イエス様と一緒に歩いていたのは「大勢の群衆」と聖書にあります。フォロワー数が上がると僕らは喜びますが、イエス様が求めておられるのは単に人数が増えることではありません。弟子として全てを捨てて献身する人が増えることです。
(25-27)
さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
この箇所は献身することのススメです。献身の意味は人生全部をイエス様にささげることです。大事な家族よりも、そして自分の命よりもイエス様を愛さないなら、弟子にはなれません。マタイの福音書では「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」とあります。(マタイ10:37)弟子とは、どんな大切な人よりもイエス様を優先していく人です。自分の命よりも、です。どんな財産よりも、です。
(33)
そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。
僕らに与えられている財産も家族も大事なものですが、「自分の財産」ではありません。イエス様から預かっているものです。イエス様と僕らの共同管理です。これは神様のもの、これは自分のもの、と分けることはできません。全部がイエス様のものです。もし、「自分の財産」と思って握りしめ抱え込んでいるものがあるなら捨てるようにとイエス様はわいれます。「自分の財産」はもうありません。「自分の家族」もありません。財産も家族もイエス様のものです。そして弟子はそれを預かり管理します。全部神様の財産、神様の家族です。今だに「自分の」「私の」と欲しがる人は弟子になることができません。「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」と主は言われます。
この話は神の国は盛大な宴会のようであり、全てが整えられ与えられる世界であることの話の続きです。(16.16)自分で手に入れようとする畑や牛や家族よりもイエス様の弟子として全て手放した方がずっと祝福されます。捨てたとしても、失うものは何もありません。それどころかもっと豊かに与えられ預かることになります。
イエス様は「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」と言われます。(27)「自分の十字架」の意味ですが、当時、死刑囚は十字架を背負って刑場まで歩かされました。「自分の人生は終わりました」という看板をいつも背負っているようです。死刑囚はもう自分の人生はありません。もちろん自分の財産もありません。同じように、弟子はもう自分の人生ではありません。ローマ人への手紙は「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる」と書いています。(ローマ6.8)
罪ある僕らは他人でも財産でも自分のモノにしたがります。神にも仕えたいけど、自分にも仕えたい、自分の思い通りにしたい、王様になりたい、と思うのが罪の基本です。イエス様にも仕え、自分にも仕えるのは無理です。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。」(マタイ6.24)
イエス様は弟子として全てを捨てて献身する人を求めておられます。弟子になることの犠牲の大きさをよく計算して考えなさい、とおっしゃいます。
(28-29)
あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう。
中途半端な態度では弟子になることはできません。塔を完成させるにはそのための費用や犠牲が必要だし、それを計算しない人はいません。でも、大きな犠牲だとしても塔を造ることには価値があります。自分の全てを捨ててイエス様の弟子になることは全てを手に入れることです。
イエス様のために全てを手放して弟子になる人は意味のある、味のある塩のようです。塩は味だけでなく防腐剤としても使われました。塩は良いものです。
(34-35)
塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。
土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられます。聞く耳のある者は聞きなさい。」
自分の計算も、計画も経験も手放して従うことは、僕らが思う以上の価値ある人生へと導かれる方法です。
もし、僕らがイエス様に明け渡さず、今だに自分の、私の計画、僕の計算、自分の経験と言っているのなら神様にとっても、この世界にとっても、何の役にも立たない人生のようです。全ては神様のものです。明け渡す人生は永遠に価値のある人生です。自己中な僕らはもうすでにキリストと一緒に一度死にました。そう思いなさいと聖書は言います。(ローマ6.11)もう、人生は僕らのものではなく、イエス様のものです。イエス様はそれを喜んでくださいます!
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