、礼拝は避ける人。もし心当たりがあるならちょっと考えてみてください。自分は本当は何を求めてるんだろう人を求めてるのか、と。

人に頼ろうとしてるのか、人で満たされようとしているのか、それとも本当に神様を求めているのか、自分に聞いてみてください。


人に頼るものは呪われよ。そして神様を求める人は尽きることのない命を受け続ける。どんなに試練があっても乗り続ける小川のほとりの木のようです


※クリスチャンの本音は神様との交わり


イエス様を信じてる人には必ず聖霊が住んでます。聖霊は神様ご自身、そして神様の霊です。そして御霊は生きて働かれる神様との交わりを願ってます。皆さんの心の奥におられる御霊は神様に頼り、神様を愛し、神様のみことばで生きることを願っています。どんな人間の知恵より、どんな人間の力より神様を求めてます。皆さんに聖霊が住んでるなら、皆さんの本音の本音はそうです。


もしも…

ですが、皆さんが形ばかりの偽クリスチャンでなら皆さんの中に聖霊はいないでしょう。そしてその人が考えるのは、人間のことばかりです。神様から心は離れてるので、教会の中にいても、人の顔色とか、あの人がどう思うとか、私はこう思う、とか、そんなことばっかりにとどまって、その人はまるで枯れて形だけ原野に突っ立ってる灌木のようで命がありません。その木は水を得ることができないので既に枯れています。ただ形だけ残っています。形はあるけど死んでいます


もちろん、人の交わりを教会は大事にします。でもそれは聖霊を受けた人と、聖霊を受けた人が一緒に神様を求める交わりです。一緒に集まって心を合わせて口を合わせて一緒に祈るのは聖霊の交わりです。教会の交わりや礼拝は聖書はでは聖霊の交わりと言い換えられています。


祝祷でいろんなタイプがあるけど、よく引用されるのがこの箇所です。


"主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。"

コリント人への手紙 第二 13章13節


教会は神様との交わり、聖霊の交わりの場所です。人に頼ってはいけないとか、人に相談してはいけないと言ってるんじゃなくて、イエス様を求める聖霊が住んでいる人同士の交わりが教会です。言い換えると、私たちの交わりとは神様との交わりだし、キリストとの交わりです。


"私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。"

ヨハネの手紙 第一 1章3節


ヨハネは、みことばを教会の仲間に伝えます。それは、みことばを一緒に共有することが、神様との交わりであり、キリストとの交わりだからです。


今日はにのじゅうタイムがあります。人と一緒に祈ること、一緒に聖書を分かち合い、一緒に祈ることは神様との命の交わり、キリストとの交わりです。


皆さんの本音は、何よりも何よりも神様に頼り、神様に祈り、まず神様の言葉を聞きたいと思ってます。それが聖霊を受けた人の本音です。


忙しくなるとそれが後回しになりがちなんです。

教会が祝福されて多くの宣教師が、そしれ神学生が起こされ、これから教会がどう変化していくか、手続きがたくさんあります。今日も総会があります。でもその手続き一つ一つ、話し合い一つ一つに神様を求め、神様に頼り、神様の言葉を聞く、そういう神様との交わりがなければ、それは虚しいものです。

いのちがないなら、何かが決まって形を作ったとしても、それは荒野にたたずむ枯木です。

ただそこに命のない木があるだけです。


私たちが求めているのは命のある祝福です。


求めましょう。神様を求めましょう。今日の総会が神様を求める総会でありますように。

今日の話し合いが聖霊の交わりでありますように。


来週は梅屋町から7人の青年たちと義也先生もいらっしゃいます。この交わりが神様が生きておられる、そういう聖霊の交わり、神様との出会いでありますように


今週行われるゆったりゴスペルが今週末行われます スペシャルノエルのラーメンが来週行われます。ヒカリコが来週あります。シチューを食べます。みんなに楽しんでもらおうと思います。でも、目標はそこじゃなくて神様が今生きておられるルコと、神様により頼む。生きておられる神様との出会いです。


交わりがお楽しみ会で終わるのでなく、神様との交わりでありますように。ここに神様が生きてご臨在されます、という神様との交わりでありますように祈り願い求めましょう。神様を求めましょう。


シードワーシップの準備もしてますけど、良い音楽を作るのではなくて神様との交わりのため、確かにここに主がおられるという礼拝でありますように。練習がアレンジが準備全部神様との交わり、神様を求め、神様に頼るものでありますように。祈り求めましょう。


心が離れて、人間に頼るものは呪われよ。そこには祝福がない。枯れた木のようだ。何の形も成長もない木のようだ。でも主により頼むものはどんな試練があっても尽きることのない命があります。実を結び続けます。





2025年10月9日木曜日

エレミヤ15.10-21

 エレミヤ15.10-21


牧師とか宣教師を職業だと思っている人は続かないと思います。教会で仕事すれば生活できる保証はないし、みことばをそのまま教えたり伝えたりすると、この世の人たちから嫌われ批判されるからです。人に嫌われないように聖書の話にイイ感じの話を足したり、神の裁きの話をしないようにするなら、もう神様の働きではありません。預言者エレミヤは神様のみことばをそのまま伝えました。その結果、周りの人たちから呪われ、嫌われ、彼はそれを嘆きます。まるで自分は世界から呪われるために産まれたみたいだ、と。



"ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は全地にとって争いの相手、また口論する者となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、皆が私を呪っている。"

エレミヤ書 15章10節



"主よ、あなたはよくご存じです。私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。あなたの御怒りを遅くして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。(…中略…)なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。"

エレミヤ書 15章15-18節



神様のことばをその伝えることは霊的な働きだし戦いです。なのでマニュアル通りとか原稿を作ればOKとか、ネットに載ってる説教をDLすればいいものではありません。神様のことばを伝える人は、まずは自分の心と神様の心が一つになることが必要です。食べ物が人間の体を作るのと同じように、神様のみことばがその人の霊的な人格をつくります。エレミヤはまずは食べ物のように自分の心にみことばを受け入れ、それが自分自身となるように、神様の心が自分の心になるようにしました。それは彼の喜びでした。



"私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ、私はあなたの名で呼ばれているからです。"

エレミヤ書 15章16節



このように神様のみことばは食べて自分自身となっていくものです。距離を置いて読むものではないし、勉強したり分析するものでもありません。食べて自分自身となり、神様の心と自分の心が一つになっていきます。

イエス様がこの世に来てみことばを教えた時、人々は拒絶し、嫌い、あざけり、殺しました。同じように、イエス様のみことばを食べて交わり1つになる人が語る時、この世から同じように嫌われます。でも、それはイエス様からご覧になると喜びです。なぜなら一つになってるしるしだからです。だからイエス様は迫害され攻撃されたら「喜びなさい。大いに喜びなさい。」「あなたがたの報いは大きい」とおっしゃいます。



"わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。"

マタイの福音書 5章11~12節



人々から迫害され攻撃されるエレミヤに神様はおっしゃいます。


"もし、あなたが、卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口のようになる。(…中略…)この民に対して、わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。──主のことば──わたしは、あなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちの手から贖い出す。"

エレミヤ書 15章19-21節



まずは神様と交わり、余計なことばを捨てて、神様のことばを求めていくなら、神様は必ず救い助け出してくださいます。「彼らは、あなたと戦っても勝てない。」とおっしゃいます。


僕らの人生は人に気に入られるためのものではなく、神様に喜ばれ祝福されるためのものです。みことばを語る人はイエス様と交わり一体化する人です。聖書はお勉強するものではなく食べるものです。みことばを語ることは仕事ではなく、神様ご自身の働きの現れです。嫌われたり攻撃されることもあります。でも、それがイエス様と一緒のしるしなら、イエス様のための迫害なら喜ばれてます。大丈夫です!