パウロは「割礼は必要ない」と聖書全体を通して何度も何度も強調しています。ところがなんと、そのパウロがテモテに割礼を受けさせます。エルサレムにいる使徒たちや長老たちの会議で「異邦人にとって割礼は必要ない」(使徒15章)と結論が出たばかりなのに、です。
(1-3)
それからパウロはデルベに、そしてリステラに行った。すると、そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ人女性の子で、父親はギリシア人であった。彼は、リステラとイコニオンの兄弟たちの間で評判の良い人であった。パウロは、このテモテを連れて行きたかった。それで、その地方にいるユダヤ人たちのために、彼に割礼を受けさせた。彼の父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。
聖書は「割礼は必要ない」と導かれた経緯を多くの紙面を割いて僕らに説明しています。(使徒15章)その直後にパウロがテモテに割礼を受けさせる!という真逆のことを伝えます。これはパウロがどんなに自由であるか、そして神様と人を愛する自由な御霊の導きの中で生きていることを素晴らしく現しています。パウロは救われるためには割礼が必要、という意見には断固反対です。…ですが、人をつまづかせないためならば、喜んで自分の意見を手放し割礼を受けさせても構わない、という柔軟さがあります。
割礼を受けさせた理由は「その地方にいるユダヤ人たちのために」(3)です。テモテは「信者であるユダヤ人女性の子で、父親はギリシア人」(1)でした。テモテは「兄弟たちの間で評判の良い人」(1)でしたが、当時ユダヤの会堂では割礼を受けてない異邦人は説教することが許されていませんでした。これから訪問する知らない町では彼の父親がギリシヤ人、というだけで異邦人扱いをされ、多くのユダヤ人が「テモテは割礼を受けていない」ということだけで悩んだり疑ったりしてしまいます。そのような余計な心配やつまづきを取り除くためにパウロはテモテに割礼を受けさせます。
パウロは他の個所で、人々が救われるためなら、柔軟に相手に合わせます、と言っています。
(1コリント9:19-20)
私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。
ユダヤ人たちに福音が届くためには、相手の文化に合わせて自由にスタイルを変える必要がありました。イエス様による福音は絶対に変わることがありませんが、その周辺の作法や文化や方法は自由です。神様と相手を愛するために自分の考えを手放すことが御霊の導きです。
(1コリント7:19)
割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。
福音の中心でなく、作法ややり方のことで心配しすぎたり、つまづいてしまったりする弱い僕らです。僕らにはイエス様のため、そして相手のために自分のやり方を手放す自由が与えられています。また、僕ら自身が「○○でなければならない」とガンコになってしまう弱さがあります。全ては自由です。大事なことは神様を愛し、隣人を愛し、そして自分を捨てて御霊に明け渡すことです。余計なことに縛られず、福音のために自分の全てを差し出すことができますように。ハレルヤ!
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