僕ら人間は神様のことばを聞いて生きるように作られています。ちょうど、羊が羊飼いの声を聞き分けることで安全な場所や餌場に導かれて生きるようです。人間は神様の羊のようです。神様のことばを聞くことはいのちを得ることです。イエス様は言われました。
(ヨハネ10:27-28)
わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
旧約の時代は神様のことばは預言者を通して与えられ、預言者や祭司はそれを人々に教え、それによって人々は神様との関係も隣人との関係も守られました。羊飼いの声を聞かなくなった羊はさまよい歩き、危険にも野獣にも気づかずに死んでしまいます。同じように神様のことばを聞かない人は全てに迷い出て滅びます。ホセアの時代、イスラエル中が偶像礼拝や淫行や盗みや殺人が当たり前になっていました。落ちぶれた原因は神様の教えを聞かなくなったことです。
(1-2)
イスラエルの子らよ、主のことばを聞け。主はこの地に住む者を訴えられる。この地には真実もなく、誠実さもなく、神を知ることもないからだ。呪いと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。
神様のことばを失ったイスラエルは滅びます。本来、神様のことばが彼らのいのちでした。ところが、祭司も預言者さえも神様のことばを教えず、彼ら自身も神様を忘れて、神様に退けられて行きます。
(6)
わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしもあなたを退け、わたしの祭司としない。あなたがあなたの神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れる
今も僕らに必要なのは聖書に啓示された神様のみことばです。この時代、神様を知ることなしに、いけにえなどの儀式や行事だけが続いていました。それはもはや形だけの儀式であって、実際は人々のささげ物が祭司のもうけのためだけになっていました。祭司たちは神様ヌキでささげものだけを貪っています。
(8-9)
彼らは、わたしの民の罪のきよめのささげ物を貪り食い、民の咎に望みをかけている。
民も祭司も同じようになる。わたしはその生き方のゆえに彼らを罰し、その行いのゆえに彼らに報復する。
イエス様の時代も同じく神殿は礼拝というビジネスの場所になっていました。イエス様はそれを激しく怒ります。
(マルコ 11:15-17)
イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」
みことばを失った人々は酒と淫行の中をさ迷い、滅ぼされてしまいます。
(17-18)
エフライムは偶像にくみしている。そのなすに任せるがよい。
彼らは酒を飲んでは、淫行にふけり、淫らなふるまいで恥を愛してやまない。
今も教会は人ごとではありません。みことばは人を守り生かします。(詩篇119.50など多数)みことばを失った教会は酒と淫行にふけり、虚しい儀式や献金目的の虚しい組織だけが残ります。みことばを失うことはいのちを失うことです。どんなにこの世で繁栄しても人数が増えても最後に恥となるなら意味がありません。
(7)
彼らは増えるにしたがって、ますますわたしに罪を犯した。わたしは彼らの栄光を恥に変える。
みことばは僕らを守ります。今日も僕らがいのちのことばを求めますように。
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