使徒13.1-3 聖霊に遣わされることは教会に遣わされること 7月18日メッセージ
●全ての人に福音を伝えるのは神様の願い
イエス様が約2000年前に地上に来られ、天にもどられる最後に言われた言葉はこれです。
マタイ28.19-20
19,ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
20,わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
イエス様は地上で最後に言われました。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」全ての人の所に「あなた方が」行きなさい、とイエス様は言われます。イエス様が権限を持っているだけでなく、その力を私たちにも与えてくださるから、あなた方が、行きなさい、全ての人を弟子としなさい、とおっしゃいます。
最近、水草先生が書かれた雑誌「船の右側」の記事を読んだら、福音を伝えるのに、人間の体のどこが一番関係があるでしょうか、という質問がありました。福音を伝えるのに一番用いられるのは、口かな?と思います。でも、聖書の答えは足。
ローマ 10:15
遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
出て行く、というのがすごく大事です。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」部屋にこもって聖書の勉強をして、集まって交わり祈るのはすごく大事です。でも、イエス様の権威に従うことは、足を使って出て行くことです。イエス様は行って、全ての国、人類全部をイエス様を信じる人にしなさい、弟子にしなさい、伝えなさい、と言っています。
悪魔に捕らえられている人々を解放しなさい、取り戻しなさい、とイエス様は言います。なぜなら、イエス様は勝利しもう悪魔に勝っているからです。だから、あなた方が行ってそれを伝えて、教えなさい、と言います。イエス様の力によって、僕ら人間が行きます。くイエス様が一緒です。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
今日の箇所はまさに、教会がある人たちを特別に宣教師として世界に送り出してくださった箇所です。
東栄教会はこれから山舖岳さんを送り出そうとしているし、栄希を送り出そうとしている、元貴も卒業が迫っています。他にも特別に神様が特別に取り分けて、召して、送り出そうとしてくださる方々がいます。クリスチャンは全ての人が用いられます。区別なくみんなその職場では祭司であり伝道者です。遣わされた家庭、友達の中で祭司であり宣教師です。その意味ではみんな宣教師です。ですが、それとは別に特別にみことばのために取り分けられて召される人がいることを今日の箇所は教えています。
●神様はある人を区別して選び召される。
2,彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。
3,そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。
バルナバとサウロ(パウロのこと)ははっきりと他の信者と区別されました。「バルナバとサウロを聖別して、」とり分けて、分離させて、という意味です。この2人は日常生活から取り分けなさい、という意味です。ちょうど旧約時代に祭司やレビ人が他の部族とは違って専門的に神様に仕えるために取り分けられたのと同じです。旧約時代は祭司レビ人は他の部族のささげ物の中から生活に必要な衣食住が与えられるように決められていました。そのように、他の人とは区別して聖別しなさい、という意味です。
・「召し」は二種類があります。
新約聖書は神様が「召された」意味は2種類あって、1つは罪の生活をしてイエス様も知らなかった人が悔い改めて神様の子供になる、という意味です。クリスチャンは全員神様に召された人、全員聖なるものとされた人です。これは召される、聖なるものとされる、という1つ目の意味です。クリスチャンはみんな神さまに呼ばれて、召されて、きよめられました。これが一つ目の意味です。
もう一つ、新約聖書が「召された」「聖別」したという意味は、全員ではなく、特別の人だけです。今日の箇所のようにある人だけが、日常生活とは切り離して専門的に神様に取り分けられて呼ばれて、用いられるという意味です。それのことを神様が召される、とか、聖別される、と聖書は言います。ここでの「聖別して、」は離れる、分ける、という意味です英語の聖書ではバルナバとサウロをセパレイトして、分離させて、取り分けて、私が召した、呼んだ働きにつかせなさい、と表現しています。。一つめの意味の聖別とは言語では全く違う言葉です。セパレイトです。
この神様がこの2人を選び任命した働きとは、世界宣教です。イエス様がおっしゃった「あらゆる国の人々を弟子としなさい。」という命令のために専門的に教会から選ばれて送り出される働きです。全員がこの役目が与えられていますが、足を使って他の地域に出て行くときには、送り出し支援する人たちがいて、実際に現地に行って宣べ伝える人がいる、という役割分担があります。ローマ人への手紙もこの役割分担についてはっきり言っています。
(ローマ 10:14-15)
聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。
聖書ははっきりと、遣わされる人と、遣わす人がいる、と言っています。出て行く人と送り出す人がいます。両方ともイエス様が全ての人に福音を伝えるようにという命令のための部署です。部署が2つあります。出て行く部署。送り出す部署。同じ目標です。イエス様がいつも一緒だし、この働きの権威は全てイエス様のものです。宣教はチームです。チームリーダーはイエス様であり、聖霊さまです。
●召しと選びはどのようにしてわかるのか?
この2人が選ばれ召されたことが教会のみんなにはっきりと語りかけられたのは、いつか?そしてみんながそれを共有できて理解して送り出したのは、いつか?それは、彼らが心一つになって礼拝し断食して祈っていたときです。礼拝とは、自分を明け渡すことです。
ローマ12.1
あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
自分の計画、計算、経験を手放し、明け渡し、神様の権威の前に跪くのが礼拝です。礼拝は週に一時間ではなく、自分の体も心も全ての時間で明け渡すのが礼拝です。アンティオキア教会が神様の語りかけを聞いて2人の人を送り出す決断をしたのは、彼らが礼拝し断食して祈っていたときです。もともと人間はみんな自分の考えがあるし、教会のみんな考えが違います。でも、それをあけわたし手放して行くときに一致と平和と神様のみ業が進みます。
この箇所の最初にアンティオキア教会の指導者五人の名前が出てきます。みんなそれぞれ育ちも文化も全然違う5人です。考えの違う5人に神様は一致を与えてはっきりと神様のご計画を示され、一つの方向性を与えてくださいました。
1,さて、アンティオキアには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師がいた。
そもそもアンティオキアに教会なんてなかったのですが、迫害されたクリスチャンたちが、エルサレムを追い出されて逃げて行くうちに、ここまでたどり着いて、福音を伝えてできたのがアンティオキア教会です。
11章19-21節
さて、ステパノのことから起こった迫害により散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで進んで行った(…中略…)彼らの中にキプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアに来ると、ギリシア語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。
「クレネ人ルキオ」という指導者は最初からここで伝道始めたメンバーだた可能性があります。
そして「バルナバ」です。慰めの子、という意味です。アンティオキアで信じる人たちが起こされた、という話が本部であるエルサレム教会に伝わったときに、エルサレム教会の使徒たいはバルナバを遣わしました。
11章
22,この知らせがエルサレムにある教会の耳に入ったので、彼らはバルナバをアンティオキアに遣わした。
バルナバはこの教会の創立当時からの指導者でした。だんだん教会の人数が増えてきて、バルナバ一人では牧会できない、ということになって、彼は、サウロを連れてきて、一緒に共同で牧会してきました。
(11章24-26節)
彼(バルナバ)は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大勢の人たちが主に導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソに行き、彼を見つけて、アンティオキアに連れて来た。彼らは、まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
最初はバルナバ、サウロ、クレネ人ルキオの3人で牧会スタートです。クレネ出身のルキオですけど、彼の出身随分と遠いです。
地図参照。
加えて、「ニゲルと呼ばれるシメオン」ニゲルというのは黒い人、という意味だそうです。出身は書いていないけど、シメオンはアフリカの方の出身です。彼ら5人、生まれも育ちも違います。
「サウロ」のちのパウロはユダヤ人だし元律法学者。
「領主ヘロデの乳兄弟マナエン」ヘロデと一緒に育った王宮で贅沢に育ったマナエンが悔い改めてイエス様の弟子となっていました。でも彼全然価値観が違います。お金の感覚も違います。ヘロデ王は気に入らない人はどんどん殺して平気な王さまでした。その家で育ったマナエンです。「そのような育ちと文化が違うバラバラな彼ら5人の預言者、教師たちが、どうして一致して牧会できていたか。それは礼拝と祈りです。
2,彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。
礼拝する、というのは、自分を明け渡す、ということです。自分全てを明け渡し、神様の権威の前に跪くのが礼拝です。彼らは育ちも考えも違うけど、イエス様を知り、イエス様の権威の下に明け渡していました。一緒に自分を手放し、人間的な善悪判断も、生育歴で身につけた価値観も捨てて、キリストと一緒に死んだものとして、ささげていました。そのときに彼らは一致できました。
自分を捨てる、と聞くと、言葉で聞くと無理やり感がありますけど、自分を捨てるとか明け渡すのは、キリストと一つになって行く奥義です。
エペソ5章31-32節
31,「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」
32,この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。
自分を捨ててキリストに明け渡すことは、自虐的なことではなく、まるで完璧な男女の愛のように、相手で満たされて行くことです。男と女が完全に一つになることを最初神様は意図されていました。今は罪があってどこの夫婦も一致できないけども、神様が願っているのは、キリストと、教会の一人一人がまるで完全な夫婦のように、相手に身も心も開けわたすときに、キリストの御霊に満たされ、キリストの力に満たされ、キリストの知恵に満たされ、キリストの栄光に預かり、失うどころか全てを得て行く、そいういう体験です。全てを捨てて私に従いなさい、というのは、もっと良いものが与えられる、という意味です。キリストで満たされる、という意味です。ある牧者、礼拝とは神様との親密な交わりのベッドルームである、と説明していました。
教会が一致するにはどうすればいいか?それは自分を捨てて、主の前にへりくだり、ひれ伏してささげきることです。自分を捨てることです。
アンティオキア教会はそのように礼拝し、断食をしていました。彼らの礼拝は1時間ではなく、食事は後回しでいいから、今回は食事なしでいいから、もっと賛美したい、もっと神様の声を聞いていたい、もっと語り合いたい、もっと感謝したい、もっと愛の言葉を神様に捧げたい、聞きたい、そのようなものです。恋に夢中になっているカップル以上のまさに時を忘れて賛美と祈りを喜んでいるものでした。
断食は苦行ではありません。それよりも賛美したい、祈りたい、捧げたい、天国にいる感覚が満ちていました。そこには喜びと平安がありました。
東栄教会の礼拝も、僕自身の個人のディボーションも祈りも賛美もいつもそうありたいと思います。時を忘れて神様に没頭し、神様のみことばを喜ぶ私たちに変えられたいです。
そのときには、自分の考えはどうだとか、ウチの国ではどうだったとか、そんなことは些細なことになっていき、彼らは一致していました。文化も考えも違う5人の預言者や教師が一致していたことがわかります。東栄教会もそうありたいです。
そのようなときに聖霊が語られました。
2,彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。
5人の指導者たちは預言者や教師、と書いてあります。この5人の中に聖霊の言葉が与えられて語る人がいました。
旧約聖書の時代から神様は預言者の口を用いて語られました。ダビデは主は私の口を通して語られる、と言います。預言者たちも、主はこう仰せられる、と言います。新約聖書がまだ書かれていないこの時代に、聖霊の言葉は彼らの口を通して語られました。もちろん、ほかの人はそれを吟味しました。初代の教会において預言が与えられたら「ほかの者はそれを吟味しなさい。」とパウロは言っています。
(1コリント14:29-33)
預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。(…中略…)預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。
それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。
バルナバとサウロを聖別しなさい、という言葉が与えられたときに、指導者たちも教会のみんなも、吟味した上でしかもそこに平和があり、一致があり、混乱がなかったことがわかります。みんながそれが聖霊の言葉であり神様から与えられた言葉だとわかった共有できました。
神様の召しとか導きはどのようにしてわかるのか?神様から示された、ということが教会のみんなで祈りの中で吟味され、そこに平和の一致があるのは今も大事なことです。教会的な決断とか神様の導き、示しはみんなが祈り、みんなが自分を明け渡す中で与えられることが多いです。みんなが自分を捨てて神様のみことばに自分を捧げ、神様との交わりを喜ぶ中で神様は教えてくださるし、導いてくださいます。頑固になって自分が自分が、といってる状況では神様のみことばが与えられても聞こえないし、聞いても聞かない、従わない、という場合が多いです。
召し、導きは自分を明け渡すときに与えられます。しかも、教会のみんなが明け渡して行くときに御霊の一致が与えられてそこには平安があります。
●聖霊が送り出すことは教会が送り出すこと
3,そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。
4,二人は聖霊によって送り出され、
聖書は手を置く、ということをしばしば教えます。手を置くのは一体である、ということを表します。
古くは旧約聖書の時代、罪をおかした人は動物を連れてきなさい、そしてその動物の上に手をおいて罪の告白をしなさい、と律法のレビ記に書かれています。礼拝者は動物のあたまに手を置いて自分の罪を告白します。そしてその動物は罪の重荷を背負って殺されます。捧げ物の動物と自分が連帯していることを表すために手を置くことを律法は定めています。
新約になるともちろん生贄礼拝はしません。でも手をおいて祈ることはよく聖書に出てきます。やはり連帯する、一つになるという意味があります。イエス様はいつも手をおいて病人を癒されました。神様の癒し、神様の恵を共有する分け与える、という意味があります。
手を置かなくても、一緒の部屋にいて、一緒に祈り一緒に賛美するとまるでくすぶっていた炭火が燃えて行くように、神様の賜物を共有できます。火がつかない炭も、炎の中に入れられると燃えます。同じように、一緒に祈ったり賛美することは霊的に連帯することです。岳ちゃんは九州の中学校の職員室で孤独に必死に祈って戦っていたときと、KBIでみんなで賛美する炎の中に入った時では全然燃え方が違います。
手を置くことは、連帯することです。
使徒の働き8章では、ペテロとヨハネはサマリヤの人たちに手をおいて祈ったことが書かれています。
使徒 8:17 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
ペテロとヨハネに与えられている聖霊の賜物を手を置くことで、共有する、一緒に持つ、という意味があります。ここでも連帯するとか、一体となるという意味があります。僕も尊敬する長沢たか先生と一緒に賛美したり祈ってもらったりすると、彼に与えられている賜物を共有して一緒に燃やされることがわかります。
宣教師として送り出されるのはバルナバとサウロは手をおいて祈ってもらいました。これは教会のみんなが彼らと一体となって支え続け、彼らの働きは教会みんなの働きであることを表しました。宣教師が教会と関係なく活動することはありません。なぜなら教会はキリストの体であり、一人一人は器官だからです。宣教師は母教会があって祈っられて支援されて、一緒に試練も喜びも共有しながら進みます。このあとパウロは何度も何度も祈ってください、祈ってください、と手紙を書いています。
祈らなくても、神様はなんでもおできになります。人間の祈りの熱心さによって神様の力が強くなったり弱くなったりすることはありません。ですが、不思議なことに、神様はいつも人間の教会の祈りなしに何かをすることがないのも事実です。これは神秘です。神様はご自分のわざと人間の祈りを融合させておられるのも事実です。教会の祈りと神様のわざは結束しています。
宣教師の働きは教会の祈りの中で初めてできることです。祈りは宣教の最前線です。一番大事な働きです。悪魔が一番嫌いなのは教会が集まって心合わせて祈ることです。悪魔は今日も頑張って、教会が祈らないように、祈らなくてもいいように、祈り会に出なくても、集まって祈らなくて、ディボーションしなくてもラクだよ、大丈夫だよ、と言ってます。祈りのない伝道、祈りのない奉仕、悪魔は笑ってます。でも教会が心合わせて祈るときに悪魔は震え上がります。ぜひ祈り会に参加してください。お勧めします。祈り会でなくても、礼拝の後でも、平日でも電話でグループで、だれかと心合わせて祈ってください。交わりに祈りがなければ力はありません。ただのおつきあいです。祈りのない、力のない教会の表面的な交わりを悪魔は喜んでいます。神様の栄光と力の現れは、僕らの祈りと繋がっています。
そして、遣わされる岳ちゃん、栄希、元貴も、一空も、彼らに限らず何か神様から与えられたことをするとき、教会のみんなに仲間と共有して、祈られて初めてできることです。そのときに悪魔は逃げ去ります。そして教会が送り出すことは、聖霊が送り出すことです。
4,二人は聖霊によって送り出され、
教会が祈って送り出した直後に聖霊によって、と言い換えられています。
(ローマ 10:15)
遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。
遣わされる教会があって、初めて神様のみわざが表されます。聖霊は教会を用います。神様は祈りを用いてくださいます。
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