僕らはいつも自分は正しいと思いたいし、認められたいものです。ところが、神様の評価は違います。自分にがっかりし、弱さや醜さを認める人を神様は受け入れ、赦し、愛してくださいます。反対に、自分は正しいと思い、誇り、高ぶり、人を見下す人は神様に嫌われます。
(9-14)
自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
良いことができたとすれば、それは神様から与えられたものです。僕らから出たものはありません。「自分から良いものが何も出ない」と自覚する心貧しい人は幸いです。良い行いの全ては神様からのプレゼントです。僕らは自慢できるようなものは何もありません。ただ、与えられただけです。自分にがっかりする時、感謝しましょう。自分から何も出ないことがわかる時、感謝しましょう。うまくいかない時、愛せない時、感謝しましょう。僕らから出るものは何もありません。ただ、神様が憐れみ、愛し、ゆるし、認めてくださっています!ハレルヤ!
(マタイ 5:3-6)
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
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