聖書は神様が世界をどのように意図して作ったのか、そしてこの先世界はどのように変わっていくのかを教えています。そして、歴史の中心的な国はイスラエルです。神様はイスラエルを作り、今もイスラエルは神様に特別に愛されている祝福の国です。ですが、彼らは神様に背き、キリストに反抗している人が大多数です。それでも神様は今もイスラエルを愛しています。
(ローマ 10:21)
またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」
神様のイスラエル愛は変わりません。
ちょうど、反抗する放蕩息子が、お父さんの財産を持って家出してめちゃくちゃな生活をしても、
それでも、お父さんはその反抗し堕落する子どもを愛し続け、いつ帰ってるかと待っているかのようです。
(ローマ 11:1)
すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。決してそんなことはありません。
(ローマ 11:11) それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。決してそんなことはありません。
(ローマ 11:28) 彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。
イスラエル人たちは頑固にイエス様を拒否しますが、その背きが用いられて救いは異邦人に広がりました。
使徒パウロはどこの町に行っても、まずイスラエル人を見つけて、イスラエル人の会堂でメッセージをします。ほとんどの場合は、それを聞いた人たちの意見が別れ、パウロはイスラエル人たちから嫌われ、追放されます、そして、また次の街に行って宣教する、というパターンです。イスラエル人たちがクリスチャンたちを迫害して追い出すことによって福音が世界中に広がりました。
イスラエルの頑固さが用いられる、というのは僕ら人間の思いを超えた神様の方法です。
(ローマ 11:11)
かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び…
(ローマ 11:12)
もし彼らの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となる…
神様のなさることは人の考えを超えています。
罪をしてはならない、とおっしゃる神様が、人の罪や反抗さえも良いご計画に変えてしまいます。
東栄福音キリスト教会が札幌にできたのも、1966年以降に中国の共産党によってOMFの宣教師が追い出された結果です。神様は悪いことをさえ用いて良いご計画をなさることができます。
今日の箇所は私たち異邦人のクリスチャンが思い上がらないように、と警告しています。僕ら異邦人のクリスチャンは、本当はイスラエルに与えられた祝福を頂いている身分です。
(16節) 根が聖ければ、枝も聖いのです。
「聖い」とは「神様のもの」という意味です。根っこが神様のものならば、枝も神様のものです。これもイスラエル人たちのことを言っています。だのに、神様のものじゃなかった僕らが今ちゃっかり接ぎ木されて、まるで祝福された子どものようになっています。これは恵みです。
(17-18節)
もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、
あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
神様のイスラエルへの愛と祝福を、それと全く同じように僕ら異邦人が受けています。
実を実らせない悪い野生種の枝だった僕らが、素晴らしい祝福のオリーブの樹に接木されて、実をならせるように変えられました。これは恵みです。誰も誇れません。
9章では滅びの器、怒りの器だったのに、捨てられず、壊されず、陶器師である神様によって丁寧に作り変えられているようだ、と書かれていました。
(ローマ 9:24-25)
神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。
僕らは本来捨てられて当然の怒りの器、実りのない枝でした。
だのに、今は神様のイスラエルへの祝福と愛という素晴らしい養分をこちらが先にいただいています。
まるでアブラハムの子孫のように、愛されています。だから、威張らないように、誇らないように、と聖書は言います。
神様のイスラエル人への愛は今日も変わりません。
そして僕ら異邦人はイスラエル人たちが背いたことで、先に祝福をいただくことになりました。
愛されているイスラエル人でさえ、不信仰になり折られることがあるなら、僕らもその可能性があります。神様から離れてしまう可能性は十分にあります。高ぶらないで気をつけなさい、と聖書はいいます。
(20-22節)
そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。
もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。
見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。
悪い枝であった僕らでさえ接ぎ木されて、実を結ぶようになったなら、本来の枝であるイスラエルは簡単に戻れます。彼らは救われる、と聖書は言います。
(23-24節)
彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。
もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。
僕らがイエス様にくっついて祝福され喜んでいるのは100パーセント神様のあわれみです。
威張らないで、他の人を、特にイスラエルを見下さないで感謝しましょう。自分の行いを誇ったり、福音よりも人の態度とか言動を重視するようになったら、簡単に折り取られてしまいます。
(コリント 10:12)
ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
僕らは拾ってもらった悪い枝、接ぎ木してもらった悪い枝です。
イエス様が罪人を愛し、罪人のために命を捨てて祈ってくださったように、僕らも祈りましょう。高ぶらないで、感謝して、迷子になってる人たちのために祈りましょう。
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