神様を愛しましょう、とか隣人を愛しましょうとか言うけど、僕らの中からは愛は出ません。出たとしても少しだし、ちょっとイヤなことだがあると枯れてしまいます。聖書には「私たちが神を愛したのではない」とあります。逆に「神が私たちを愛し」とあります。愛は神様から与えられるものです。
(10)
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
●あなたは神様に完璧に愛されています。
神様の愛は完璧です。神様は僕らに対して怒りさばく神様です。だのに、その怒りをなだめるためにイエス様を「宥めのささげ物として」十字架の上で殺してくださるほどです。罪や汚れのある僕らへの命がけの愛です。
ここに愛があります。僕らは悪いことしかしてないのに、神様を愛してないのにその愛を知らされて信じました。そのままで愛され、受け入れられ、赦され、喜ばれています。この愛を信じる人は神様にとどまる人です。神様と一緒にいることは愛と一緒にいることです。神=愛です。
(16)
私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。
もう裁かれていません。怒られてもいません。人から攻撃されたり、苦しみを受けることはありますが、神様のさばきでも罰でもありません。僕らは神様の愛の中にいます。神様の愛は僕らのために命を捨ててくださることで完璧になりました。
(17)
こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。
裁きの日、終わりの日、全ての人が裁かれるときに、なんと、僕らはキリストと一緒に復活し、どんな欠点も汚れもない栄光を持ち、キリストと一緒に勝利することが決まっています。この世ではキリストと一緒に苦しみ、人から嫌われたり、時には殺されたりすることもあります。「この世において、私たちもキリストと同じようである」からです。キリストが罵られても罵り返さず、それでも忍耐して愛してくださったような者にされています。
僕らが神様を愛したのではありません。神様が僕らを愛してくれました。そのままで、汚れたままで愛してくださいました。これが神様の愛です。
●神様の完璧な愛は恐れを締め出します。
(18)
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。
僕らは恐れる必要がありません。もう、神様は罰していません。他人は責めるかもしれないし、自分で自分を責めるかもしれません。でも、神様は僕らを責めてないです。もし、誰からからキリストのために罵られたり悪口を言われたらよろこびなさい、とさえ聖書は言います。(マタイ5.11-12)悲しいこと苦しいことはあるけど、恐れる必要はありません。イエス様がどんなに苦しんで愛してくださったかを考えると恐れは消えて行きます。地上では苦しみがありますが、イエス様はもっと苦しみ忍耐して愛してくださいました。僕らの苦しみは罰でも裁きでもなく、神様の忍耐に少しだけ参加することです。
恐れる人もいます。神の罰を受け切り捨てられると考えると恐れます。つまり、恐れる人は見捨てられるかも、と思って神様の愛が心に入ってこない状況です。神様の完璧な愛や赦しを信じられないなら恐れます。
僕ら人間は恐怖を感じると変なことをします。相手に対して必要以上に攻撃したり武装したり、逆に逃げたりします。かです。過剰な武装や攻撃は恐れている証拠です。何も持っていないイエス様を逮捕する時に、恐れる人々はまるで暴漢を捕まえるかのように武装してきました。恐れるペテロは剣で相手に斬りかかりました。恐れは怒りや攻撃を生み出します。(マルコ14.47-49)怖くなると人間は必死で頑張るようです。逆に、逃げる人もいます。ところが、神様の完璧な愛と受容の中にいる人は逃げる必要がありません。相手をやっつける必要もありません。神様が自分を命がけで全肯定して喜んでいてくれているからです。どんな結果になっても、たとえ殺されても、僕らは神様に受け入れられています。愛は恐れを締め出します。
(18)
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。
●神様の完璧な愛は兄弟姉妹に流れます。
教会の仲間はイエス様が「正しい人でなく罪人を招く」(マタイ9.13)とおっしゃった通りり変な罪人が多いのが事実です。そのような変な仲間こそ神様が命がけでゆるし、招き、新しく生まれた神様の子どもです。だから僕らも兄弟を愛したいと思うようになります。イエス様が命がけて自分を、そして相手を受け入れ、愛してくださったからです。神様を愛することは、神様の子どもたちを愛することです。
(5章1-2節)
イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。
(4章20-21節)
神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。
しかも、歯を食いしばって、愛さなければ!って頑張ることではありません。愛は僕らから出るのではなく神様からの新しい心です。神様からの源泉掛け流しなので負担にならないです。(5.3)イエス様は相手を愛しています。そのイエス様の御霊が僕らの心に注がれてしまっています。僕らが神様の愛にとどまり、神様の愛に浸かっています。自分は相手が嫌いでも、神様は相手を愛し、ゆるし、祝福しています。それが僕らの心に与えられ、態度に出てしまいます。
目に見えない神様の愛は見える形で現れます。これが神様から生まれた人の特徴です。神様の愛は僕らが思う以上に完璧です。自分に愛がなくても大丈夫です。神様は完全にあなたを受け入れ喜んでいます。そして相手を受け入れ、喜んでいます。安心しましょう。自分で何とかしようと思うのは疲れます。無限の神様の愛に浸かりましょう。いや、もう浸かりきってます。完全に僕らを愛してくださった神様は、そのように兄弟を愛する新しい心に浸してくださいます。兄弟を忍耐することも愛です。神様のために苦しむことも愛です。ハレルヤ!
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