教会で「もっとああでなければ」と僕らは教えがちです。特に熱心な人ほどその傾向があります。イエス様と一緒に生きる生活は実はシンプルです。ただいつも愛され赦され一緒にいることを感謝して生きることです。イエス様を信じた人は御霊が与えられます。そして御霊が与えられた人は必ず変えられます。
順番は、①御霊が与えられ福音を信じて赦され救われる→②この愛と恵みに感謝して生活が変えられていく、です。
ただ、福音を聞いて信じただけで救われるのか、それともユダヤ人としての割礼(生殖器の皮を切って神様の子どもの印とすること)や様々な律法を守らねば救われないのか、と言う議論は教会がスタートした時から論争を巻き起こす大問題でした。この問題のためにエルサレムで使徒たちや長老たちの会議が行われました。
(1-2)
さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。
(5)
パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った。
神様は人間が福音を信じることによって罪をきよめてくださいました。また、律法を行うことで救われようとするのは人間には無理です。ペテロは律法を行うことを「先祖たちも私たちも負いきれなかったくびき」と言います。(10)
(9-11)
(神は)私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」
今も「良い行いがないと救われない」とか「こういう人になったら救われる」とか福音以外のルールを付け加えてしまうことがあります。特に熱心な人ほどその傾向があります。聖書は「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」とさえ言います。(ガラテヤ5.4)
大事なことはイエス様の恵みと愛を信じることです。ああでなければ、こうでなければ、と言う前に、イエス様の恵みを数えて感謝しましょう。イエス様を信じた人は御霊が与えられます。そして御霊が与えられた人は必ず変えられます。はれるや!
(ガラテヤ3.11)
律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。
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