2023年1月2日月曜日

詩篇1篇

 なくなる幸せ、なくならない幸せ。詩篇1篇


1,幸いなことよ


「幸いなことよ」とありますけども、これはすごく強調された感嘆文で、あぁなんて幸せなんだろう!!と言う表現だそうです。アダムクラーク先生がこんなことを書いていました。


1. 神は人を幸福のために創られた。

2.すべての人は幸福になりたいという願望を持っている。

3. すべての人は、不幸を忌み嫌う。

4. 幸福は、すべての人の間で追求される壮大な目的である。

5.しかし、人間の心は非常に歪んでおり、幸福が見つからないところに幸福を求める。不自然で不道徳であり幸福を運ぶのに不適切なものに幸福を求める。

6.幸福を得るための本当の方法がここに示されている。


全体を読むと、なくなってしまう幸せとなくなることのない幸せが書いてあります。


●なくなる幸せ


1,幸いなことよ悪しき者のはかりごとに歩まず罪人の道に立たず嘲る者の座に着かない人。


一節の「はかりごと」と言うのは助言とかアドバイスと言う意味です。

悪しき者のアドバイス、助言はなくなってしまう幸福です。どのぐらい中身がないのか、後半に書かれています。


4,悪しき者はそうではない。まさしく風が吹き飛ばす籾殻だ。

5,それゆえ悪しき者はさばきに罪人は正しい者の集いに立ち得ない。

6,まことに正しい者の道は主が知っておられ悪しき者の道は滅び去る。


籾殻は中身がありません。穀物の大事なところはすでになく、中身がなくて軽いものです。

この当時農夫たちは脱穀した後、いらないゴミとそして、それを分けました。空中に放り投げて、そして風でその入らないものは飛んで行き、消えて行きました。そのようなものだといいます


良さそうに見えるアドバイスなんだけども、ひとときだけで後でがっかりさせる助言です。

素敵なプレゼントをと思ってリボンついて包装紙バッチリの箱が箱だけだったって言う経験ありますか?

すごくよく見えるかもしれません。期待させるかもしれません。でも神様の前には何の意味もないむしろ滅ぼされ捨てられてしまうアドバイスです。そういう話に乗らない人はなんて祝福されているんだろう、聖書は言います。


1 罪人の道に立たない人。


罪には的外れと言う意味があります。すごく良さそうな話なんだけどもでもそのゴールはずれています。

矢を放つ時には、その時はあってると思うけども、30メートル先の的にはずれています。同じように、良さそうに見えても、神様の前には完全にずれている、そのような道に立たない人がなんて幸いなんだろうと言っています。


そして 1あざける者の座につかない人。


神様の言ってることを見下して馬鹿にしたり、あるいは神様の言葉を信じて喜んでる人たちを上から見下すそういう人は不幸です。その人に幸せはありません。共通してるのはみんな一見良さそうに見えると言うことです。高ぶって嘲る人の話は一見勝ち組に見えるかもしれません。神様のことを考えないアドバイスは一見幸せに見えるかもしれません。でも中身のない穀物のように軽くて、表面だけの話です。その通りにしてみたらあまり幸せではなかった、とか、長持ちしなかったと言うものです。


私たちみんな幸せになりたいんです。さっきアダムクラーク先生の言葉を紹介した通りです。


5.しかし、人間の心は非常に歪んでおり、幸福が見つからないところに幸福を求める。不自然で不道徳であり幸福を運ぶのに不適切なものに幸福を求める。

6.幸福を得るための本当の方法がここに示されている。


聖書は言います。悪しき者のアドバイスに歩まない人はなんと幸せだろう、と。

逆に言うと悪しき者のアドバイスに従う人は不幸だと言うことです。


手に入れてみたら幸せじゃなかった、と言うことは私たちの周りでも経験します。お金があれば幸せになれると思った、でもお金を持てば持つほどストレスと不安が増えていったとか、あの会社に入れば、あの大学に入ればあの資格を持てば幸せになれると思った、でもそうでもなかった、など。僕もイエス様を信じるまでは必死でした。認められたくて、幸せになりたくて。僕の場合は音楽で認められさえすれば幸せになれると信じて欲しくて欲しくて努力しました。たまに「すごいね」って言われて嬉しいんですが、でも、ほんとにはかない一時的な満足感です。だから、次々と満足を手に入れ続ける必要があります。


聖書に出てくるサマリアのある女性は異性に幸せを求めました。いろんな男と結婚して今は6人目と同棲中。彼女は男が私を愛してくれると言うことに満足を得ていたからです。でも男性による満足はつかの間でした。この人も違った、あの人も違った、別れては次の人と一緒になって、を繰り返し、すごく渇いていたけども、本当の幸せ知らなかった人です。


飲んだり、食べたりすることで満足を得るのは一番簡単かもしれません。でも幸せであり続けるには食べ続けなければならないし、飲み続けなければなです。


CS ルイスは、次のように書いています。

「神様は、私たちの幸福への欲望が弱すぎると感じておられます。私たちは中途半端な生き物で、無限の喜びが提供されるのに、その前に酒とセックスと野心と海での休日を楽しむことであまりにも簡単に満足してしまいます。」


聖書の中にも実例はたくさんあります。


あるところにお金持ちがいました贅沢に過ごしていました。(ルカ 16:19)

(ルカ 16:24)

彼は叫んで言った。(…中略…)私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』『私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』


彼はお金持ちで、なんでも願いが叶い嘲るものでした。貧乏な人、能力のない人、家の前にいる乞食ラザロを嘲っていました。

聖書は、高ぶりの座につかなかった人こそが幸いと言います。高ぶりの座につく人の最後が悲惨だからです。


(ヤコブ 5:1-3)

聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。

あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、

あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。


宝は天に蓄えなさい、とイエス様は言われます。

どんな富も名誉も美しさもそれが神様を誉めたたえないものなら虚しく消えていく籾殻です。


どんな人も老いて弱くなっていきます。いくら人気があっても、神様の前に富まないならその最後は悲惨です。


1,幸いなことよ悪しき者のはかりごとに歩まず罪人の道に立たず嘲る者の座に着かない人。


4,悪しき者はそうではない。まさしく風が吹き飛ばす籾殻だ。

5,それゆえ悪しき者はさばきに罪人は正しい者の集いに立ち得ない。

6,まことに正しい者の道は主が知っておられ悪しき者の道は滅び去る。



●なくならない幸せ


さていよいよなくならない幸せです。


2,主のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。

3,その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える。


でも今回僕大発見がありまして、これはディボーションしなさい、とか聖書通読しなさい、と強制的に言ってることと全然違ったな、ということです。本当に祝福された人幸いな人と言うのはまず喜んでいます。牧師がうるさいから聖書を読むこととは全然関係ありません。喜んでいるんです。


原文を調べると求めている、とか願っている、望んでいると言う意味もあります。その人が自分から欲しがって、それを喜んで、昼も夜も神様の教えを欲しい、欲しいと思っている人こそ幸いです。人が何かを楽しんでいる場合、それをやるように言う必要はありません。彼はそれを自分からします。


じゃあ、どういう人が神様のことばを喜び、もとめるか。その人は自分の中から良い言葉も行動も出ないことがわかってる人です。自分の言葉に満足している人は求めません。自分から良い言葉も愛も出てこないことを知って、心が渇いて、主の教えを欲しがり、喜ぶ人です。その人こそ与えられて「なんて幸なんだ」と聖書が言います。


しかもよく読むと3節読むとその人は流れのほとりに植えられた木って書いてあります


大事なのは「植えられた」って言うことです。受け身です。自分で移動してきたんじゃなくて、植えてもらったんです。一番いいところに。その人が幸いだと聖書は言います。

神様によって1番いいところに置かれている人こそ祝福されています。

自己努力ではなく神様によってそこに置かれました。最高の水の場所にもう置かれています。


この流れは神様から流れる命の水の川です。命の水が僕らを癒し僕らを生かし新しくします。神様から流れる川が全てを変えてくださいます。そのことは聖書で何度も預言されています。


イエス様がおっしゃった言葉


ヨハネ 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」


イエス様が「聖書が言っているとおり」と言うと旧約聖書の預言とか律法です。そして生きている水の川が流れ出て、人々を生かし癒すと言う預言が沢山あります。


エゼキエル 47:9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。

この水がはいると、そこの水が良くなるからである。

この川がはいる所では、すべてのものが生きる。


エゼキエル 47:12 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。

その水が聖所から流れ出ているからである。

その実は食物となり、その葉は薬となる。


同じような預言はイザヤ書にもたくさんあります。


イザヤ 44:3 わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。


潤いのない地に、です。乾いた地に、豊かな流れを与えてくださいます。潤いのない人手をあげてください。その人に豊かな霊的な水が流れてきます。


続きが素晴らしいです。「わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」

さっきのエゼキエルでは、神様の命の水の川が流れるとその中の生き物もその周りの植物も非常に良くなると言い、そして、イザヤ44.3ではいのちの水のことを「私の霊を注ぐ」と言い換えています。さらに言い換えて、「祝福」を注ぐ、と言っています。


イエス様はそのことを指して、


ヨハネ 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」


そしてその続きを読むと、これは御霊のことを言っていることがわかります。


ヨハネ 7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。


今日の箇所はその水の川、御霊の川のほとりに植えられた木だと言います。

「植えられた」誰が僕らを川のほとりの木のように植えてくださったのか?それは神様です。

木は自分で移動できない。神様がそのほとりに植えてくださいました。


本当は干からびて死んでいくだけの命だったのに、神様が新しく川のほとりに植えてくださいました。聖霊の注ぎをいつも受けて新しくされるようにしてくださった。これが僕らの特権だし祝福です。


自分からは何も出てきません。自分で自分を成長させることはできない、自分からは何も生まれない、と言う自覚のある人は幸いです。

イザヤも言いました。潤いのないところに豊かな流れを、乾いているところに私の霊を注ぐ、わたしの祝福を注ぐ、とおっしゃいました。


イエス様はおっしゃいました。


ヨハネ 7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

ヨハネ 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」


ーーーー


2,主のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。

3,その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える。


そのうまくいかなくても永遠の喜びを得ています。この世では評価さないかもしれません。

でも、神様はご存知です。


6,まことに正しい者の道は主が知っておられ


何か良いことをしたとしても、右の手でしたことは左の手にも知られません。誰にも知られなくて大丈夫です。人前で自慢したりラッパを吹かなくて大丈夫です。神様が喜んでくださっていて、喜びがその人には永遠に尽きることなく溢れ出しています。


2,主のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。

3,その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える。


人は嘲るかもしれません。宗教なんてやってかわいそう貧乏でかわいそうというかもしれません。

でもその人は尽きることのない祝福と喜びがあります。その実を結んでいます。その葉は枯れることがありません。永遠の幸福を得ています


今日のメッセージは、なくなる幸せがなくならない幸せか皆さんどっちを選びますか?と言う問いです。


素晴らしいところに連れてこられ、尽きることのない命の川の水を僕らはもらっています。

だのに、僕らは自分から、消えてしまうこの世のささやかな幸せで自分を満たそうとします。神様を礼拝するよりも、何十倍も時間をこの世のこと、消えていくことに使おうとします。その人はこの世のことで満足しようとしている人です。


幸いな人、なくなることのない幸いは尽きることのない命の水に満たされ、聖霊に満たされて、神様のみことばを求め、喜び、満足する人です。それはなくなることのない幸せです。


すでに、最高の場所に植えられた木です。それを拒否することができるのはあなただけです。

神様はすでに最高のところにあなたを植えてくださり、命の水の御霊が与えられ、聖霊は神様のことばをを喜ぶようにしてくださり、あなたを満たし、何をしても栄え、実を結ぶようにすでにセッティングしてくださっています。


こんなに素晴らしい、なくならない幸福が与えられているのにそれを拒否し、命の祝福を受けないように、繁栄しないように実らないようにしているのはあなたにとっては何でしょう。


自分を手放し、自分で自分を満たそうとするこの世の小さな目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢を手放して、

普通に御霊に明け渡し、吸収すれば、成長し、その葉は枯れることなく実ります。しかもそれは永遠です。


一年の最初にこの箇所が与えられたのは神様の恵みです。


ーー考えてみましょうーー


①あなたに住んでおられる聖霊が主のみことばを喜び、あなたを満たし祝福しようとしていることをイメージしましょう。


②それを無視して他のもので満足しようとしていることはあるでしょうか。


③御霊に自分のすべての時間を明け渡す祈りをしましょう。

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