ルカ12.1-12
イエス様を信じた人には聖霊が住んでいます。聖霊は僕らの内側から溢れ出る神様の霊です。まるで泉が湧き出て流れ出るようです。(ヨハネ7.38)聖霊は神様ご自身です。その働きは僕らが思う以上に力に溢れ、平安で満ちています。聖霊は神様の愛で僕らを満たします。(ローマ5.5)恐れは締め出されて(1ヨハネ4.18)たとえ迫害されることがあっても、不思議と愛と平安と力の中でイエス様のことを話すことができます。
"また、人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてよいのです。
言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」"
ルカの福音書 12章11~12節
これは根性とか気合いじゃなくて、天から与えられるものです。心の奥から不思議とイエス様への感謝と賛美が湧き出て、それを人々にも伝えたいと思うようになります。僕らがイエス様のことを誰かに話したいと思うのは、僕らに聖霊が与えられていることのしるしです。
"あなたがたに言います。だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。
しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。"
ルカの福音書 12章8~9節
聖霊は「臆病の霊」ではなく、「力と愛と慎み」の霊です。(2テモテ1.7-8)たとえ迫害があっても、本当に殺されることがあっても不思議と恐れがなくなります。神様の大きさと権威を心で見ることができて、迫害者が弱く小さく見えるからです。
"わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。
恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。"
ルカの福音書 12章4~5節
聖書には迫害の中でもイエス様のことを話してしまう実例がたくさん書いてあります。話すことばが聖霊によって与えられるからです。ペテロは指導者たちに逮捕され、脅されましたが、恐れることなくイエス様のことを話しつづけます。ちょっと前まで臆病で逃げ隠れていたのに、聖霊を受けてからは別人のように落ち着いています。
"そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。"
使徒の働き 4章8節
"私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」"
使徒の働き 4章20節
ペテロみたいな使徒だけが特別なのでなく、普通の人たちも聖霊に満たされると、神のことばを大胆に語るようになります。
"彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。"
使徒の働き 4章31節
僕らは今、すでに聖霊が与えられています。その力と愛は内側から溢れ出しています。この聖霊に信頼し身を任せていけば大丈夫です。
もしも、ですが、イエス様を信じ、聖霊が与えられてイエス様が素晴らしいと思っているのに、愛や平安や力が与えられているのに、あえてそれを認めようとせずに拒否する続けるなら、自分が願った通りにそれを失い、神様からの愛も赦しも失うことができます。
"人の子を悪く言う者はだれでも赦されます。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されません。"
ルカの福音書 12章10節
「聖霊を冒瀆する者」とは、神様が内側から変えてくださっているのにも関わらずそれを拒否し続け意図的に神様を冒涜し続ける人です。その人は、願った通りに信じることも悔い改めることもできなくなっていきます。
今日も聖霊様が住んでおられます。その愛と力と平安は心の奥から溢れ出ています。この方に委ねましょう。自分を聖霊の器として明け渡しましょう。聖霊に満たされることを求めましょう。恐れは消え、外見を繕う必要はなくなります。僕らが思う以上の素晴らしい方が僕らの中におられます。ハレルヤ!
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