エレミヤ23.9-24
神様のことばを伝える牧師とか宣教師にはその教会全体への責任があります。国の堕落も教会の崩壊も指導者から始まるようです。みことばを教える人は一般の人よりも「厳しいさばき」を受けると聖書は言います。
"私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。"
ヤコブの手紙 3章1節
ロイドジョーズという人は「説教と説教者」という本の中で、本当はみことばを聞いてないのに、預かってないのに、牧師風の声のトーンとか雰囲気を作ることをすごく警告しています。説教壇に立った時の厳かな低い声、というのが作り物なのか、聖霊によるのかはすぐわかる、と。もし、牧師が仕事だから、教会から給料が出るから、当番だからやってるなら、本当に神様から任命されたのかどうか考え直した方がいいと思います。神様の願いは、神様を求め、神様との親しい交わりの中で聞き、預かり、それをそのまま伝えることです。全てはみことばの力、聖霊の力です。神様のみことばだけが人を変え、世界を変えます。願いは神様のご計画がこの世界に行われることです。これは今も昔も同じです。
"しかし、だれが、主との親しい交わりに加わり、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。"
エレミヤ書 23章18節
"わたしとの親しい交わりに加わっていたなら、彼らは、わたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪い生き方から、その悪しき行いから立ち返らせたであろうに。"
エレミヤ書 23章22節
エレミヤ時代の預言者は神様に聞きもせず、祈りの親しい交わりの時間も取らずに、神様を馬鹿にするような人に対して『主はあなたがたに平安があると告げられた』しきりに語り、頑固なままの人に「大丈夫、そのままでいいよ。わざわいは来ない」と教えていたようです。彼らの目的は人々に媚びへつらい、支持されることです。神様の怒りは預言者たちに激しく注がれます。
"「実に、預言者も祭司も汚れている。わたしの家の中にも、わたしは彼らの悪を見出した。──主のことば──
それゆえ、彼らの道は、暗闇の中の滑りやすい場所のようになり、彼らは押しやられて、そこに倒れる。わたしが彼らにわざわいをもたらし、刑罰の年をもたらすからだ。──主のことば──
サマリアの預言者たちの中に、わたしはごまかしを見た。彼らはバアルによって預言し、わたしの民イスラエルを迷わせた。
エルサレムの預言者たちの中に、わたしはおぞましいことを見た。彼らは姦通し、噓をついて歩き、悪を行う者どもの手を強くして、その悪から、だれも立ち返らせない。彼らはみな、わたしにはソドムのようであり、その住民はゴモラのようだ。」"
エレミヤ書 23章11~14節
"それゆえ、万軍の主は、預言者たちについてこう言われる。「見よ。わたしは彼らに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。不敬虔がエルサレムの預言者たちから出て、全土に広がったからだ。」
万軍の主はこう言われる。「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたを空しいものにしようとしている。彼らは主の口からではなく、自分の心の幻を語っている。
彼らは、わたしを侮る者に向かって、『主はあなたがたに平安があると告げられた』としきりに言い、頑なな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない』と言っている。」"
エレミヤ書 23章15~17節
神様の言葉を求めず、聞かず、自分の利益や立場を守るなら他人の罪を指摘しません。そのような預言者たちを神様は怒り悲しんでおられます。
"「わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに、彼らは走り続ける。わたしは彼らに語らなかったのに、彼らは預言している。
わたしとの親しい交わりに加わっていたなら、彼らは、わたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪い生き方から、その悪しき行いから立ち返らせたであろうに。"
エレミヤ書 23章21~22節
さばきは指導者が神様を求め聞こうとせず、人々に媚びるようになることから始まるようです。
…とはいえ、牧師もタダの弱い人です。だから今日も指導者のために祈りましょう。何よりも神様の言葉を求め、人を恐れることなく、媚びへつらうことなく、神様だけを恐れますように。足したり引いたりしないで伝えることができますように。
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