イエス様は罪人を愛し招いておられます。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」とおっしゃいました。(ルカ5.31-32)教会は立派な人の集まりでないし、正しい人の集まりでもないです。神様は罪人を憐れんで、見捨てないで、拾って、愛して、癒して、くださっています。だから教会でどっちが正しいどっちが偉いかの議論は全く意味がありません。教会の交わりにはイエス様の犠牲への感謝が流れています。
教会の中心は十字架です。この十字架はキレイなものではなく、イエス様の時代の死刑です。しかも公開死刑です。しかも、なるべく長時間苦しむところ見せるためのものです。あの十字架の犠牲が、あの苦しみこそが神様の愛の証です。愛とはほんわかしたものでなく、犠牲を払うことです。神を裏切り、神を疑い、神を嫌う罪人のために苦しみ命を失うことが神様の愛です。
神様は姦通し裏切り続ける続ける妻を愛しなさい、と預言者ホセアに言います。これは神様の犠牲の愛を表しています。
(1)
主は私に言われた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」
この女は夫ホセアを裏切り、ほかの男を求め続けます。性欲のままに獣のように男を貪り続ける妻です。そんな妻を愛しなさい、と神様は言います。彼女は性欲のままに男を貪っているだけでなく、体を提供すれば収入にもなると思って喜んで他の男を求めていました。『私の愛人たちの後について行こう。彼らはパンと水、羊毛と麻、油と飲み物をくれる』とあります。(2.5)
この妻は家を出て行って、やりたい放題のすえ落ちぶれて売春宿か、偶像礼拝の神殿娼婦として雇われていたようです。
普通だったら戻ってきて欲しくない妻です。まるで公衆便所のようになってしまった妻です。あんなところに何十年もいた人と関わりたくない、まして受け入れたくない、と思うのが本音です。
ところが神様は違います。夫ホセアにあなたの方からその妻のところに行って、取り戻して、愛しなさい、と言います。理由はそれが神様の愛の現れだからです。
(1)
主は私に言われた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」
夫ホセアは言われた通りにお金を払って落ちぶれた、汚れきって醜くなった妻を取り戻します。
(2-3)
それで私は、銀十五シェケルと、大麦一ホメルと大麦一レテクで彼女を買い取り、
彼女に言った。「これから長く、私のところにとどまりなさい。もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはいけない。私も、あなたにとどまろう。」
妻だったら家族だったら連れ戻すのにお金を払う必要がなかったはずです。でも、彼は代金を払って奴隷を買い戻すように落ちぶれた妻を取り戻し、もう一度一緒に生活することを決めます。神様がホセアにこれをさせたのは神様の愛を具体的に表すためでした。
神様にとってイスラエルは愛する妻です。でも彼らは裏切り続けます。そして新約聖書は教会のことをキリストの妻、花嫁と表現しています。汚れた罪人がイエス様に犠牲を払って取り戻され、愛されている妻、それが教会です。
(エペソ 5:25-27)
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
キリストは教会を愛し、苦しんで命を捨てて汚れた私たち教会を受け入れ、きよめてくださいました。そのように、今度はあなたもしなさい、と言われています。ホセアが落ちぶれた妻をゆるし、犠牲を払って受け入れたように、イエス様が落ちぶれた私たちのために十字架で苦しんで赦してくださったように、そのように愛し合いなさい、と聖書は言います。
これはガマン大会ではありません。相手のために犠牲を払うことは天で喜ばれ、聖霊による喜びです。上記のエペソ人への手紙の箇所は「御霊に満たされなさい」という文脈で書かれています。「互いに愛し合いなさい」の意味は、「あなたの側で忍耐と犠牲を相手のためにささげなさい」という意味です。
ホセアが何度裏切られても妻のために犠牲をはらって赦し続けることができたのは、それが神様から与えられる愛だからです。
これは人間からは絶対に出てきません。愛は神様から与えられる賜物、プレゼントであって、僕ら人間の中から出るものではありません。愛ゆえの患難や苦しみを喜べる理由は、イエス様を信じた人には、神様の愛が聖霊によって注がれているからです。
(ローマ 5:3 )
患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、(…中略…)なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
愛するための忍耐はガマンでなく、喜びです。聖霊による忍耐と愛は天の喜びです。教会の仲間は互いに相手に犠牲を払って重荷をおいなさい、と言います。
(ガラテヤ6:2)
互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法(互いに愛し合うこと)を全うしなさい。
あなたの隣人があなたを苦しめ、困らせることがあります。皆さんはその人を無視し、避け、軽んじることもできます。会社なら、難しい人にもう来なくていい、と言います。
でもイエス様は違います。その人を避けず、祈り、向き合い、その重荷や苦しみを引き受けて一緒に歩みます。「罪人を招くために来たのです」と言われます。これは聖霊による愛です。僕らが他の人の罪ゆえに苦しみ、重荷を負わされたなら、それはイエス様が十字架にかかって愛してくれたことのほんの少しだけ体験することになります。イエス様は「互いの重荷を負い合い」なさい、と言います。
イエス様は私たち罪人を招いておられます。教会は立派な人の集まりでないし、正しい人の集まりでもないです。
ひどい罪人を神様は見捨てないで、拾って、愛して、癒して、くださっています。不愉快な家族や仲間、兄弟姉妹がいたら、あなたの側が犠牲を払い、赦し、愛し、受け入れましょう。その忍耐は聖霊が与えてくださった忍耐の愛です。僕らから出たものではありません。相手が悪くても、あなたの側で重荷や犠牲を引き受けましょう。これがイエス様の愛の表れです。その犠牲は天で喜ばれています。イエス様の御霊があなたの中に住んでおられます。イエス様の愛は、あなたが相手を赦し、忍耐し、祝福する決断と祈りに現れます。
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