メッセージを聞いても読んでも心に入らない時があります。逆にめちゃくちゃ神様が自分に語りかけていると思える時もあります。それは、話す人の上手さとか、聞く側の心がけではなく、神様ご自身の働きです。もちろん準備も話し方も大事です。でも、神様ご自身が主権を持って聞く人の心を開き語りかけてくださいます。パウロは決して話が上手ではありませんでした。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ったばあいの彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。」と言われることもあったようです。(2コリント10.10)
パウロはピリピという町に行って伝道しました。その町には少人数ですが旧約聖書の神様を信じて安息日に集まって祈る女性のグループがあったようです。彼女たちは神様は信じていますが、まだイエス様が旧約聖書が預言しているキリストであることは聞いたことがなかったようです。パウロが祈りつつ話した時、神様はそのグループの中のリディアという女性を選び、パウロの話を信じるようにしてくださいました。
(12-14)
そこからピリピに行った。この町はマケドニアのこの地方の主要な町で、植民都市であった。私たちはこの町に数日滞在した。
そして安息日に、私たちは町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まって来た女たちに話をした。
リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。
リディアと彼女の家族はイエス様を信じてバプテスマを受けました。イエス様を信じたことも、バプテスマを受けたことも100パーセント神様によることです。彼女は信じるとすぐにイエス様を伝える働きを応援したいと思ったようです。自宅をパウロと仲間達のための宿泊場所として、食事やその他必要なものを提供しました。もともと彼女は「ティアティラ市の紫布の商人」(14)とあり、財力があったようです。この後、この家はピリピの集会場所となって行きました。(使徒16.40)
(15)
そして、彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けたとき、彼女は「私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください」と懇願し、無理やり私たちにそうさせた。
神様が語りかけてくださらなければ聖書はただの活字だし、説教もただのつまらない話です。でも、神様は僕らの心を開き、語りかけてくださいます。そして主が僕らに語りかけてくださると、僕らの人生が変わります。主によらなければ僕らは聞くことさえできません。でも、主が選んでくださった神様の羊は必ずそのことばを聞くことができ、そして、イエス様について行きます。メッセージをする人も、聞く人も、全ては主によります。主に求めましょう。主が今日も僕らの心を開いてみことばを聞かせてくださいますように。主が今日も僕らの口を通して誰かにイエス様のことを伝えさせてくださいますように。
(ヨハネ10:27-28)
わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。
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