使徒13.1-5
「誰を宣教師として遣わそうか」とか「これからの教会をどのように成長させようか」とか「誰を牧師にしようか」とか僕らは話し合います。…ですが、聖書に書かれている教会は人の考えとか会議で決めてないことがわかります。
彼らがやってた事はシンプルで、神様を礼拝し、祈ることです。ひたすら神様に心を向ける中で聖霊の声を聞き、聖霊が人を選び、任命されます。教会はその声を聞き、みんなで確認して送り出します。
"彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。
そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。"
使徒の働き 13章2~3節
この働きは「神様のため」です。「人のため」とか「教会のため」でも「自分のため」でももありません。聖霊は「さあ、わたしのために」とおっしゃいました。僕らはすぐに「自分はどっちが都合がいいかな。」などと考えてしまいます。
誰が選ばれるか、どのような働きに召され送り出されるか、それは人が決めるのでなく、神様の選びと任命です。
「バルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた教会は、もう一度断食して祈って神様に求めます。祈りの中で教会のみんなの確信となり、教会全体が彼らに手を置いて送り出します。
「手を置くこと」は一体性を表します。「この働きは私たちキリストの体の働きと一つです。」という表明です。
バルナバとサウロは勝手に宣教師になったわけではありません。聖霊が彼らを選び、そして教会はそれを承認して送り出しました。
"二人は聖霊によって送り出され、セレウキアに下り、そこからキプロスに向けて船出し、"
使徒の働き 13章4節
3節では教会が送り出しています。でも、4節では聖霊が送り出しています。これは矛盾ではなくて、聖霊がなさることと教会がすることが一体化している様子です。
アンティオキア教会が「送り出す教会」として用いられたのは、人数が多かったからでも、お金があったからでもなく、ひたすら礼拝し、祈り、みことばを求め、聖霊に従う教会だったからです。
「礼拝」とは賛美したり聖書の話を聞く「あの日曜の午前中の集会」ではありません。「礼拝」は自分を生きたささげものとして、神様に明け渡すことです。(ローマ12.1)「主よ、私はあなたのものです。あなたの思い通りにしてください」そう言って所有権を手放し、100パーセント神様のものにしてもらうことです。
「祈り」も同じです。イエス様が教えてくださった祈りは「御名が聖なるものとされますように」です。つまり、「神様が全てになりますように。人間的な汚れたものが少しも入りませんように」という祈りです。
イエス様が十字架でいのちを捨ててくださったように、いのちを捨てて僕らを愛してくださったように、そのように僕らも自分の全てを神様にささげることが礼拝です。
その時に、神様は「神様の働き」をさせてくださいます。
聖霊に満たされ、聖霊に導かれるためには、「自分を聖霊に完全に明け渡す」のが大切です。神様に満たされるためには、まず自分を空き家にすることです。
アパートから退去する時にカーペットもカーテンも残さないのと同じです。新しい所有者が気に入ったカーペットやカーテンに取り替えます。そのように、僕らの所有者は神様です。神様の思い通りのレイアウト、デザインがいいに決まっています。
もしも僕らが何かを始めようとしているなら、
「本当にこれは聖霊の働きですか?」と神様に聞いてみるのをお勧めします。
自分の力とかやる気とか夢だと長くは続きません。
アンティオキア教会は神様を礼拝し、祈る教会でした。自分たちの意見とか願いとか意見調整ではなくて、全てを明け渡す祈りの中で、神様は人を召し出し、用いてくださいます。人の思いもよらない新しいことをさせてくださいます。僕らがすべきは今日も神様に心を向け続けることです。神様、どうぞ僕らの心をいつもあなたに向けさせてください。今日も完全に明け渡すものとしてください。
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