2025年12月21日日曜日

クリスマスメッセージ ピリピ2.1-11  神様の愛の表れのクリスマス

 クリスマスメッセージ ピリピ2.1-11 

神様の愛の表れのクリスマス


12月、街はキラキラとクリスマス気分で、どこのお店に行ってもクリスマスソングがかかっていていい感じにデコレーションされて楽しい気分にさせてくれるけど、でも同時に、周りにも僕らの心の中にも悲しみがあり、怒りがあり、モヤモヤとどうしたらいいかわからない、そんな面もあるのが事実です。


愛するべき人を愛せないし、愛されたいのにわかってもらえない。そんな自分がありながら「メリークリスマス」って言われても100パーセントは喜べない、そんな現実があると思います。


今日読んだピリピ人への手紙、「喜びなさい」って繰り返すけど、これを書いたパウロはこの時牢屋に入れられていました。自分が伝道して作ったエペソ教会にも問題がある、そんな時に書いている手紙です。

パウロは全然うまくいってないのに、「喜びなさい」と繰り返します。その理由は今日の箇所です。


今日のメッセージが苦しみや悲しみの中にある私たちに、神様からの光が差し込み、神様からの喜びと愛が注がれるものでありますように。

単なる知識でなく、生きておられるイエス様の御霊が今日、皆さんに語ってくださいますように、僕にも語ってくだささいますように。僕らが神様のことばと霊によって新しくされますように。本当の御霊の喜びが注がれますように


●愛と喜びはキリストから


喜びと愛は自分から出ないものです。他人からも出ないです。だから人に期待すればするほどがっかりするでしょう。「この人と一緒になったら幸せになれる」と思ったら、そうはならないでしょう。なぜなら、愛と喜びはイエス様だけが与えてくださるからです。

1節と2節はそう言っています。


"ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、

あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。"

ピリピ人への手紙 2章1~2節


励ましはキリストにあります。愛はキリストにある愛です。慰めはキリストにある慰めです。御霊の交わりはキリストから与えられる御霊の交わりです。愛情と憐れみもキリストにあります。

このキリストからの励ましや、愛や、慰めが注がれ、与えられるなら、注がれるならどうなるか、一つ目は「同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つに」(2)することができます。

そして二つ目は「へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思」えるようになります。


"何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。

それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。"

ピリピ人への手紙 2章3~5節


モヤモヤした気分、寂しい気分、怒りや不満。これはまずは自分が満たされていないし、満たされたいと思っている前提があります。自分が損しているし、得したい、自分は認められていないから認められたい、自分も栄光を持ちたい、満足したい、ということです。そういう寂しさ不満怒りはみんなあると思います。皆さんはどうでしょう?


節はそのように、まずは最初に「自分」最初に「私」が満たされようとすることを「利己的な思いや虚栄」と言っています。新改訳3版では「自己中心や虚栄」岩波訳は「党派心によってではなく、虚栄心によってでもなく」フランシスコ会訳は「対抗意識をもったり、見栄を張ったり」です。

「私」が損している。「私」が認められていない、「私」が褒められていない、愛されていない。「私」が負けてる、全部「自己中心」です。自分のための周りです。他の人で満たされようとして求めても、満たされることはありません。

愛と慰めは神様から与えられます。


※「誓いの旅路」CBS pressの紹介。最近買って読んでいる本です。

結婚について書かれた本です。いろんな学びの本があるけど、この本は結婚に限らず、あらゆる人間関係について、もしかして、今までの本の中で一番いいかなって言う位お勧めです。


その中のエピソードです。

「私の夫はいつも仕事のことばかりで家に帰っても何もしてくれない。私の話も聞いてくれない。家の事には無関心で、でも仕事はがんんばってるし評価され昇進している。でも私はもう疲れたし、不安です。もうこの人とやっていくのは限界です。」

また別のエピソードもありました。

「私の妻はいつもイライラして口を開けば不平不満しか言いません。私はこの妻と一緒にいるのはもううんざりです。」


よくある話です。身近です。

このエピソード、両方とも、関心があるのは「自分」です。「自分」がどのように扱われるか、「自分」が満たされるかどうか、そこに中心がある限り喜びはないし、愛もないし慰めもありません。「相手」がもっと変わってくれたらいいのに、「相手」が変わりさえすれば私は幸せになれるのに、と思っています。


両方とも、神様でなく「人」から与えられる愛を求め、「相手」が自分を癒してくれる、と誤解しています。まるで、「相手」を愛を無限に与えてくれる神様のように思っています。その結果は不満と悲しみと怒りです。


"ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、

あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。"

ピリピ人への手紙 2章1~2節


私もあなたも神ではありません。私もあなたも慰めや愛を注ぎ出す神ではありません。

人に期待し、人に求め、人によって幸せになろうとするならそれは虚しく消えていきます。うまくいっても虚しい栄です。略して虚栄です。

大切なのは、キリストにある励まし、キリストから来る愛の慰め、キリストで満たされキリストによって慰められることです。その時に、僕らは変えられます。

今度は、イエス様と一緒に相手を尊敬し、愛し、自分より優れたものと思うことができるし、4節にあるように、他の人を大事にすることができます。


それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。"

ピリピ人への手紙 2章3~5節


クリスマスはこの「キリスト・イエスのうちにあるこの思い」が溢れています。2つの点でクリスマスに現れたイエス様の愛を確認したいと思います。そしてこの愛をいただきたいと思います。なぜなら、私たちには愛がないからです。私たちには慰めがないからです。私たちの中から喜びが出ないからです。


●へりくだって愛してくださるキリスト


6節からはこのイエスキリストの愛を私たちに教えてくれています。


"キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、

自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。"

ピリピ人への手紙 2章5~8節


「御」とは神様の、ということです。神様の姿、まさに御姿です。イエス様は神そのものです。イエス様をみたら、神様がわかります。イエス様について読んだら、神様がわかります。

その神様である方が、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。神様の愛と力が具体的にわかるように、見えるために、人の中に来て住んでくれました。


疲れない神様、眠る必要がない神様が、人として来られました。イエス様は眠る必要があったし、疲れる体を持ちました。食べものも必要でした、人として普通の生活をしました。普通の家庭で育ち、村の人たちとの人間関係もありました。大工として仕事もしました。疲れたり、傷ついたり、そういう弱さも持つ人となって現れてくださいました。


神様は、遠くから、安全なところから応援する愛ではなく、一緒に傷つき、一緒に人の苦しみを経験してくれる愛です。がんばってね、祈ってるよ、と口先で言うのでなく、一緒に傷つく当事者になって愛することを選んでくださいました。


皆さんの悲しみ、苦しみ、イエス様は一緒に経験してくださいます。

皆さんが今抱えている悲しみは、苦しみはなんでしょう。


イエス様が先にそれを経験してくださったし、もっと深い苦しみを知ってわかってくださいます。そして今日も一緒に祈ってくださっています。


僕らは悲しいこと苦しいことがあると、わかってくれそうな人を探します。同じような苦しみの経験者を求めます。理解されない人、上から裁く人には相談しません。実は、誰よりも苦しみ傷つき僕らの苦しみをわかってくださるのはイエス様です。


イエス様が病人を癒し、弱い人、罪人を愛し見放さずに近づいてくださったことは、傷つかないでしたことでなく、人から悪く思われ、嫌われ、人々の評判を失うことでした。

中学校のクラスのいじめを想像すればわかります。いじめられている子を愛し助けることは、自分もいじめられることです。

最後は愛する弟子に裏切られました。他の弟子たちは逃げました。そして父である神様からも引き離される経験をされました。


イエス様は文字通り全てを手放しました。愛されることも、賛美されることも、認められることも、手放しました。もちろん具体的な持ち物もありません。出産した家畜小屋は借りたもの、飼い葉桶も借り物です。全てを手放し、貧しくなり、悲しみ、渇き、飢える人の側に来てくれました。死ななければならない人の側に来てくださいました。

これがイエス様の御降誕です。愛されない人の側にきてくださいました。


ルカの福音書2章はイエス様がお生まれになった日のことを書いています。


(ルカ2.6-7)

ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、

男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。


「彼らのいる場所がなかった」です。生まれそうなのに、産める居場所がないので、最終的にはイエスは家畜小屋で生まれ、餌のおけに寝かせられました。居場所がないからそこでそこで産むしかない、そんなイメージです。下は家畜のうんちやおしっこで寝かせられないから、餌の台に寝かせるしかありませんでした。


そもそも、マリヤの妊娠自体がみんなに受け入れてもらえませんでした。10代の子が、妊娠してるがバレたらどうなるんだろう、そんな出産でした。


イメージしてください。今も10代で、人知れず妊娠して、どうしていいかわからなくて、病院にも行かないで、家族にもバレないようにして、困り果てて誰も見ていないところで産むしか無かった女の子のイメージです。


最近も新聞で読みました。

居場所がなく歌舞伎町の狭いネットカフェにいるしかなかった女の子の話でした。その子が妊娠し産気づいて、どうしていいかわからず、ネットカフェのトイレで産むしかなかった、とありました。産んだ後、どうしていいのかわからなかった。と。相談を受けた医師は「おそらく想像を絶する極限の精神状態だったでしょう」と言います。


マリヤも心細かったと思います。味方になってくれる大人たちはいません。イエス様はあえて、それを選んで、誰も味方のいない、弱くて寂しい立場を選んでいるかのようです。肩身の狭い人の味方、居場所のない人の味方、家がない人、そんなあなたと一緒にいるよ、一緒に泣くって言ってくださっている気がします。「泣くものと一緒に泣きなさい」と言う聖書の言葉は口先のことばではないです。


神様の愛とは、犠牲を払うことです。

イエス様は貧しい者、苦しい者、傷ついた者、居場所のない人のところに来てくださいました。追い出された者、邪魔にされている人たちのところにきて、その当事者となってくださいました。


イエス様はそのような人たちと友達となりなります。イエス様の人生を読むといつもそうです。追い出された者、売春婦、罪人、汚れていると言われた病人たちと交わっていることがわかります。


救い主が来てくれた、世界の王が来てくれた、という知らせを最初に知らされたのは、貧しい羊飼いのところです。羊飼いは人口に数えられなかった人たちです。ユダヤ人として当然の律法は守らず、村で何か悪いことがあると、「またあいつらでしょ」と言われる人たちです。

今で言うなら、教会に絶対こなさそうな、遠くにいるような人です。誘いたくない、関わりたくないタイプの人たちです。神様はそんな彼らを選んでおられると思います。目を合わせたくないタイプの人たちを愛し、喜び、連帯して、一緒に歩もうとしてくださいます。


僕らには出来ないことです。でも、これがイエス様の願いであり、イエス様が全てを捨てて闇の中に降りてきてくださった理由です。イエス様は天から降り、孤独で、誰にも理解されない人の近くに来てくださいました。


●神様は愛されない罪人を愛してくだいました


僕らなら、謝ったらゆるす、とか、そのクセ治ったら受け入れてやる、と思います。でも、聖書はイエス様のことをこう言います。


ローマ5章8節

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。


「罪人であったとき」です。神様を知らず、無視していたとき、自分の欲に仕えていた時、その時に、キリストは僕らを愛し、僕らのために、身代わりに十字架で命を捨ててくだいました。ここに愛があるのです。


1ヨハネ4.10

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。


※大阪のメダデ教会の西田好子牧師さんが時々テレビで取材されています。その教会は元暴力団とか、ホームレスとか、そんな人が集まる教会です。西田さんは徹底的にお世話するのですが、お世話しても裏切られ、教会を出てまた罪を犯し逮捕される人がいます。自分を裏切る彼らをまた刑務所に迎えにいく、そんな西田さんです。ディレクターが質問してました。「また裏切られるのに、迎えにいくのですか?」「なんともと思わないのですか?」西田さんは答えます。誰もこの子たちを愛さない。受け入れない。親も受け入れない。昔の女性ももう彼を受け入れない。弁護士も受け入れない。市役所も誰もこの人たちを愛さない。だから、私は受け入れます。何度裏切られても受け入れるのがイエス様の愛です」


イエス様の愛は人になっって来てくれただけでなく、一番低くなり、最悪の死刑囚の当事者となってくれました。罪がない神様が、罪人の身代わりに殺されました。人にも神様にも見捨てられる裁きを受ける側になってくれました。


ピリピ2.7-8

人としての姿をもって現れ、

自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。


イエス様は十字架の上で叫ばれます。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコ15.34これは、イエス様が神様に裁かれる側にきてくださったことを表しています。


イエスは、本当は全てを持っているし、支配しています。一瞬で敵を吹き飛ばせるし。一瞬で十字架から降りてきて、鞭で撃たれた傷も、釘で撃たれた傷も一瞬で回復することができる方です。でもイエス様はあえて自分を捨てて、呪われ側に来てくれました。


愛することは無傷で安全圏内にいて、ラクをすることではありません。


僕らはいつも自分が先で、自分が中心で、自分の満足、自分の栄光をまず求めがちです。そして、それを人に要求してはがっかりします。クリスマスに現れた神様の愛はそれとは真逆です。

僕らは今も不快な人を遠ざけて、なるべく楽をして満足しようとする自己中心性があります。


皆さんが避けたい人、ゆるせない人、関わりたくない人は誰でしょう。


イエス様がこられたのは、居場所のない10代の女の子の子宮の中です。家畜のいるところです。イエス様が来られたのは、最悪の死刑囚が磔になる十字架の上です。

神様が愛されたのは、どうしようもない罪人です。


ピリピ2章5節

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。


僕らも今日、イエス様の心をいただきましょう。悲しむ人のためのクリスマスです。追い出された人たちへの良い知らせです。それはイエス様が全てを捨てて、僕らの悲しみのどん底に降りてきてくださったことです。


イエス様の愛を求めましょう。イエス様と一緒に自分を捨てるを聖霊の思いを求めましょう。愛は僕らからは出ません。でも、イエス様が無限の愛で僕らを変えてくださいます。

惨めな僕らが救われ、赦され、愛されました。

今度は僕らが救いを知らせる人になりましょう。そう祈りましょう。

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